俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

 ベンチに両手をついて、緊張を解すように大きく息を吐いた。不意に煙草が欲しくなり、ポケットから携帯灰皿を探し出して、胸ポケットから煙草を一本引き抜く。

 安物のターボライターで火をつけ、煙を深く吸い込んで夏空に向かって吐き出した。だいぶ歩いた後の煙草は、時間の流れさえ忘れさせてしまうくらいに美味だ。

 しばらく、煙草の煙が空中に広がっては、消えてゆく様子をぼんやりと眺めた。実際に会ってどうするのかも思い浮かんでいないくせに、こうしてココに腰かけ、時刻を確認する自分がいることを、他人事のように考えてみる。

 煙草を再び口にくわえ、深く、深く吸いこんだ。人差し指と中指の間に挟んだ煙草のフィルターが熱くなり、とうに短くなっているのに気付いて、ようやく携帯灰皿に押し込んだ。

 その時、名を呼ばれたような気がして、柳生は帽子の鍔の下にある視線を動かせた。
 三十代半ばを過ぎたくらいの男が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。清潔なシャツとズボンを着た、品の良さそうな青年体躯の男だった。やや撫で肩で、人の良さそうな彫りの深くない顔に、少し垂れた優しげな瞳をしていた。