俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

 藤森が弱々しく首を振って、「私には分かりません」と素直な気持ちを口にした。

「彼女は、あなたのことを多くは語りませんでした。けれど、手紙にも書いたように、私には彼女が、あなたを心の底から嫌っていたとも思えないのです」

 藤森はそう言って、亡き家族への深い愛が見てとれる潤んだ瞳を少し細めて、鞄を開けると中を少し探った。

「ようやく部屋を片付けられた時に、彼女の古い荷物の中から見付けた物があったのです」

 鞄の中から取り出した物を、彼は柳生に手渡した。それは茶色く色褪せ、表紙のすっかりくたびれた一冊の本だった。

 柳生は、表紙にこびりついた埃を指でこすり落とした。すっかり薄くなった印字に見入り、忘れかけていたその本の題名を口の中で呟いた。ずっと大事に持っているわねと告げた若き日の妻の姿が、鮮明なままに彼の両眼を貫いた。


――『愛しい二人の静かな夜明けに』


 それは柳生が学生時代に書き殴った小説の中で、デビュー作とは至らなかったものの、初めて地方の新人賞を受賞し、記念に一冊だけ本にされた短編小説だった。