俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

 柳生は、社会や人間に対して嫌な感情を覚えている。しかし、小説として人間を書いているうちに、やはり完全には嫌いになれないものなのだなとも気付かされた。

 物語を書き続けていると、嫌悪や煩わしさといったことを一切忘れて、どこか知らない遠い海原を眺めているような、そんな不思議な感覚が余韻として彼の後ろ髪を引いた。この時にはもう、書くことをやめられなくなっていた。

 あの不思議な感覚が一体どこから来るのか、いつかその答えに辿り着きたいと思っていたのかもしれない。

 小説家になりたいと心に決めてから、何十、何百という物語を書いたのか分からない。ただ、毎日ひたすら書いた。書けば、自分の知らない何かが少しでもこの手に掴めるのではないだろうか、と期待してそれを予感した。

 彼がしがない大学生だった当時は、飲み歩く人間がどれだけいただろうか。都会には夜すら霞むほどの怪しげな電光飾が灯り、様々な銘柄や国の酒が出回っていた。

 現実はとても冷たく、十代、二十代、三十代と節目の青春は彼らに痛みも与える。酒を飲み、煙草を吸い、恋の火遊びをする。そうしなければ、押し潰されそうになる心をどうにも出来ないという、そんな時代でもあった。