俺の名前を呼んでくれたのは、君くらいなものだった

「そうねぇ。あの人は鈍感で、不器用で、頑固な人だったわ」

 彼女はそれとなく語りました。大学当時、出会った時に「あっちへ行け」という男は彼くらいなもので、周りの人間が『静(しずか)』という名前を忘れてしまうほど、名に似つかぬ凶暴な顰め面をさげた頑固者であったらしい、と言うのです。

「しずか?」
「そう、静寂のセイと書いて、一文字で『静(しずか)』。――そうね、今思えば、彼をそう呼んであげられたのは、私くらいなものだったかしらね」

 彼女はそう言って、顔を歪めるように微笑みました。

 ああ、もう話したくないのだなと察して、私はそれ以上尋ねることができませんでした。だって、愛し合っていたから、二人は結婚したはずなのです。

 前の夫に対して、彼女が今、どう思っているのかは訊けませんでした。そこに私が知るような、憎悪はないような気がしたからです。名前を呼んであげていたのが自分だけだったと語った時、彼女の皮肉そうに笑みは、彼女自身にも向けられたものにも感じましたし、どこか同情しているようにも思えました。