夏の終わり。
 月のない夜道を、私、かなめはひたすら走り続けた。
 八歳で奉公に出て十八の今日まで殆ど休みなく働いてきた。だから私が行くあては一か所しかなかった。
 おっかさんは今でもあの家にいるだろうか。
 私を奉公に出したそのお金で、病気は治っただろうか。
 昔は手紙が来ていて、私も手紙を書いていたけどいつからか手紙が届かなくなった。
 おっかさんは生きている。
 そう信じて今日まで生きてきた。
 けれどもう限界だった。
 盆も正月も休みなく働いて、自由になれる日を夢見て今日までがんばってきたけど……
 家までどれくらいかかるだろう?
 たぶんすっごく遠い。
 半日はかかるかな。夜の街は正直怖くて仕方なかった。
 でも早く逃げないと、店から逃げないと私捕まったらきっと殺されるもの。
 店の坊っちゃんである利一さんが部屋に来たかと思ったら……思い出しただけで恐怖と怒りで涙が溢れてくる。
 もちろん走り続けることなんてできなくて、私は途中休んだり井戸の水を拝借してなんとか都会の町を抜け、私が住んでいた川向こうの町にたどり着いた。
 朝日の中に懐かしい光景が広がる。まだ、お日様が出たばかりだから皆寝ているだろうな……
 長屋の並ぶ中に、私が住んでいた家を見つけた。
 小さくてぼろいけど、おっかさんと一緒にいた時間はとても幸せだった……
 もうずっと会っていないおっかさん、身体が弱くてふせることが多くて私を育てられないからと、私を商人の家に奉公に出した。
 私はふらふらになりながら、小屋の扉に手を掛けた。
 中は暗いし、人の気配を感じない。それでもわずかな望みをかけて戸を開く。
 立てつけのわるい戸はぎぎぎ……と大きな音を立てて開いた。
「おっかさん!」
 希望を込めて声を上げたけれど、小屋の中にあったのは絶望だった。
 誰もいない。
 いくら見回しても誰も見当たらない。
「あ……え……?」
 家を間違えた……?
 震える足で一歩一歩中に入る。
 畳まれた、見覚えのある布団。見覚えのあるお茶碗もある。
 ここは私が住んでいた家だ。でも、誰もいない。
 嫌な予感がしながら私は草履を脱いで中に入る。
 おっかさん、どこに行ったんだろう?
 きょろきょろと見回し、そして、私は部屋の隅にある座卓の上にある物を見つけた。
 白木で作られた位牌。そしてそこに書かれた名前と、小さな線香たて。
 ……どういうこと……?
 私はふらふらとその座卓に近寄り、その場に座り込んで位牌を見つめた。
 そこに刻まれた「文」という文字と「信女」という文字はなんとか私でもわかった。
 おっかさんの名前は「文」だった。
 ってことは……おっかさんは死んだの?
 だから……ここ数年、手紙が届かなかったの?
 かたかたと震えていると、背後で音がした。
「あれまあ……もしかして、かなめちゃん?」
 聞き覚えのある声に、私はゆっくりと振りかえる。
 そこにいたのは近所に住んでいるおばさんだった。
 白髪まじりに着物を着たおばさんは、戸をしめるとこちらへと歩み寄り、私の隣にしゃがみ込んでいった。
「ひさしぶりねえ。文ちゃんが死んでお店に知らせを送ってもらっても帰ってこなかったからよっぽど忙しかったんだねえ」
 と言い、おばさんは私の背中をさすった。
 知らせ……?
 私は驚きおばさんを見つめた。
「知らせって……どういうこと……?」
 震える声で尋ねると、おばさんは目を丸くする。
「あんれえ? 文ちゃんが死んだ時、あんたが働いてる店に手紙送ったんだけど……」
 その言葉を聞いて、私は小さく首を振った。
「……知らない……手紙なんて知らない……」
 まさか、店の誰かが私宛の手紙……隠した?
 私の言葉を聞いたおばさんは言葉を失い、黙って背中をさするばかりだった。
 昨日の夜、店の坊っちゃんである利一さんに襲われ、店を逃げ出してきた。
 利一さんの仕打ちと、辛かった日々が頭の中を駆け巡る。
 唯一の心残りはお嬢さんの存在だろう。
 私よりひとつ下の、りおお嬢さんは奉公人である私を友達扱いしてくれた。
 字の読み書きができない私に字を教えてくれたのも彼女だ。
 でも……利一さんに襲われて、おっかさんの死を知らせる手紙も隠されたと知り何もかもが崩れた。
 ……私が生きている意味なんて、あるの?
「お腹すいたろう。あさげ、食べていきな」
 おばさんにそう言われ、私は黙って小さく頷いた。