俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

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 八月の中旬、午後四時前。柳生は軽装のシャツとスラックスのズボン姿で、慣れない真っ赤なカジュアル帽子をかぶって町を歩いていた。

 東京の中心街は、夏休みを過ごす若者達で賑わっている。地面からは少し傾いた日差しの熱が漂い、それぞれ向かう先の違う群衆の熱気が、蒸し暑さを増幅させているようで余計に暑かった。
 そもそも、赤い帽子は柳生の私物ではなかった。赤い色の、しかもカジュアルな帽子なんて経験がなかった。岡村から「人混みに溶け込みつつ、さりげなく目にとまる」と自信たっぷりに推薦されて、渋々拝借したものだ。

 帽子を借りた当初の予想通り、家を出てすぐに後悔した。
 人混みに溶け込めるどころか、ショーウィンドウに映った自分の姿は、恐ろしくカジュアル帽子の似合わない仏頂面の中年男だった。

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 事の発端は先々週になる。
 その日、柳生が例のW出版社の応接間で一人考えているところへ、岡村がひょっこり顔を覗かせた。

「どうしたんすか、先生? 暇してるんすか? 僕、チョコパイを持っているんですけど――」

 そこで、岡村はだぼだぼのジーパンのポケットに手を突っ込み、がさごそと探った。