地上に降りそそぐ雨は安らぎを届けてくれる。不思議と雨の日は、人が雨を嫌っているのか喜ぶ者は数少ない。
私もそのうちの1人だった。今でも雨は嫌いだ。でも、ほんの少しだけ好きになることができたのは、紛れもない。君のおかげだった。
小鳥たちの囀りが朝の訪れを告げてくれる。昨日は雨音で目が覚めたが、やはり朝の目覚めに聞くのは小鳥の囀りに限る。
雨は私が最も嫌いな天気の1つだ。雨はなぜか、気分が落ち込んでしまうし、それに加え髪の毛を可愛くセットしても湿気で崩れてしまう。まさに、女子の敵でしかない。
前髪命の女子高校生からすると、雨の朝ほど憂鬱な日はないかもしれない。
「おい、紗奈いつまで寝てんだ。さっさと起きろ」
「えー、もうちょっとだけ寝させてよ〜」
「あー、じゃあ俺、先行ってるわ」
「えー。ごめんって! すぐ準備するから待ってて!」
慣れ親しんだ朝のやりとり。年頃の女の子の部屋に入るなんて、ありえないかもしれないが、私たちは2歳の時からの付き合いなので、ほぼ家族みたいなもの。
所謂、幼馴染ってやつ。
「わかったから、早く着替えてくれ」
毎朝私の部屋に来て起こしてくれる彼。樽石雨とは、幼馴染でありながら、3年前からお付き合いをしている相手でもある。
告白したのは、確か私からだった気がする。互いの気持ちはバレバレだったのにもかかわらず、中々告白してこない雨に耐えきれず、私から放課後2人で歩いている時に告白したのだ。
告白された当の本人は、不本意な表情をしていたが、そんなの告白してこないやつが悪い。
ゆっくりとベッドから起き上がり、クローゼットの中から制服を取り出し、ベッドへと放り投げる。ベッドの上に雑に置かれた制服に着替えるため、パジャマのボタンに手をかけ、ひとつずつボタンを外していく。
今更、雨の前で着替えることに対しての恥じらいは一切ない。なにせ、私たちは何年も共に育ってきた存在なのだから。
ま、そう思っているのは私だけらしいが...
時折、彼が見せる恥じらいの表情を見るのが、個人的には楽しみでもある。実際、今も恥ずかしいのか私に背を向け、着替え終わるのを待っている。
別に私は付き合っているのだから、雨になら見られても良いのだけれど。
「ごめん、お待たせ!」
「終わった?」
「うん。終わったよ!」
「じゃあ、早くいくぞ。毎回遅刻しそうになるの結構嫌なんだからな」
「はぁ〜い」
雨は私と違って言葉遣いは乱暴だが、かなりしっかり者。決まり事は必ず守る上に、提出期限の物などは余裕を持って提出している。夏休みの宿題などは、夏休みが始まって1週間以内には全て終わっているのが当たり前。
見習わないといけないとは頭では思っているが、体は思い通り動いてくれないことばかりだ。
部屋の壁に貼り付けられたカレンダー。今日...6月12日。私たちが付き合って3年目を迎える日。
「今日で私たち付き合って3年だね!」
「あぁ、そうだな」
どこか寂しげな様子の彼。記念日でめでたい日のはずなのに、雨の表情は冴えないまま。
もしかして、どこか体調でも悪いのだろうか。顔色は普段とは変わらないようにも見えるが...
「具合悪いの?」
「いや、大丈夫。ただ・・・いや、なんでもない」
雨にしては珍しい反応。6月12日。私たちの記念日。雨に気持ちが引き寄せられたのだろうか。
私まで気持ちが沈み始めてきた気がする。それに、なんだろうかこの違和感。
何かを忘れてしまっているような...あぁ、だめだ。思い出せないや。
私たちの気持ちを代弁しているのか、頭上には分厚い灰色の雲が空一面を覆い尽くしていた。
雨が降りそそいでくるのも時間の問題。
「なぁ。雨って好きか?」
「へ?」
想定外の質問に驚いてしまう。
「あぁ、雨って俺のことじゃなくて、天気の方の雨」
「そ、そっちね。てっきり雨の方かと」
「どっちだよ」
面白かったのか笑う彼。よかった。さっき見せた彼の表情が消え去り、雲の隙間から差し込んできた太陽の光みたいに笑っている。
「天気の方だよ!どっちも雨だから分かりにくいね」
「仕方ないだろ。俺の両親に言ってくれ。雨の日に生まれたから雨なんて単純な名前をつけた両親にな」
「もし、晴れの日だったら『晴れ』だったのかな?」
「流石にそれはないだろ。せめて『太陽』とか、『日向』辺りが無難だろ。いや、俺の両親はわからんな。それより、雨は好きか?」
「んー、嫌い!」
「どうして?」
雨が好きなんて人は、存在するのだろうか。私の知っている人の中にそんな人は存在しない。みんなして口々に雨の日だと、うんざりした表情を浮かべている気がする。
「え、だってさ。髪の毛は崩れるし、雨だとテンションが下がるっていうか・・・なんか好きじゃない」
具体的な理由があるわけではない。だからといって、好きかと聞かれたら好きとは言えない。
「みんなそうだよな。明確な理由はないんだよ。もちろん、濡れるのは嫌ってのもわかる。俺も自分の名前が雨じゃなかったら、好きではなかったと思うし。むしろ、嫌いだったと思う」
「雨は好きなの?」
「うん。好き」
雨の『好き』という言葉が、妙に心地よくて、つい自分に対して向けられたものだと思い込んでしまいそう。
「雨はさ、晴れや曇りの日には見えない景色を見せてくれるじゃん。雨粒が草木に滴ってたり、水たまりに俺らの世界が反射して見えたり、傘によって狭まった視野から見える景色は普段とは一味違って見えるんだよ」
私の気持ちとは無縁につらつらと雨の良さを語る彼。
「なんとなくはわかったけど、それなら晴れの日にも雨の日と同じように良さがあるよ」
「もちろん、天気には季節と同じようにそれぞれの良さがあるよ。一概にどの天気が良いなんて言うことはできない。ただ、雨を嫌いにならないでほしいって俺は言いたい」
ポツポツと私たちの頭に小さな滴が空からこぼれ落ちてくる。一滴、また一滴と止まることなく。
足元のアスファルトに点々とした模様が顕になる。数分もしたら、一面真っ黒に染まってしまうだろうが...
「ねぇ、私傘持ってきてないよ〜!」
「あぁ、大丈夫。俺普段から折り畳み傘2つ常備してるからひとつ使っていいぞ」
「さっすが〜雨!」
女子である私よりも遥かに女子力が高い雨。少しは見習いたいところではあるが、ガサツな私には当分無理そう。
雨から折り畳み傘を貸してもらい、慎重に傘を開く。普通の傘に比べて折り畳み傘は、壊れてしまいやすいのでガサツな私にはかなり注意が必要。
「濡れて風邪引かないようにな」
ずるい。普段ツンツンとしている分、不意にくる優しさに簡単に心を奪われてしまう。
3年経った今でも、私の彼に対する恋心は色褪せることがない。むしろ、昨日より今日の方が色濃くなっている気がする。
「雨ってさ、なんかわからないけど悲しくなる。それが、テンションが下がる原因なのかもしれないけど。なんでだろ、誰かが泣いているみたい・・・」
「泣いてる?」
「うん。よくさ、小さい時言われてたじゃん。雨はね、神様の涙なんだよって。時々思うんだ。神様はいなくても、この雨は誰かの涙なんじゃないかって。そう思うと、雨って切なく感じちゃう」
「紗奈にしては良い感性だな。切ないって感じは俺もよくわかるよ。濡れると冷たかったり、雨の日は人の数も極端に減るから、寂しさや孤独感が強まるよな」
そうだ。私はそれを言いたかった。昔から雨の日は、外で遊べず家の中で窓から映る景色を眺めていた。それが、私にとっては嫌で仕方がなかった。
晴れていたら外で遊べるのに、雨のせいで家の中にいないといけない。それに、家にいるのは正直嫌だった。両親が共働きでひとり雨が家に当たる音を聞きながら、寂しく両親の帰りを待っている時間が辛かったんだ。
濡れるから嫌いなんじゃない。雨は孤独感を強めてしまうから嫌いなんだ。傘という雨を遮る物が、私を閉じ込めている気がして寂しかったんだ。
「うん。雨はやっぱり寂しいよ」
ポツリと呟いた声は、傘を打ち付ける雨音によって消されてしまった。隣にいる彼にも聞こえてはいないだろう。今のだけは聞こえないでほしい。
「今も寂しいか?」
「うん。寂しくなったかも」
「そうか。俺がずっと側にいてやるから。これから先、紗奈が寂しくなるようなことがあっても俺がいるよ。だから、安心しな」
「は、はい」
プロポーズなのか。雨にしては珍しい言葉に、動揺してしまいうまく返事を返せない。
「晴れの日も雨の日もずっといるから。孤独なんて気持ちには俺がさせない。そのうち、雨の日も好きって言わせてやる」
「た、楽しみにしてるね!」
気丈に振る舞っているのがバレてはいないだろうか。大袈裟に声を出していないと照れて顔が染まってしまいそうだ。
雨脚は弱まるどころか、さっきよりも強さが増し始めた。地面に打ち付ける雨が勢いのあまり跳ね返って、私の靴だけでなく靴下までを湿らす。
「つ、つめたーい!靴下までびしょびしょだよ」
「俺も制服の裾の部分まですっかり濡れたわ。どっかで雨宿りでもするか」
「え、それじゃ遅刻しちゃうよ」
スッと携帯が私の視界を遮る。
「これ、見てみ」
雨が差し出した携帯の画面には、大雨による生徒の身の安全を確保するために今日は臨時休校と書かれていた。
「え、まじで? 嘘じゃないよね?」
「マジだって。学校からのメールだし。紗奈のメールにも届いてるはずだけど」
ごちゃごちゃと整理されていないリュックの中から携帯を探し出す。まるで、ガラクタに囲まれたおもちゃの中から宝物でも探し当てるかのよう。
「あ、あった! あっ・・・」
「どうした?」
「充電0%だって。昨夜、動画見たまま寝落ちしたから、それが原因かも・・・」
声には出さず、落胆している彼。日常茶飯事のことなので、きっと『またか』とうなだれているのだろう。
「まぁ、いいや。とりあえず、どこかで雨宿りでもするか」
「そうだね。どこか良いところあるかな。あ、昔私たちがよく遊んだ公園は?あそこなら屋根付きのベンチあったはず」
「あったな。んじゃ、そこ行くか」
「うん!」
一向に止む気配のない雨に打たれながら、私たちは先ほどまで歩いていた道を歩き直していた。
行きで見た景色と帰り道の景色は、同じ道であるはずなのに別のものに感じられる。路上に設置された自動販売機の向きであったり、住宅街を彩る木々たちの微かな生え方の違い。
それら全てが先ほどまで見ていた景色とは違って見える。雨もまた然り。
傘を打ち付けていただけに見えた雨が、今は緑に生い茂る木々を打ち付けているのに目が奪われてしまう。1枚、また1枚と雨の勢いに耐え切れず、負けてしまった葉っぱたちが地面へと舞い落ちる。
地面に落ちた葉は、道路脇を流れる側溝に吸い込まれるように、土砂降りして溢れかえった雨と共にどこかへと流されてゆく。
まるで、川の上に流して遊ぶ笹舟のようにどこまでもどこまでも。
普段は雨というものを嫌っていたためか、雨がもたらすものから目を逸らしていた。自分に降りかかる雨の悪影響ばかりを見てしまっていたせいで。
しかし、こうして雨を違った視点から見てみると、なかなか面白い。土砂降りのせいで、私たちの歩く道路は浸水していた。
くるぶし付近まではすっぽりと水に浸ってしまうほど。別世界にでも迷い込んだかのような景色。
不便なことに変わりはないが、たまにはこういった日常もいいな。
雨の勢いは変わらぬまま。むしろ、先ほどよりも傘を打ち付ける音が強まっている気がする。
「紗奈! 見えてきたぞ! 早く行こうぜ!」
「あ、ほんとだ」
正面に見えた懐かしき公園。小さい頃、雨と2人で走り回り、何度も転び足を擦りむいて泣いた公園。
昔はあんなに大きく感じられた公園が、今ではかなりちっぽけな公園に見えてしまう。
公園は以前とは姿形を変えてもいないのに、違って見えてしまうのは私たちが成長した証なのだろう。
見上げていたはずの滑り台が手を伸ばせば届いてしまうなんて、あの頃の私たちには想像できるはずもなかった。
「あったぞ、ベンチ。あそこだけ雨を防げてるな。早く行こうぜ」
「うん」
雨でぬかるんだ地面を歩く。どろっどろになってしまった地面の上を歩くのは、意外にも困難。慎重に歩かないと地面を踏んだ拍子に、泥が私たちを襲ってくる。
靴下までならなんとかなるが、制服に跳ねてしまっては厄介。靴下と違って、そう簡単には洗濯ができないものだから。
それなのに無性に楽しんでいる自分もいる。
「ついた」
「ついたね。靴下はもうだめだね。制服もところどころ濡れちゃったし」
「だな。俺も膝から下はすっかり濡れたわ」
開いていた傘を閉じると、傘の先端部分から傘に付着した水滴が勢いよく地面へと流れていく。
隣にいる彼もパサパサと傘から水滴を取ろうとしているが、一向に水滴を拭うことができていない様子。
傘をパチンと広がらないようにボタンで止め、ベンチの脇の方に立てかける。ベンチも濡れていないか心配だったが、屋根があるおかげでベンチは無事だった。
座るとお尻が少しだけひんやりとする。それは、彼も同じだったらしく「つめたっ」と呟いていたのを聞いて笑ってしまった。
6月ということもあり、雨に濡れると普段よりも増して肌寒い。
衣替えをしていなく、ワイシャツだけなので風邪を引いてしまいそうだ。隣にいる雨も同じようだが、彼に関しては濡れたせいで腕の部分のシャツが若干透けている。
もしかしたら、私も...
「えっ」
肩にかけられたそれからは、彼が普段から身に纏っている柔軟剤の匂いがほんのりと香った。
「それ・・・着てろよ。寒いだろ?」
「で、でも雨も濡れてるよ・・・」
「俺はいいから。紗奈に風邪引かれる方が困る。紗奈が隣にいない学校に行ってもつまらねぇーしな」
「あ、ありがと」
彼がかけれくれたのは、寒い時に雨がよく着ていた灰色の無地のジップアップパーカーだった。
袖に腕を通すと、彼の温もりを感じているみたいに柔らかな熱に包まれる。
「あったかい。ねぇ、雨も本当は寒いんでしょ。さっきから震えてるよ」
「ば、ばれた?少しだけ寒いわ」
「そっか。じゃあさ・・・」
彼との間に作られていたスペースをグッと体を寄せて縮める。距離が縮まったことで、彼の息遣いや呼吸のリズムが屋根を打ち付ける雨の音よりもはっきりと私の耳にまで届いてくる。
彼の濡れたシャツに頭をちょこんと乗せる。濡れていて冷たかったが、彼の体温がほんのりと感じられた。それだけで、私は良かった。
彼の体温を肌で感じ取れて、私は幸せだった。好きな人とこうして肌を寄せ合うことができる今を、私はいつまでも大切にしていきたい。
「さ、紗奈!」
私の突然の行動に驚いたのか、普段は発することのない高音の声が耳に届く。
「えへへ、もう少しだけこのままでいさせて」
「わ、わかった。その代わり風邪を引いても知らないからな」
「じゃあ、もう少しくっついた方がいい?」
「そ、それはやめてくれ。俺の心臓がもたないから」
恥じらっているのが彼の様子から伝わってきて嬉しい。クールなはずの男子が照れている姿は、女子からすると最大のご褒美なのかもしれない。
かっこいいと思っている雨に可愛いという感情を抱く日が来るなんて思ってもいなかった。これからも少しずつ彼の違った一面を見つけていけたらいいなと思う。
「止まないね」
「あぁ、そうだな。いつまで降り続けるんだろう」
「もしかして、私たち家に帰れないままここで一晩過ごすとかある?」
「あるわけないだろ。走ったら、ここから家まで5分で着くんだから」
「だよね〜」
ロマンチックなことを私なりに考えて言ってみたが、悉く彼の正論によって論破されてしまった。どうやら、こうゆうところは可愛げはないらしい。
話に乗ってくれたら、益々可愛いと思えたのに。現実は甘くはないようだ。特に、彼に関してはロマンチックを求めた私がよくなかったのかもしれない。
「見てみろよ」
「ん?」
私たちの座っているベンチの前に広がる大きな池。当然、落下防止のために公園と池の間には柵が設けられいるが、高校生の私たちならすぐにでも乗り越えられる程度の高さ。
「池に雨が降り注いで、すげぇーよ」
何に興奮しているのかわからないが、かなり語彙力が低下してしまった雨。確かに、目の前にある池は豪雨によって、池の表面が無数の波紋が広がっている。
餌を求めて鯉たちが、水面下に顔を出しているみたいにたくさんの波紋が浮かぶ。
「何がすごいの?」
「池の表面付近に霧があってさ、なんか幻想的じゃない?何か神秘的な何かが出てきそうで」
「確かに幻想的で癒される光景だね。奥に森があって鹿とかが出てきたらすごく神秘的だ〜」
「うわ! それめっちゃいいな! 俺らが何かに選ばれた感があっていい!」
隣ではしゃぐ彼を見ているだけで、心の内側から体がぽかぽかと温まる。彼の笑った顔が私に幸福感を与えてくれているんだ。
ベンチから立ち上がり、屋根の外へと歩み出していく雨。当たり前のように、空から降ってくる雨に打たれ数秒もしないうちに全身濡れてしまう彼。
「な、何してるの!」
「・・・なんか雨に打たれたくなった」
「なんでよ! 風邪引いちゃうよ! こっちおいでよ!」
「行きたいな・・・そっちに。でも、俺はもうそっちにはいけないよ」
「どうして、そんなに風邪引きたいの?」
「若気の至りってやつだよ」
意味がわからない。雨が何を言いたいのか、私の頭ではさっぱり理解できない。
「どうしたのよ、雨。今日なんか変だよ。朝も少し暗い表情してたし」
雨に打たれているせいか、彼の表情がはっきりと視認することができない。私も彼の元へと行けたら良かった。でも、なぜか本能的にそっちには行くことができないような気がした。
「なぁ、紗奈」
「なに?」
「雨は好きか?」
「え」
今日2度目の質問。一言一句変わらない質問に戸惑ってしまう。確かに私は登校途中に質問されて「嫌い」と答えた。それなのに、どうしてもう1度聞いてくるのだろう。
それに、今回のはさっきのとは違う気がする。2つの意味がかけられているような...
天気の「雨」と樽石「雨」の雨。不思議と2つのことを一緒に聞かれているみたいだ。
雨は嫌いだけれど、雨は好き。言葉にすると矛盾しかないが、これは私と彼にしか理解できない言葉だろう。
よし、答えは決まった。
「これから好きになっていくよ。雨のことを好きになったようにね!」
フッと笑う彼。予想外の答えだったのか、彼の顔には笑みが漏れていた。ただ、心の底から笑えていたのかは私にはわからない。もしかすると、雨に紛れて彼は泣いていたかもしれない。
雨はずるい。泣いている姿さえ誤魔化せてしまえるのだから。
「俺を好きになってくれて。それと、雨を好きになろうとしてくれて・・・嬉しいよ」
「ねぇ、雨。どこに行くの?」
「さぁな。あの空から見守ってるかもしれない。この雨は、神様が与えてくれた俺への弔いだったのかもな。最後に紗奈と見た景色が、俺の大好きな雨の日で良かった」
「なんでお別れみたいな言い方をしてるの。私たちはまだこれから先の人生が・・・」
「もうすぐ分かるよ」
手を伸ばそうにも伸ばせない。伸ばしたら確実に届く距離にいるはずなのに、足がこれ以上動いてくれそうにない。
私の瞳に映る彼も同じように、その場に立ち尽くしたまま雨に打たれ続けている。神様の涙を全身に浴びながら、その瞳は私に向けられていた。
「雨・・・どうして。こっちに来てよ。私を置いて行かないでよ」
「ごめんな。俺、幸せだったよ。紗奈と結婚できて、子供にも恵まれて、本当にいい人生だった。最後は、紗奈に看取られて逝くこともできたしな」
何を言っているの。私たちはまだ高校生のはず...これから先の人生なんて...
「樽石紗奈さん。俺に幸せを与えてくれてありがとう」
雨にかき消されるように告げられた言葉を聞きながら、私は真っ暗闇へと意識を奪われた。
意識を失う途中にも雨が降りそそぐ音だけは、はっきりと耳まで届いた。
窓を打ち付ける雨音で目が覚める。目から大量の雨が溢れていたのか、枕が冷たく濡れていた。
寝たまま壁に貼り付けられたカレンダーを見つめる。2082年6月12日。あの日から、すでに60年以上の月日が経過してしまっていた。もう何度目かもわからぬ、私たちの記念日も今日で終わりを迎えたのだろう。
私の隣に眠っている彼の皺くちゃな手からは、以前のような熱が感じられない。すっかり冷え切ってしまった手。長い年月をかけて、私たちの思い出と同じように刻まれた皺を指先でなぞる。
「とうとう逝ったのかい。雨」
長年彼の隣で人生という長くも短い道を歩んできた私だからわかる。隣に眠る彼が、もう2度と目を覚さないことを。
昨晩は、いつも通りの1日を過ごし、寝床に着いた。今日もいつも通りの1日を過ごすはずだったんだ。
だから最後に会いに来てくれたのだろう。夢の中で...いや、私たちの遥か昔の淡い青春をしていた頃の思い出に身を重ねて。
懐かしかった。制服姿の雨を見るのなんて何十年ぶりだろう。色褪せない思い出と化した記憶が、身近なものとなって感じられた。
つい最近まで高校生だったように。楽しかったな。雨と過ごしてきた何十年もの人生。悲しいこと、辛いことも多かったが、それ以上に幸せで満たされていた。
何度彼と一緒に雨の降る日を見てきただろうか。数え切れないほどの雨を見てきたが、それも今日でおしまいのようだ。
一体私はあとどのくらい1人で雨を眺める日が来るのだろう。きっと数えきれないくらいだ。
眠っている彼の顔は穏やかで、今にも起きて雨降っている今日を喜び、私に雨の良さを伝えてきそう。
「あなた。雨は今でも私は嫌いですよ。でもね、ちょっぴり好きにもなりましたよ。あなたが雨の良さを伝えてくる日々は、本当に幸せでしたよ。何度も何度も同じ話を繰り返しては、嬉しそうに笑うあなたの顔を見ることができて、私は・・・幸せだった」
ポロリと目からこぼれ落ちる雫。頬を伝い、布団へと落ちていく様は雨を模倣しているかのよう。雨が降った後の地面と同じように、布団にも小さな染みが浮き上がる。
「これから私は何度、あなたのいない雨を眺める日が来るのでしょうかね。その度に思い出してしまう。あなたが雨を嬉しそうに眺める横顔を。嫌いです。孤独は嫌いです。でも、雨の日はあなたが見守ってくれるのでしょ」
冷たくなった彼の頬に手を当て、優しく皺のひとつひとつを撫でる。熱が彼に伝わってほしいが、私の持つ熱では温めることができないほど、彼は冷たかった。
「ねぇ、雨。私をそこから見守ってておくれ。私も雨降る日は、あなたのことを何度も思い出しますから。どうか、私のことを空から眺めててくださいな。暫しの別れです。ありがとう、雨」
年甲斐もなく声を上げて泣いたのは何年ぶりだろうか。私の泣く声は、雨が窓を打ち付ける音によってかき消されてしまうくらい弱く、そして冷たい雨だった。
私と同じように彼も空から泣いているだろう。この雨は神様ではなく、彼の涙なのだ。
私の涙が彼の頬に落ち、キラリと光る。最後に見た彼の涙は、私が降らせた雨によって作られた涙だった。
私もそのうちの1人だった。今でも雨は嫌いだ。でも、ほんの少しだけ好きになることができたのは、紛れもない。君のおかげだった。
小鳥たちの囀りが朝の訪れを告げてくれる。昨日は雨音で目が覚めたが、やはり朝の目覚めに聞くのは小鳥の囀りに限る。
雨は私が最も嫌いな天気の1つだ。雨はなぜか、気分が落ち込んでしまうし、それに加え髪の毛を可愛くセットしても湿気で崩れてしまう。まさに、女子の敵でしかない。
前髪命の女子高校生からすると、雨の朝ほど憂鬱な日はないかもしれない。
「おい、紗奈いつまで寝てんだ。さっさと起きろ」
「えー、もうちょっとだけ寝させてよ〜」
「あー、じゃあ俺、先行ってるわ」
「えー。ごめんって! すぐ準備するから待ってて!」
慣れ親しんだ朝のやりとり。年頃の女の子の部屋に入るなんて、ありえないかもしれないが、私たちは2歳の時からの付き合いなので、ほぼ家族みたいなもの。
所謂、幼馴染ってやつ。
「わかったから、早く着替えてくれ」
毎朝私の部屋に来て起こしてくれる彼。樽石雨とは、幼馴染でありながら、3年前からお付き合いをしている相手でもある。
告白したのは、確か私からだった気がする。互いの気持ちはバレバレだったのにもかかわらず、中々告白してこない雨に耐えきれず、私から放課後2人で歩いている時に告白したのだ。
告白された当の本人は、不本意な表情をしていたが、そんなの告白してこないやつが悪い。
ゆっくりとベッドから起き上がり、クローゼットの中から制服を取り出し、ベッドへと放り投げる。ベッドの上に雑に置かれた制服に着替えるため、パジャマのボタンに手をかけ、ひとつずつボタンを外していく。
今更、雨の前で着替えることに対しての恥じらいは一切ない。なにせ、私たちは何年も共に育ってきた存在なのだから。
ま、そう思っているのは私だけらしいが...
時折、彼が見せる恥じらいの表情を見るのが、個人的には楽しみでもある。実際、今も恥ずかしいのか私に背を向け、着替え終わるのを待っている。
別に私は付き合っているのだから、雨になら見られても良いのだけれど。
「ごめん、お待たせ!」
「終わった?」
「うん。終わったよ!」
「じゃあ、早くいくぞ。毎回遅刻しそうになるの結構嫌なんだからな」
「はぁ〜い」
雨は私と違って言葉遣いは乱暴だが、かなりしっかり者。決まり事は必ず守る上に、提出期限の物などは余裕を持って提出している。夏休みの宿題などは、夏休みが始まって1週間以内には全て終わっているのが当たり前。
見習わないといけないとは頭では思っているが、体は思い通り動いてくれないことばかりだ。
部屋の壁に貼り付けられたカレンダー。今日...6月12日。私たちが付き合って3年目を迎える日。
「今日で私たち付き合って3年だね!」
「あぁ、そうだな」
どこか寂しげな様子の彼。記念日でめでたい日のはずなのに、雨の表情は冴えないまま。
もしかして、どこか体調でも悪いのだろうか。顔色は普段とは変わらないようにも見えるが...
「具合悪いの?」
「いや、大丈夫。ただ・・・いや、なんでもない」
雨にしては珍しい反応。6月12日。私たちの記念日。雨に気持ちが引き寄せられたのだろうか。
私まで気持ちが沈み始めてきた気がする。それに、なんだろうかこの違和感。
何かを忘れてしまっているような...あぁ、だめだ。思い出せないや。
私たちの気持ちを代弁しているのか、頭上には分厚い灰色の雲が空一面を覆い尽くしていた。
雨が降りそそいでくるのも時間の問題。
「なぁ。雨って好きか?」
「へ?」
想定外の質問に驚いてしまう。
「あぁ、雨って俺のことじゃなくて、天気の方の雨」
「そ、そっちね。てっきり雨の方かと」
「どっちだよ」
面白かったのか笑う彼。よかった。さっき見せた彼の表情が消え去り、雲の隙間から差し込んできた太陽の光みたいに笑っている。
「天気の方だよ!どっちも雨だから分かりにくいね」
「仕方ないだろ。俺の両親に言ってくれ。雨の日に生まれたから雨なんて単純な名前をつけた両親にな」
「もし、晴れの日だったら『晴れ』だったのかな?」
「流石にそれはないだろ。せめて『太陽』とか、『日向』辺りが無難だろ。いや、俺の両親はわからんな。それより、雨は好きか?」
「んー、嫌い!」
「どうして?」
雨が好きなんて人は、存在するのだろうか。私の知っている人の中にそんな人は存在しない。みんなして口々に雨の日だと、うんざりした表情を浮かべている気がする。
「え、だってさ。髪の毛は崩れるし、雨だとテンションが下がるっていうか・・・なんか好きじゃない」
具体的な理由があるわけではない。だからといって、好きかと聞かれたら好きとは言えない。
「みんなそうだよな。明確な理由はないんだよ。もちろん、濡れるのは嫌ってのもわかる。俺も自分の名前が雨じゃなかったら、好きではなかったと思うし。むしろ、嫌いだったと思う」
「雨は好きなの?」
「うん。好き」
雨の『好き』という言葉が、妙に心地よくて、つい自分に対して向けられたものだと思い込んでしまいそう。
「雨はさ、晴れや曇りの日には見えない景色を見せてくれるじゃん。雨粒が草木に滴ってたり、水たまりに俺らの世界が反射して見えたり、傘によって狭まった視野から見える景色は普段とは一味違って見えるんだよ」
私の気持ちとは無縁につらつらと雨の良さを語る彼。
「なんとなくはわかったけど、それなら晴れの日にも雨の日と同じように良さがあるよ」
「もちろん、天気には季節と同じようにそれぞれの良さがあるよ。一概にどの天気が良いなんて言うことはできない。ただ、雨を嫌いにならないでほしいって俺は言いたい」
ポツポツと私たちの頭に小さな滴が空からこぼれ落ちてくる。一滴、また一滴と止まることなく。
足元のアスファルトに点々とした模様が顕になる。数分もしたら、一面真っ黒に染まってしまうだろうが...
「ねぇ、私傘持ってきてないよ〜!」
「あぁ、大丈夫。俺普段から折り畳み傘2つ常備してるからひとつ使っていいぞ」
「さっすが〜雨!」
女子である私よりも遥かに女子力が高い雨。少しは見習いたいところではあるが、ガサツな私には当分無理そう。
雨から折り畳み傘を貸してもらい、慎重に傘を開く。普通の傘に比べて折り畳み傘は、壊れてしまいやすいのでガサツな私にはかなり注意が必要。
「濡れて風邪引かないようにな」
ずるい。普段ツンツンとしている分、不意にくる優しさに簡単に心を奪われてしまう。
3年経った今でも、私の彼に対する恋心は色褪せることがない。むしろ、昨日より今日の方が色濃くなっている気がする。
「雨ってさ、なんかわからないけど悲しくなる。それが、テンションが下がる原因なのかもしれないけど。なんでだろ、誰かが泣いているみたい・・・」
「泣いてる?」
「うん。よくさ、小さい時言われてたじゃん。雨はね、神様の涙なんだよって。時々思うんだ。神様はいなくても、この雨は誰かの涙なんじゃないかって。そう思うと、雨って切なく感じちゃう」
「紗奈にしては良い感性だな。切ないって感じは俺もよくわかるよ。濡れると冷たかったり、雨の日は人の数も極端に減るから、寂しさや孤独感が強まるよな」
そうだ。私はそれを言いたかった。昔から雨の日は、外で遊べず家の中で窓から映る景色を眺めていた。それが、私にとっては嫌で仕方がなかった。
晴れていたら外で遊べるのに、雨のせいで家の中にいないといけない。それに、家にいるのは正直嫌だった。両親が共働きでひとり雨が家に当たる音を聞きながら、寂しく両親の帰りを待っている時間が辛かったんだ。
濡れるから嫌いなんじゃない。雨は孤独感を強めてしまうから嫌いなんだ。傘という雨を遮る物が、私を閉じ込めている気がして寂しかったんだ。
「うん。雨はやっぱり寂しいよ」
ポツリと呟いた声は、傘を打ち付ける雨音によって消されてしまった。隣にいる彼にも聞こえてはいないだろう。今のだけは聞こえないでほしい。
「今も寂しいか?」
「うん。寂しくなったかも」
「そうか。俺がずっと側にいてやるから。これから先、紗奈が寂しくなるようなことがあっても俺がいるよ。だから、安心しな」
「は、はい」
プロポーズなのか。雨にしては珍しい言葉に、動揺してしまいうまく返事を返せない。
「晴れの日も雨の日もずっといるから。孤独なんて気持ちには俺がさせない。そのうち、雨の日も好きって言わせてやる」
「た、楽しみにしてるね!」
気丈に振る舞っているのがバレてはいないだろうか。大袈裟に声を出していないと照れて顔が染まってしまいそうだ。
雨脚は弱まるどころか、さっきよりも強さが増し始めた。地面に打ち付ける雨が勢いのあまり跳ね返って、私の靴だけでなく靴下までを湿らす。
「つ、つめたーい!靴下までびしょびしょだよ」
「俺も制服の裾の部分まですっかり濡れたわ。どっかで雨宿りでもするか」
「え、それじゃ遅刻しちゃうよ」
スッと携帯が私の視界を遮る。
「これ、見てみ」
雨が差し出した携帯の画面には、大雨による生徒の身の安全を確保するために今日は臨時休校と書かれていた。
「え、まじで? 嘘じゃないよね?」
「マジだって。学校からのメールだし。紗奈のメールにも届いてるはずだけど」
ごちゃごちゃと整理されていないリュックの中から携帯を探し出す。まるで、ガラクタに囲まれたおもちゃの中から宝物でも探し当てるかのよう。
「あ、あった! あっ・・・」
「どうした?」
「充電0%だって。昨夜、動画見たまま寝落ちしたから、それが原因かも・・・」
声には出さず、落胆している彼。日常茶飯事のことなので、きっと『またか』とうなだれているのだろう。
「まぁ、いいや。とりあえず、どこかで雨宿りでもするか」
「そうだね。どこか良いところあるかな。あ、昔私たちがよく遊んだ公園は?あそこなら屋根付きのベンチあったはず」
「あったな。んじゃ、そこ行くか」
「うん!」
一向に止む気配のない雨に打たれながら、私たちは先ほどまで歩いていた道を歩き直していた。
行きで見た景色と帰り道の景色は、同じ道であるはずなのに別のものに感じられる。路上に設置された自動販売機の向きであったり、住宅街を彩る木々たちの微かな生え方の違い。
それら全てが先ほどまで見ていた景色とは違って見える。雨もまた然り。
傘を打ち付けていただけに見えた雨が、今は緑に生い茂る木々を打ち付けているのに目が奪われてしまう。1枚、また1枚と雨の勢いに耐え切れず、負けてしまった葉っぱたちが地面へと舞い落ちる。
地面に落ちた葉は、道路脇を流れる側溝に吸い込まれるように、土砂降りして溢れかえった雨と共にどこかへと流されてゆく。
まるで、川の上に流して遊ぶ笹舟のようにどこまでもどこまでも。
普段は雨というものを嫌っていたためか、雨がもたらすものから目を逸らしていた。自分に降りかかる雨の悪影響ばかりを見てしまっていたせいで。
しかし、こうして雨を違った視点から見てみると、なかなか面白い。土砂降りのせいで、私たちの歩く道路は浸水していた。
くるぶし付近まではすっぽりと水に浸ってしまうほど。別世界にでも迷い込んだかのような景色。
不便なことに変わりはないが、たまにはこういった日常もいいな。
雨の勢いは変わらぬまま。むしろ、先ほどよりも傘を打ち付ける音が強まっている気がする。
「紗奈! 見えてきたぞ! 早く行こうぜ!」
「あ、ほんとだ」
正面に見えた懐かしき公園。小さい頃、雨と2人で走り回り、何度も転び足を擦りむいて泣いた公園。
昔はあんなに大きく感じられた公園が、今ではかなりちっぽけな公園に見えてしまう。
公園は以前とは姿形を変えてもいないのに、違って見えてしまうのは私たちが成長した証なのだろう。
見上げていたはずの滑り台が手を伸ばせば届いてしまうなんて、あの頃の私たちには想像できるはずもなかった。
「あったぞ、ベンチ。あそこだけ雨を防げてるな。早く行こうぜ」
「うん」
雨でぬかるんだ地面を歩く。どろっどろになってしまった地面の上を歩くのは、意外にも困難。慎重に歩かないと地面を踏んだ拍子に、泥が私たちを襲ってくる。
靴下までならなんとかなるが、制服に跳ねてしまっては厄介。靴下と違って、そう簡単には洗濯ができないものだから。
それなのに無性に楽しんでいる自分もいる。
「ついた」
「ついたね。靴下はもうだめだね。制服もところどころ濡れちゃったし」
「だな。俺も膝から下はすっかり濡れたわ」
開いていた傘を閉じると、傘の先端部分から傘に付着した水滴が勢いよく地面へと流れていく。
隣にいる彼もパサパサと傘から水滴を取ろうとしているが、一向に水滴を拭うことができていない様子。
傘をパチンと広がらないようにボタンで止め、ベンチの脇の方に立てかける。ベンチも濡れていないか心配だったが、屋根があるおかげでベンチは無事だった。
座るとお尻が少しだけひんやりとする。それは、彼も同じだったらしく「つめたっ」と呟いていたのを聞いて笑ってしまった。
6月ということもあり、雨に濡れると普段よりも増して肌寒い。
衣替えをしていなく、ワイシャツだけなので風邪を引いてしまいそうだ。隣にいる雨も同じようだが、彼に関しては濡れたせいで腕の部分のシャツが若干透けている。
もしかしたら、私も...
「えっ」
肩にかけられたそれからは、彼が普段から身に纏っている柔軟剤の匂いがほんのりと香った。
「それ・・・着てろよ。寒いだろ?」
「で、でも雨も濡れてるよ・・・」
「俺はいいから。紗奈に風邪引かれる方が困る。紗奈が隣にいない学校に行ってもつまらねぇーしな」
「あ、ありがと」
彼がかけれくれたのは、寒い時に雨がよく着ていた灰色の無地のジップアップパーカーだった。
袖に腕を通すと、彼の温もりを感じているみたいに柔らかな熱に包まれる。
「あったかい。ねぇ、雨も本当は寒いんでしょ。さっきから震えてるよ」
「ば、ばれた?少しだけ寒いわ」
「そっか。じゃあさ・・・」
彼との間に作られていたスペースをグッと体を寄せて縮める。距離が縮まったことで、彼の息遣いや呼吸のリズムが屋根を打ち付ける雨の音よりもはっきりと私の耳にまで届いてくる。
彼の濡れたシャツに頭をちょこんと乗せる。濡れていて冷たかったが、彼の体温がほんのりと感じられた。それだけで、私は良かった。
彼の体温を肌で感じ取れて、私は幸せだった。好きな人とこうして肌を寄せ合うことができる今を、私はいつまでも大切にしていきたい。
「さ、紗奈!」
私の突然の行動に驚いたのか、普段は発することのない高音の声が耳に届く。
「えへへ、もう少しだけこのままでいさせて」
「わ、わかった。その代わり風邪を引いても知らないからな」
「じゃあ、もう少しくっついた方がいい?」
「そ、それはやめてくれ。俺の心臓がもたないから」
恥じらっているのが彼の様子から伝わってきて嬉しい。クールなはずの男子が照れている姿は、女子からすると最大のご褒美なのかもしれない。
かっこいいと思っている雨に可愛いという感情を抱く日が来るなんて思ってもいなかった。これからも少しずつ彼の違った一面を見つけていけたらいいなと思う。
「止まないね」
「あぁ、そうだな。いつまで降り続けるんだろう」
「もしかして、私たち家に帰れないままここで一晩過ごすとかある?」
「あるわけないだろ。走ったら、ここから家まで5分で着くんだから」
「だよね〜」
ロマンチックなことを私なりに考えて言ってみたが、悉く彼の正論によって論破されてしまった。どうやら、こうゆうところは可愛げはないらしい。
話に乗ってくれたら、益々可愛いと思えたのに。現実は甘くはないようだ。特に、彼に関してはロマンチックを求めた私がよくなかったのかもしれない。
「見てみろよ」
「ん?」
私たちの座っているベンチの前に広がる大きな池。当然、落下防止のために公園と池の間には柵が設けられいるが、高校生の私たちならすぐにでも乗り越えられる程度の高さ。
「池に雨が降り注いで、すげぇーよ」
何に興奮しているのかわからないが、かなり語彙力が低下してしまった雨。確かに、目の前にある池は豪雨によって、池の表面が無数の波紋が広がっている。
餌を求めて鯉たちが、水面下に顔を出しているみたいにたくさんの波紋が浮かぶ。
「何がすごいの?」
「池の表面付近に霧があってさ、なんか幻想的じゃない?何か神秘的な何かが出てきそうで」
「確かに幻想的で癒される光景だね。奥に森があって鹿とかが出てきたらすごく神秘的だ〜」
「うわ! それめっちゃいいな! 俺らが何かに選ばれた感があっていい!」
隣ではしゃぐ彼を見ているだけで、心の内側から体がぽかぽかと温まる。彼の笑った顔が私に幸福感を与えてくれているんだ。
ベンチから立ち上がり、屋根の外へと歩み出していく雨。当たり前のように、空から降ってくる雨に打たれ数秒もしないうちに全身濡れてしまう彼。
「な、何してるの!」
「・・・なんか雨に打たれたくなった」
「なんでよ! 風邪引いちゃうよ! こっちおいでよ!」
「行きたいな・・・そっちに。でも、俺はもうそっちにはいけないよ」
「どうして、そんなに風邪引きたいの?」
「若気の至りってやつだよ」
意味がわからない。雨が何を言いたいのか、私の頭ではさっぱり理解できない。
「どうしたのよ、雨。今日なんか変だよ。朝も少し暗い表情してたし」
雨に打たれているせいか、彼の表情がはっきりと視認することができない。私も彼の元へと行けたら良かった。でも、なぜか本能的にそっちには行くことができないような気がした。
「なぁ、紗奈」
「なに?」
「雨は好きか?」
「え」
今日2度目の質問。一言一句変わらない質問に戸惑ってしまう。確かに私は登校途中に質問されて「嫌い」と答えた。それなのに、どうしてもう1度聞いてくるのだろう。
それに、今回のはさっきのとは違う気がする。2つの意味がかけられているような...
天気の「雨」と樽石「雨」の雨。不思議と2つのことを一緒に聞かれているみたいだ。
雨は嫌いだけれど、雨は好き。言葉にすると矛盾しかないが、これは私と彼にしか理解できない言葉だろう。
よし、答えは決まった。
「これから好きになっていくよ。雨のことを好きになったようにね!」
フッと笑う彼。予想外の答えだったのか、彼の顔には笑みが漏れていた。ただ、心の底から笑えていたのかは私にはわからない。もしかすると、雨に紛れて彼は泣いていたかもしれない。
雨はずるい。泣いている姿さえ誤魔化せてしまえるのだから。
「俺を好きになってくれて。それと、雨を好きになろうとしてくれて・・・嬉しいよ」
「ねぇ、雨。どこに行くの?」
「さぁな。あの空から見守ってるかもしれない。この雨は、神様が与えてくれた俺への弔いだったのかもな。最後に紗奈と見た景色が、俺の大好きな雨の日で良かった」
「なんでお別れみたいな言い方をしてるの。私たちはまだこれから先の人生が・・・」
「もうすぐ分かるよ」
手を伸ばそうにも伸ばせない。伸ばしたら確実に届く距離にいるはずなのに、足がこれ以上動いてくれそうにない。
私の瞳に映る彼も同じように、その場に立ち尽くしたまま雨に打たれ続けている。神様の涙を全身に浴びながら、その瞳は私に向けられていた。
「雨・・・どうして。こっちに来てよ。私を置いて行かないでよ」
「ごめんな。俺、幸せだったよ。紗奈と結婚できて、子供にも恵まれて、本当にいい人生だった。最後は、紗奈に看取られて逝くこともできたしな」
何を言っているの。私たちはまだ高校生のはず...これから先の人生なんて...
「樽石紗奈さん。俺に幸せを与えてくれてありがとう」
雨にかき消されるように告げられた言葉を聞きながら、私は真っ暗闇へと意識を奪われた。
意識を失う途中にも雨が降りそそぐ音だけは、はっきりと耳まで届いた。
窓を打ち付ける雨音で目が覚める。目から大量の雨が溢れていたのか、枕が冷たく濡れていた。
寝たまま壁に貼り付けられたカレンダーを見つめる。2082年6月12日。あの日から、すでに60年以上の月日が経過してしまっていた。もう何度目かもわからぬ、私たちの記念日も今日で終わりを迎えたのだろう。
私の隣に眠っている彼の皺くちゃな手からは、以前のような熱が感じられない。すっかり冷え切ってしまった手。長い年月をかけて、私たちの思い出と同じように刻まれた皺を指先でなぞる。
「とうとう逝ったのかい。雨」
長年彼の隣で人生という長くも短い道を歩んできた私だからわかる。隣に眠る彼が、もう2度と目を覚さないことを。
昨晩は、いつも通りの1日を過ごし、寝床に着いた。今日もいつも通りの1日を過ごすはずだったんだ。
だから最後に会いに来てくれたのだろう。夢の中で...いや、私たちの遥か昔の淡い青春をしていた頃の思い出に身を重ねて。
懐かしかった。制服姿の雨を見るのなんて何十年ぶりだろう。色褪せない思い出と化した記憶が、身近なものとなって感じられた。
つい最近まで高校生だったように。楽しかったな。雨と過ごしてきた何十年もの人生。悲しいこと、辛いことも多かったが、それ以上に幸せで満たされていた。
何度彼と一緒に雨の降る日を見てきただろうか。数え切れないほどの雨を見てきたが、それも今日でおしまいのようだ。
一体私はあとどのくらい1人で雨を眺める日が来るのだろう。きっと数えきれないくらいだ。
眠っている彼の顔は穏やかで、今にも起きて雨降っている今日を喜び、私に雨の良さを伝えてきそう。
「あなた。雨は今でも私は嫌いですよ。でもね、ちょっぴり好きにもなりましたよ。あなたが雨の良さを伝えてくる日々は、本当に幸せでしたよ。何度も何度も同じ話を繰り返しては、嬉しそうに笑うあなたの顔を見ることができて、私は・・・幸せだった」
ポロリと目からこぼれ落ちる雫。頬を伝い、布団へと落ちていく様は雨を模倣しているかのよう。雨が降った後の地面と同じように、布団にも小さな染みが浮き上がる。
「これから私は何度、あなたのいない雨を眺める日が来るのでしょうかね。その度に思い出してしまう。あなたが雨を嬉しそうに眺める横顔を。嫌いです。孤独は嫌いです。でも、雨の日はあなたが見守ってくれるのでしょ」
冷たくなった彼の頬に手を当て、優しく皺のひとつひとつを撫でる。熱が彼に伝わってほしいが、私の持つ熱では温めることができないほど、彼は冷たかった。
「ねぇ、雨。私をそこから見守ってておくれ。私も雨降る日は、あなたのことを何度も思い出しますから。どうか、私のことを空から眺めててくださいな。暫しの別れです。ありがとう、雨」
年甲斐もなく声を上げて泣いたのは何年ぶりだろうか。私の泣く声は、雨が窓を打ち付ける音によってかき消されてしまうくらい弱く、そして冷たい雨だった。
私と同じように彼も空から泣いているだろう。この雨は神様ではなく、彼の涙なのだ。
私の涙が彼の頬に落ち、キラリと光る。最後に見た彼の涙は、私が降らせた雨によって作られた涙だった。