俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

 船乗りが、漆黒の海から見る灯台の光のように、彼女は柳生にとって、たった一つの道導だった。自分は小説家になれるのだろうか、という見えぬ未来の不安やもどかしさの中、その一点の柔らかな光りを頼りに彼は進んできた。

 彼女を想って、作品の中に船乗りの遺した言葉として「あの光りを見よ」という一節を入れた。それが大切な事だったのに、自分は明るい未来への歩みに慣れてしまい、光り続けている目印に目を向けることを忘れてしまったのだと気付いた。

「彼女は、きっと、あなたを心の底から嫌えなかったと思います」

 藤森が帽子をかぶり直して立ち上がり、もう一度同じことを言って、東京タワーの天辺を眩しそうに見上げた。柳生は、しっかりと立つ彼の後ろ姿に、彼が経験したであろう人生を思って、それから自分も東京タワーへ目を向けた。

 もう一度、小説を書いてみよう。

 不意に、そんな気持ちが湧き上がるのを感じた。瞼を閉じるまでもなく、女編集長の曽野部や、W出版社で自分の担当編集者をしている岡村や、友人の苅谷、ラーメン屋の店主やアルバイト君や水崎、最近出会った多くの人々の事が思い出された。

 書かなければという衝動に心が震える。俺は、人を書きたいのだ。