俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

 愛していた、世界中の誰よりも君が好きだった。産まれたばかりの娘をこの手に抱いた時、初めて父親になった喜びを噛みしめた。

 その感情が洪水のように、柳生の胸に押し寄せた。


 人と関わり生きていく世界で、今も何処かで起こっているであろう愛の話を、書き続けたいと感じていた頃の自分を思い出した。

 柳生は、涙腺がゆるむのを振り払うように立ち上がった。藤森が彼を盗み見て、しばし戸惑うように間を置き、それからベンチに置いていた鞄を手に取った。

「先生、お忙しい中こうして時間を作って頂き、本日は本当にありがとうございました――」
「藤森君」

 名を呼ぶと、彼が言葉を切って瞬きをした。

 お互い、強い日差しにはうんざりしている。赤い帽子をかぶり続けることの我慢は、そろそろ限界に近いだろうとも思われた。いや、それはただの口下手で社交の狭い自分の言い訳だ。
 けれど、そんな稚拙な理由を一つ作るくらい、今は許される気がした。

 もう一度、君と出会えるのなら、今度は俺の方から歩み寄っていけるだろうか。世界で一番君のことが可愛くて仕方がないのだと、そう娘に伝えられるだろうか。

 柳生は踏み出す一歩を、関わり合うことの大切さを教えてくれた彼女の存在を背中に感じた。来世で会えたのなら、なんて、自分らしくもないロマンチックな言葉だと思った。あまりにもファンタジーで非現代文学的で――

 それなのに信じたくなって、涙腺がゆるみそうになった。

「急ぎの用事がないなら、少し喫茶店で休憩しないか。さすがに暑さでくたくただ」

 立ち止まっていた二人の影が、帽子を頭から降ろした後に並びあい、同じ方向へと足を進め始めた。


                             了