夢を見ました。
空には白んだ蒼があって、
海には深い碧があって、
地には灰色交じりの茶があって、
山には艶やかな緑があるのです。
そんな夢を、どうして見せるのでしょう?
私の前には真黒いツリーがあるのです。
そう、それこそが私の見る世界。本当の色。
カラフルな夢の世界を、私は少し……憎んでしまう――
★――★
真っ白――真っ黒?
私の前に色はなく、私の後には想像の色が満ちています。
あれ? 白も黒も色だっけ?
この目が世界を映さなくなったのは十二年前、四歳の頃。
飲酒運転の車に轢かれてしまってなんとか命は無事に済みました。
けどそこから先の私には光が見えず、常に杖を持って歩いています。
杖がどこかの壁を叩き、私は行き止まりに気づきました。
この壁は――灰色かな? 茶色かな?
四歳までに見た景色の中では大体がそんな色だった。
どうしてもそっちに想像が傾いてしまうのは仕方ないけれど、どうせならもっと綺麗な色を想像したい。
正解が分からないのだから、自由に発想したい。
よし、この壁は――薄い茶色。
壁の素材はクッキーだ。
となると――
私は杖を持ち上げいろいろな箇所をつつきます。
あ、このぶよぶよは――クリームですね。
私は鼻をひくひくと動かして匂いを嗅ぎます。
「……」
うん。匂いはともかく。
あ、花の香りがします。
花屋さんが近いのですね。
いつも太った男の人が頑張って花の手入れをしています。
ん? と言うことはこのぶよぶよ……。
「すっ、すみません!」
私は急ぎ頭を下げます。
「うふふ、いーよいーよ」
そう言ってくれるお兄さん。
私がつついていたのはお兄さんのお腹でした。
は、恥ずかしい……。
私は頬にちょっとした熱を持ったままその場を駆け足で歩き抜きました。
あ、チョコレートの香りです。
香りの元は私のお気に入りのお店【月に芽吹く】。
春にはチョコレート、
夏にはかき氷、
秋にはモンブラン、
冬にはパンケーキ。
季節で色を変えるとても美味しいお店です。
「いらっしゃい」
優しく穏やかで、慈愛のこもった声。お姉さんの声です。
「こんにちは、彩さん」
私は杖をつきながらお店の中に入って行って、店長さんにして唯一の店員さんである彩さんの声がするすぐ近くの椅子に腰掛けました。
彩さんはすぐにホットコーヒーを出してくれます。コーヒーにはチョコレートが一欠片入っていて、少し苦く、少し甘い。
私は何度かテーブルに手をつき、カップを見つけると口に運びます。
美味しい。
熱すぎず冷めてもおらず、ちょうど良い暖かさ。
きっとこれが彩さんの心の温度。
私は点字をなぞりながらメニューを読んでいき、お気に入りのチョコケーキとまだ頼んだことのないチョコレートのお菓子で悩みます。
無難に留めるべきか……冒険してみるべきか……。
「……こっちで!」
「へぇ、冒険だね」
私はまだ見ぬ方を選びました。
ちょっと日常を刺激してくれるモノって大好きです。
いえ決して度を超えない程度の刺激限定ですが!
暫くして二段重ねをベースにしたチョコパンケーキが出てきました。シロップやクリームの代わりにふんだんにチョコレートがかけられているパンケーキです。とろとろに溶けたチョコレートは口の中に広がり、それは次に迎え入れる野苺の甘味と抱き合って摂ってはいけないお肉の元であると警告してきました。でも抗う術は私にはなく! 私はスイーツの家族となってドア全開で子供達を快く招くのでした。
「……恐ろしい!」
「え? 何が?」
ああ、人ってこうして太っていくのですね。
さてそれはもうしようがないとして(しようがなくない)、私はお店を後にしテイクアウト品を持って公園へと歩を進めます。
公園には暁さんがいて、いつも通りムスっとしていることでしょう。私の差し入れなんか余計なお世話でしょうけれども、なんだかんだ受け取ってくれる暁さんは大好きです。
「……来たのか」
その人は――暁さんはのそっとゆっくり姿を見せます。
ホームレスさんで、子供用の空気で膨らませる小さなハウスに住んでいらっしゃいます。
元々医療器具を作る人だったらしいのですが、どうしてか今はこちらにいます。
自称・現不良。
格好は黒中心のものが多いらしく、私には色が見えませんがどこか他のモノより熱を帯びている感じがします。
「本日の差し入れです」
と言ってチョコケーキを差し出します。
「……いつもいらねぇって――」
「言われても結局受け取るんだから省略しましょこの通過儀礼」
「……お前、最近タフになってきたな」
「それは暁さんのおかげですよ」
――オレがお前に景色見せてやるから、泣くな!
私は事故にあった時、泣きました。
突然の黒い世界で大粒の泪を滝のように流して、目の周りの皮膚が傷んでしまう程に擦りまくっていた頃、暁さんがやってきてくれました。
暁さんは私を病院に運んでくださり、その不器用な暖かさと言葉にいつの間にか泪は止まっていました。
チョコケーキの差し入れなんてあの時受けとったモノに比べればまだまだで、恩返し出来ていません。
それを知ってか知らずか、暁さんはぐちぐち言いながらも受け取ってくれます。
よく「一人に恵むならやめておけ、それでも恵んでやりたいなら全員に同じことをしろ」と言われますが、私は一人でも恩返し出来るならと頑なにアドバイスをスルーしてきました。
それが間違っているのかいないのか、まだ私には分かりません。
そして全て食べ終えたあと――暁さんは遠くを見るのです。
「今日も見えていますか?」
「……ああ」
『ピストルツリー』――
捨てられた大量の銃で作られたツリー。
銃を棄てる勇気を持たせる祈りのツリー。
暁さんが住んでいらっしゃるここからは霧が多いと見えないらしく、けれどすっきりしていれば見えるようで、暁さんはいつも眺めていらっしゃいます。
「万葉集」
「え?」
「そう言う古い本がこの国――日本にはある。知っているだろう? 一つ一つはなんてことない和歌だがそれをまとめあげることで大作にした本だ。
そいつとこれは似ている」
私は見ること叶わずですが、暁さんが見ているだろう方向を見て瞼を開けます。
見たいなぁ。
そう言えば墨のように黒い、黒すぎる私の目を見てある人に言われました。
――怖すぎるんだよね、あんたのその目――
私の目は怖いのだろうか?
どんな目をしているのでしょうか?
私には夢があります。
小さい頃からずっとお世話になっている病院。そこの看護師になることです。
と言っても私はまだ十六歳。飛び級出来るほどの頭もないので普通に高等部の一人です。
これまで友人に気を遣わせたりはなかった――とは流石に言えませんが、それでも私は私なりにやってきたつもりです。……いえ、やってきました。
でも時々――
「大丈夫かな?
盲目の私に看病されて、患者さま怖くないかな?
――ふぎゅ」
こんな弱音を吐いてしまう。
そんな時当時(中等部の頃)私の寮のルームメイトであるフレンが私の両頬に少しヒヤッとする掌を当ててきます。
歪む私の顔。
とても男子に見せられる顔ではなかったと思います。恥ずかしかった……。
「例えば患者さんが怖いって言ってきたら、そん時は変わらなきゃいけないかも知れない。でも今の生活でもあんたはちゃんと暮らしていけてる。それはなんで? 努力したからでしょ? 頑張ったからでしょ? それをあんたが偏見な目で見てどーすんのよ? 授業だけでも精一杯のあんたがなんで良い成績取れてんの? 胸張りなさい。努力はきっと報われる」
努力は報われる――
それはフレンの口癖でした。きっとそれは自分自身への言葉でもあったのだと思います。
フレンは所謂ちょっとしたおばかさんで、成績は中の下といったところでした。それでもフレンは頑張った。頑張って頑張って頑張って、その努力は――実を結びませんでした。
銃乱射事件。
フレンの故郷・アメリカでは最早毎年発生する事件。
彼女が帰郷している時にクリスマスで賑わう街中にて巻き込まれたのです。死傷者は百名を超え、内十一名が亡くなられました。
そして負傷者の中にある少女の名前があります。
フレン・クリスト――
彼女は、両腕の機能を失いました。
夢は断たれ、これまで送ってこれた普通の生活すらも出来なくなり、父方の故郷であるアメリカの田舎へと引っ越して行ってしまいました。
そんなフレンが残した言葉――
――怖すぎるんだよね、あんたのその目――
その言葉に偽りはなかったのでしょう。
その言葉はただの八つ当たりだったのでしょう。
夢を、未来を真っ黒に塗り潰されたフレンに出来た精一杯の哀しみの言葉だったのでしょう。
だけれどその言葉は今も私の心に残っていて……。
そんな私の心に再び光を灯してくれたのが暁さんの二度目の一言。
――オレがお前に景色見せてやるから、泣くな!
その言葉に嘘はなかったのでしょう。
その言葉はただの怒りだったのでしょう。
友人を、希望を失った私に向けられた精一杯の優しさだったのでしょう。
だからその言葉は今も私の心に残っていて……。
日本で作られたピストルツリー。銃を手放す勇気を持たせる為の黒いツリー。
ピストルツリーはあえて過去を思い起こさせます。
故に多くの人は自重して銃を持たず、一方で悲しみをずっと人に与え続けて。
私もピストルツリーを考えるとフレンを思い出します。
しかしそれで良いのでしょう。
私は忘れてはいけないのです。
彼女の存在と、これまで流された多くの泪を。
◇
ある日事件が起きました。
ピストルツリーの一つであった銃を使った人殺し。
銃弾は抜いてツリーに納めるのが当たり前だったのに……。
被害者は、暁さん。
神さまなんて、いないのです。
「ピストルツリーはね、暁のお父さまが作ったんだよ」
葬儀の日、彩さんはそうおっしゃいました。
「けれど良くないことが起きた」
こう、言葉は続けられます。
「お父さまは純粋に平和を願っていた。
人の中にある悪意を否定されていたわけじゃなくて、悪意を上回る善意が誰にでも宿っているとおっしゃっておられた。
けどそれが気にいらない連中がいてね。
偽善者呼ばわりさ。
それどころか誹謗中傷の雨。
よくぞまあ良く知りもしない人に対してそこまで言えるもんだと呆れたよ。
だけどね、お父さまはそれでもめげなかった。
人の善意を信じ、様々な形で人を支援し続けた。
ボランティアだって忘れなかったし、金銭面でも寄付を続け、貧しい国には水と食料を直接届けに行って、学校だって建てられた。
暁からは勿論、幼馴染のわたしから見ても立派な方だった。
なのに亡くなられてしまった。
暁が十三の頃だ。
日本に帰国されて、気を休めたかったんだろう。
その日珍しく一人になられた。
普段は数人が伴をしていたんだ。
誹謗中傷の中には殺害予告もあったから。
お父さまはショッピングモールで買い物をされていた。
そこで……撃たれた。
白昼堂々、銃にもかかわらず零距離で。
撃たれたのは頭でも心臓でもなく、散々苦しんで死ぬようにとタチの悪い部位だった。
犯人はすぐに捕まったよ。
撃ったのはグレた子供でもなければ病んでいる人でもなくごくごく普通の、そう本当に普通の青年だった。お金に困っている青年だった。
その言い分はこうさ。
“こいつが本当に善意で動いているなら、どうしてボクをほったらかしにしたのさ”
青年は救われるべき自分が救われていない、それはおかしいだろうとネットで主張し続けていた。
そこで、ネットユーザーたちが青年の背中を軽い気持ちで押してしまった。
“やってみろよ意気地なし”
“こいつが動くのに百万子供ドル”
“死体の写真よろしく”
とかさ。
でも青年は簡単には動かなかった。
さっき言ったけど青年は別に病んではいなかったからね。冷静に、ネットの煽りは受け流していた。
そんな時にガスガンの威力を上げる方法、ってのを見つけたらしい。
青年は誰でも買えるようなプチプライスなガスガンを手に入れて、好奇心で作っちゃったんだ。当然、殺傷銃を。
その日青年は銃を完成させて少々うわついていた。
興奮していたと言っても良い。
銃をバッグに忍ばせて、恋人とのデートに向かう途中だった。
お父さまを偶然見つけて、気づいたら撃っていた――だってさ。
青年は泣いた。
誰よりも早くくずおれて、その場で泣き喚いた。
警察との間で少し揉めたらしいけど、基本素直に捕まったって話だ。
ところがそこで問題が発生する。
青年が作り使った銃が行方知れずになった。
が、数日後にそいつは見つかった。
お父さまがピストルツリーを作るならここだ、って決められていた場所に、最初の銃として置かれていたんだ。
指紋は綺麗に拭われていたし、目撃者もいなかったから誰が置いたか誰も知らなかった。
銃はしかるべき場所に保管されそうになったけどお父さまの遺志を組んで弾を抜かれた後元の場所に戻された。
そして一つ、また一つと銃は捨てられて、今のピストルツリーになった。
……会ってみるかい? 暁を撃った人に」
「あの人が言ったんです。
“この銃をあの場所に置いてくれ”
って」
コトンと【月に芽吹く】の白いテーブルにコーヒーカップが三つ置かれます。チョコレートが一欠片入っているいつものコーヒーです。
閉店中に招かれているのは私ともう一人。
暁さんを撃った人は、女性でした。
暁さんのお父さまを撃ったと言う青年の、恋人でした。
「彼は夜天さん――暁さんのお父さん――を撃った後、夜天さんにこう言われたそうです。
“ごめんね、気づいてあげられなくて”
って。
そうして、優しく微笑まれたそうです。
言われた彼は、泣き崩れて、あたしに言うんです。
血で染まった手に銃を握りしめて、
“この銃をピストルツリーに”
“夜天さんの祈りを、形に”
って。
だからあたしは銃をあの場所に置いたんです。
けどね、五年経って出てきた彼を見て、ひどく悲しくなったんです。
やせ細って、元気なんてなくて、死んだような表情でトボトボ歩く彼を見て、すごく悲しくなった。
でもあたしは彼を好きだったし、五年ずっと見続けたからショックを受けることはなくて。
ただ悲しかった。
刑務所に入っている間はそんな気持ちにはならなかったのに日に当たっている彼を見て悲しくなった。
それでも支えようと思ったんです。
なのに……彼は首を吊って死にました。
思うんです。
どうしてこうなったんだろうって……。
思うんです。
夜天さんがいなかったら良かったのに、って……。
理不尽な怒りだって思います。けどね、彼を縛ってしまったのは夜天さんの最期の一言だったんです。
夜天さんを恨みました。いっそ呪ったと言っても良いくらいに。
そんな折、夜天さんに息子さんがいることを知ったんです。
けどその人はせっかく就いた職場で嫌がらせを受けていたそうです。
夜天さんの遺志を継いで、その志を継いでいたその人の口癖は“オレが治してやる”。
誰を? ねえ、誰を治すの?
あの人があんな……あんな病的になるほど苦しんでいるのに、彼をほったらかしにして誰を治すの?
暁さんに悪意がないのは知っています。
けどね、善意って、人を殺す刃にもなるんですよ。
その頃に暁さんは陰惨ないじめに耐え切れず退職しています。
治してやるって多くの人に約束したのに、全て投げ出したんです。
ホームレスになった彼を見て、そのまま死んでくれって思いました。
なのに彼はまた言うんです。
“オレが治してやる”
って。
あたしはそれが本当になるならこの気持ちも少しは変わるかなって思い続けました。
ガマンして、ガマンして、ガマンして。
けどね、暁さんは女の子をいつまで経っても治さない。
これはもうダメだって思いました。
だからあたしは……あたしは――」
「あのね、知らないだろうから教えてあげる。
暁はずっと勉強していたよ。
視力を失った目を回復させるなんてそうそう簡単に出来るもんじゃない。
でも暁は勉強し続けていたんだ。
この子の目を治そうって、一人でずっと。
そんな時に一つ気づいたことがあった。
“適合するんじゃないか”
って。
こんな風にこの子の前で言うのもなんだけどさ、貴女のおかげで、ようやく暁の祈りが叶う日が来た。
ありがとう。
反省しまくって、出ておいで」
コーヒーを一口いただきます。
苦くて甘いこの味は、はたしてコーヒーのモノか想い出のモノか……。
それから一週間が経って。
私は両目を開きます。
暁さんの瞳が移植された目を。
色がついたのです、私の世界に。
最初に見たそれは真っ黒で、無骨で―――
――人殺しのツリーでした。
世界は殺しに満ちていて、それでも夜はあけるのです。
でもね……苦しいのって、夜である今なんです……。
今、なんですよ……。
「う……あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
私の名前は心泪。
流れる泪は止まらずに。
どうか、どうかせめて暁さんが最期の犠牲者でありますように。
暁さんの犠牲で見られた夢の世界を……私は少し、憎んでしまう――
空には白んだ蒼があって、
海には深い碧があって、
地には灰色交じりの茶があって、
山には艶やかな緑があるのです。
そんな夢を、どうして見せるのでしょう?
私の前には真黒いツリーがあるのです。
そう、それこそが私の見る世界。本当の色。
カラフルな夢の世界を、私は少し……憎んでしまう――
★――★
真っ白――真っ黒?
私の前に色はなく、私の後には想像の色が満ちています。
あれ? 白も黒も色だっけ?
この目が世界を映さなくなったのは十二年前、四歳の頃。
飲酒運転の車に轢かれてしまってなんとか命は無事に済みました。
けどそこから先の私には光が見えず、常に杖を持って歩いています。
杖がどこかの壁を叩き、私は行き止まりに気づきました。
この壁は――灰色かな? 茶色かな?
四歳までに見た景色の中では大体がそんな色だった。
どうしてもそっちに想像が傾いてしまうのは仕方ないけれど、どうせならもっと綺麗な色を想像したい。
正解が分からないのだから、自由に発想したい。
よし、この壁は――薄い茶色。
壁の素材はクッキーだ。
となると――
私は杖を持ち上げいろいろな箇所をつつきます。
あ、このぶよぶよは――クリームですね。
私は鼻をひくひくと動かして匂いを嗅ぎます。
「……」
うん。匂いはともかく。
あ、花の香りがします。
花屋さんが近いのですね。
いつも太った男の人が頑張って花の手入れをしています。
ん? と言うことはこのぶよぶよ……。
「すっ、すみません!」
私は急ぎ頭を下げます。
「うふふ、いーよいーよ」
そう言ってくれるお兄さん。
私がつついていたのはお兄さんのお腹でした。
は、恥ずかしい……。
私は頬にちょっとした熱を持ったままその場を駆け足で歩き抜きました。
あ、チョコレートの香りです。
香りの元は私のお気に入りのお店【月に芽吹く】。
春にはチョコレート、
夏にはかき氷、
秋にはモンブラン、
冬にはパンケーキ。
季節で色を変えるとても美味しいお店です。
「いらっしゃい」
優しく穏やかで、慈愛のこもった声。お姉さんの声です。
「こんにちは、彩さん」
私は杖をつきながらお店の中に入って行って、店長さんにして唯一の店員さんである彩さんの声がするすぐ近くの椅子に腰掛けました。
彩さんはすぐにホットコーヒーを出してくれます。コーヒーにはチョコレートが一欠片入っていて、少し苦く、少し甘い。
私は何度かテーブルに手をつき、カップを見つけると口に運びます。
美味しい。
熱すぎず冷めてもおらず、ちょうど良い暖かさ。
きっとこれが彩さんの心の温度。
私は点字をなぞりながらメニューを読んでいき、お気に入りのチョコケーキとまだ頼んだことのないチョコレートのお菓子で悩みます。
無難に留めるべきか……冒険してみるべきか……。
「……こっちで!」
「へぇ、冒険だね」
私はまだ見ぬ方を選びました。
ちょっと日常を刺激してくれるモノって大好きです。
いえ決して度を超えない程度の刺激限定ですが!
暫くして二段重ねをベースにしたチョコパンケーキが出てきました。シロップやクリームの代わりにふんだんにチョコレートがかけられているパンケーキです。とろとろに溶けたチョコレートは口の中に広がり、それは次に迎え入れる野苺の甘味と抱き合って摂ってはいけないお肉の元であると警告してきました。でも抗う術は私にはなく! 私はスイーツの家族となってドア全開で子供達を快く招くのでした。
「……恐ろしい!」
「え? 何が?」
ああ、人ってこうして太っていくのですね。
さてそれはもうしようがないとして(しようがなくない)、私はお店を後にしテイクアウト品を持って公園へと歩を進めます。
公園には暁さんがいて、いつも通りムスっとしていることでしょう。私の差し入れなんか余計なお世話でしょうけれども、なんだかんだ受け取ってくれる暁さんは大好きです。
「……来たのか」
その人は――暁さんはのそっとゆっくり姿を見せます。
ホームレスさんで、子供用の空気で膨らませる小さなハウスに住んでいらっしゃいます。
元々医療器具を作る人だったらしいのですが、どうしてか今はこちらにいます。
自称・現不良。
格好は黒中心のものが多いらしく、私には色が見えませんがどこか他のモノより熱を帯びている感じがします。
「本日の差し入れです」
と言ってチョコケーキを差し出します。
「……いつもいらねぇって――」
「言われても結局受け取るんだから省略しましょこの通過儀礼」
「……お前、最近タフになってきたな」
「それは暁さんのおかげですよ」
――オレがお前に景色見せてやるから、泣くな!
私は事故にあった時、泣きました。
突然の黒い世界で大粒の泪を滝のように流して、目の周りの皮膚が傷んでしまう程に擦りまくっていた頃、暁さんがやってきてくれました。
暁さんは私を病院に運んでくださり、その不器用な暖かさと言葉にいつの間にか泪は止まっていました。
チョコケーキの差し入れなんてあの時受けとったモノに比べればまだまだで、恩返し出来ていません。
それを知ってか知らずか、暁さんはぐちぐち言いながらも受け取ってくれます。
よく「一人に恵むならやめておけ、それでも恵んでやりたいなら全員に同じことをしろ」と言われますが、私は一人でも恩返し出来るならと頑なにアドバイスをスルーしてきました。
それが間違っているのかいないのか、まだ私には分かりません。
そして全て食べ終えたあと――暁さんは遠くを見るのです。
「今日も見えていますか?」
「……ああ」
『ピストルツリー』――
捨てられた大量の銃で作られたツリー。
銃を棄てる勇気を持たせる祈りのツリー。
暁さんが住んでいらっしゃるここからは霧が多いと見えないらしく、けれどすっきりしていれば見えるようで、暁さんはいつも眺めていらっしゃいます。
「万葉集」
「え?」
「そう言う古い本がこの国――日本にはある。知っているだろう? 一つ一つはなんてことない和歌だがそれをまとめあげることで大作にした本だ。
そいつとこれは似ている」
私は見ること叶わずですが、暁さんが見ているだろう方向を見て瞼を開けます。
見たいなぁ。
そう言えば墨のように黒い、黒すぎる私の目を見てある人に言われました。
――怖すぎるんだよね、あんたのその目――
私の目は怖いのだろうか?
どんな目をしているのでしょうか?
私には夢があります。
小さい頃からずっとお世話になっている病院。そこの看護師になることです。
と言っても私はまだ十六歳。飛び級出来るほどの頭もないので普通に高等部の一人です。
これまで友人に気を遣わせたりはなかった――とは流石に言えませんが、それでも私は私なりにやってきたつもりです。……いえ、やってきました。
でも時々――
「大丈夫かな?
盲目の私に看病されて、患者さま怖くないかな?
――ふぎゅ」
こんな弱音を吐いてしまう。
そんな時当時(中等部の頃)私の寮のルームメイトであるフレンが私の両頬に少しヒヤッとする掌を当ててきます。
歪む私の顔。
とても男子に見せられる顔ではなかったと思います。恥ずかしかった……。
「例えば患者さんが怖いって言ってきたら、そん時は変わらなきゃいけないかも知れない。でも今の生活でもあんたはちゃんと暮らしていけてる。それはなんで? 努力したからでしょ? 頑張ったからでしょ? それをあんたが偏見な目で見てどーすんのよ? 授業だけでも精一杯のあんたがなんで良い成績取れてんの? 胸張りなさい。努力はきっと報われる」
努力は報われる――
それはフレンの口癖でした。きっとそれは自分自身への言葉でもあったのだと思います。
フレンは所謂ちょっとしたおばかさんで、成績は中の下といったところでした。それでもフレンは頑張った。頑張って頑張って頑張って、その努力は――実を結びませんでした。
銃乱射事件。
フレンの故郷・アメリカでは最早毎年発生する事件。
彼女が帰郷している時にクリスマスで賑わう街中にて巻き込まれたのです。死傷者は百名を超え、内十一名が亡くなられました。
そして負傷者の中にある少女の名前があります。
フレン・クリスト――
彼女は、両腕の機能を失いました。
夢は断たれ、これまで送ってこれた普通の生活すらも出来なくなり、父方の故郷であるアメリカの田舎へと引っ越して行ってしまいました。
そんなフレンが残した言葉――
――怖すぎるんだよね、あんたのその目――
その言葉に偽りはなかったのでしょう。
その言葉はただの八つ当たりだったのでしょう。
夢を、未来を真っ黒に塗り潰されたフレンに出来た精一杯の哀しみの言葉だったのでしょう。
だけれどその言葉は今も私の心に残っていて……。
そんな私の心に再び光を灯してくれたのが暁さんの二度目の一言。
――オレがお前に景色見せてやるから、泣くな!
その言葉に嘘はなかったのでしょう。
その言葉はただの怒りだったのでしょう。
友人を、希望を失った私に向けられた精一杯の優しさだったのでしょう。
だからその言葉は今も私の心に残っていて……。
日本で作られたピストルツリー。銃を手放す勇気を持たせる為の黒いツリー。
ピストルツリーはあえて過去を思い起こさせます。
故に多くの人は自重して銃を持たず、一方で悲しみをずっと人に与え続けて。
私もピストルツリーを考えるとフレンを思い出します。
しかしそれで良いのでしょう。
私は忘れてはいけないのです。
彼女の存在と、これまで流された多くの泪を。
◇
ある日事件が起きました。
ピストルツリーの一つであった銃を使った人殺し。
銃弾は抜いてツリーに納めるのが当たり前だったのに……。
被害者は、暁さん。
神さまなんて、いないのです。
「ピストルツリーはね、暁のお父さまが作ったんだよ」
葬儀の日、彩さんはそうおっしゃいました。
「けれど良くないことが起きた」
こう、言葉は続けられます。
「お父さまは純粋に平和を願っていた。
人の中にある悪意を否定されていたわけじゃなくて、悪意を上回る善意が誰にでも宿っているとおっしゃっておられた。
けどそれが気にいらない連中がいてね。
偽善者呼ばわりさ。
それどころか誹謗中傷の雨。
よくぞまあ良く知りもしない人に対してそこまで言えるもんだと呆れたよ。
だけどね、お父さまはそれでもめげなかった。
人の善意を信じ、様々な形で人を支援し続けた。
ボランティアだって忘れなかったし、金銭面でも寄付を続け、貧しい国には水と食料を直接届けに行って、学校だって建てられた。
暁からは勿論、幼馴染のわたしから見ても立派な方だった。
なのに亡くなられてしまった。
暁が十三の頃だ。
日本に帰国されて、気を休めたかったんだろう。
その日珍しく一人になられた。
普段は数人が伴をしていたんだ。
誹謗中傷の中には殺害予告もあったから。
お父さまはショッピングモールで買い物をされていた。
そこで……撃たれた。
白昼堂々、銃にもかかわらず零距離で。
撃たれたのは頭でも心臓でもなく、散々苦しんで死ぬようにとタチの悪い部位だった。
犯人はすぐに捕まったよ。
撃ったのはグレた子供でもなければ病んでいる人でもなくごくごく普通の、そう本当に普通の青年だった。お金に困っている青年だった。
その言い分はこうさ。
“こいつが本当に善意で動いているなら、どうしてボクをほったらかしにしたのさ”
青年は救われるべき自分が救われていない、それはおかしいだろうとネットで主張し続けていた。
そこで、ネットユーザーたちが青年の背中を軽い気持ちで押してしまった。
“やってみろよ意気地なし”
“こいつが動くのに百万子供ドル”
“死体の写真よろしく”
とかさ。
でも青年は簡単には動かなかった。
さっき言ったけど青年は別に病んではいなかったからね。冷静に、ネットの煽りは受け流していた。
そんな時にガスガンの威力を上げる方法、ってのを見つけたらしい。
青年は誰でも買えるようなプチプライスなガスガンを手に入れて、好奇心で作っちゃったんだ。当然、殺傷銃を。
その日青年は銃を完成させて少々うわついていた。
興奮していたと言っても良い。
銃をバッグに忍ばせて、恋人とのデートに向かう途中だった。
お父さまを偶然見つけて、気づいたら撃っていた――だってさ。
青年は泣いた。
誰よりも早くくずおれて、その場で泣き喚いた。
警察との間で少し揉めたらしいけど、基本素直に捕まったって話だ。
ところがそこで問題が発生する。
青年が作り使った銃が行方知れずになった。
が、数日後にそいつは見つかった。
お父さまがピストルツリーを作るならここだ、って決められていた場所に、最初の銃として置かれていたんだ。
指紋は綺麗に拭われていたし、目撃者もいなかったから誰が置いたか誰も知らなかった。
銃はしかるべき場所に保管されそうになったけどお父さまの遺志を組んで弾を抜かれた後元の場所に戻された。
そして一つ、また一つと銃は捨てられて、今のピストルツリーになった。
……会ってみるかい? 暁を撃った人に」
「あの人が言ったんです。
“この銃をあの場所に置いてくれ”
って」
コトンと【月に芽吹く】の白いテーブルにコーヒーカップが三つ置かれます。チョコレートが一欠片入っているいつものコーヒーです。
閉店中に招かれているのは私ともう一人。
暁さんを撃った人は、女性でした。
暁さんのお父さまを撃ったと言う青年の、恋人でした。
「彼は夜天さん――暁さんのお父さん――を撃った後、夜天さんにこう言われたそうです。
“ごめんね、気づいてあげられなくて”
って。
そうして、優しく微笑まれたそうです。
言われた彼は、泣き崩れて、あたしに言うんです。
血で染まった手に銃を握りしめて、
“この銃をピストルツリーに”
“夜天さんの祈りを、形に”
って。
だからあたしは銃をあの場所に置いたんです。
けどね、五年経って出てきた彼を見て、ひどく悲しくなったんです。
やせ細って、元気なんてなくて、死んだような表情でトボトボ歩く彼を見て、すごく悲しくなった。
でもあたしは彼を好きだったし、五年ずっと見続けたからショックを受けることはなくて。
ただ悲しかった。
刑務所に入っている間はそんな気持ちにはならなかったのに日に当たっている彼を見て悲しくなった。
それでも支えようと思ったんです。
なのに……彼は首を吊って死にました。
思うんです。
どうしてこうなったんだろうって……。
思うんです。
夜天さんがいなかったら良かったのに、って……。
理不尽な怒りだって思います。けどね、彼を縛ってしまったのは夜天さんの最期の一言だったんです。
夜天さんを恨みました。いっそ呪ったと言っても良いくらいに。
そんな折、夜天さんに息子さんがいることを知ったんです。
けどその人はせっかく就いた職場で嫌がらせを受けていたそうです。
夜天さんの遺志を継いで、その志を継いでいたその人の口癖は“オレが治してやる”。
誰を? ねえ、誰を治すの?
あの人があんな……あんな病的になるほど苦しんでいるのに、彼をほったらかしにして誰を治すの?
暁さんに悪意がないのは知っています。
けどね、善意って、人を殺す刃にもなるんですよ。
その頃に暁さんは陰惨ないじめに耐え切れず退職しています。
治してやるって多くの人に約束したのに、全て投げ出したんです。
ホームレスになった彼を見て、そのまま死んでくれって思いました。
なのに彼はまた言うんです。
“オレが治してやる”
って。
あたしはそれが本当になるならこの気持ちも少しは変わるかなって思い続けました。
ガマンして、ガマンして、ガマンして。
けどね、暁さんは女の子をいつまで経っても治さない。
これはもうダメだって思いました。
だからあたしは……あたしは――」
「あのね、知らないだろうから教えてあげる。
暁はずっと勉強していたよ。
視力を失った目を回復させるなんてそうそう簡単に出来るもんじゃない。
でも暁は勉強し続けていたんだ。
この子の目を治そうって、一人でずっと。
そんな時に一つ気づいたことがあった。
“適合するんじゃないか”
って。
こんな風にこの子の前で言うのもなんだけどさ、貴女のおかげで、ようやく暁の祈りが叶う日が来た。
ありがとう。
反省しまくって、出ておいで」
コーヒーを一口いただきます。
苦くて甘いこの味は、はたしてコーヒーのモノか想い出のモノか……。
それから一週間が経って。
私は両目を開きます。
暁さんの瞳が移植された目を。
色がついたのです、私の世界に。
最初に見たそれは真っ黒で、無骨で―――
――人殺しのツリーでした。
世界は殺しに満ちていて、それでも夜はあけるのです。
でもね……苦しいのって、夜である今なんです……。
今、なんですよ……。
「う……あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
私の名前は心泪。
流れる泪は止まらずに。
どうか、どうかせめて暁さんが最期の犠牲者でありますように。
暁さんの犠牲で見られた夢の世界を……私は少し、憎んでしまう――