――僕は君にこれからもよろしくと言いたかった。

 鏡を見ながら少し寝癖の付いた髪を整え、着慣れていないスーツを着る。

 そして僕は今日もいつも通り玄関の前に飾られている彼女の写真を見て「行ってきます」と言った後に、会社へと向かう。

 隠す必要なんてないから、僕と彼女の関係を明かしておきたい。僕と彼女は本当はもう少しで結婚する――いや、彼女がいなくなった1日後に婚姻届を彼女の生まれた街で出して家族になる予定だった。

 でも、婚姻届を出す前日の夕方、彼女のお母さんから一本の電話が来たのだ。それは本当に突然だった。

『ごめんなさい。瀬里菜(せりな)はあなたと結婚できなくなってしまったの。瀬里菜はもう……、もう…………』

 瀬里菜のお母さんは電話で話しているはずなのに、ここまで涙が垂れてきたような気がした。僕はこの声からすぐに何が起きているのかそんなの思いたくもなかったけれど悟った――彼女が何かしらの事故か事件にでもあってもうこの世からいなくなってしまったことを。なぜか分からないけど一瞬にして消えてしまったことを。

 僕は悟ると同時に瀬里菜のお母さんの状態も考えて、少し時間が経ってからまた電話しようということを提案した。すると、それを受け入れてくれてまた5日後に電話することにした。

 まだそれから4日しか経っていないのか。5日後に電話をするということもあるからか、瀬里菜の家族から葬儀の話とかは一切聞いていない。たぶんまだ信じたくない気持ちが勝ってそういうものをやることに一歩を踏み出せないでいるのもその理由なんだろう。僕も本当は信じたくないし、嘘であって――なかったことにしてほしい。僕の心がぐちゃぐちゃなのも当分治りそうにない。

 でも、僕は今、現実にいる。だから自分の役目でもある会社に向かう。そこで少しでも自分の力が役に立つのだとしたら。瀬里菜もきっとそう望んでるんじゃないだろうか。




「おい、どうした、最近ミスが多いぞ。疲れてるんじゃないか? ちゃんと寝てる?」
 
「いえ、ちゃんと睡眠は取ってます。すみません。以後、気をつけます」

「気をつけろよ」

 会社に着いたのはいいものの、今日もまたミスをしてしまった。その原因は僕にもよく分からない。前までは楽しいとかやりがいがあると思っていた仕事に力が入らないのだ。むしろ、力が抜けていくよう。

 僕はミスがないように作業を進めるが早く昼休憩の時間が来てほしくてたまらなかった。



「お、久しぶりだな。んー、1週間ぶりぐらい?」

「あー、たぶんそれぐらいじゃないかな。久しぶり」

 昼休憩の始めにトイレに行ったときに、部署は違うけれど色々と共通点があり仲良くなった同僚とふと会った。僕の心は沈んでいるので、彼が声を掛けてくれるまで全くと言っていいほど彼の姿に気づかなかった。

「どうだ、瀬里菜ちゃんとは? 婚姻届出したんだろー。なんかお祝いのついでに昼、奢ってやるよ」

 彼は僕の肩を組んできた。石のようにずっしりと重たい。僕の心がこんな状況であるし、ラインは交換しているけれど今日久しぶりに会ったので、まだ彼に瀬里菜の状況は伝えていない。僕らのことをすごく応援してくれた点、余計に言いづらい。

「いや、いいよそこまで……」

「いや、奢るよー。臨時収入も入ったしー、おめでたいしー」

 今の僕の力では到底かなうこともなく、彼に負け、ためらいながらも彼について行くことにした。

 彼が連れてきてくれたのはパンケーキが美味しいと有名な近くの喫茶店だった。店内に入った瞬間、瞳に輝いた光が映る。僕らが着ているスーツが全く似合わないんじゃないかと思えるぐらいに店内はおしゃれだった。この世界にあるどんなものを使ったらこの空間が作れるんだろうか。

「お客様、何名様でございますか?」

「あ、2名です」

 彼がピースで2名ということを示すと、店員さんは2名様ご来店ですと店内に優しく広がるように言った後、僕らを窓側の席に案内した。

「なんでここ?」
 
 彼は本来こういうところには来ないし、失礼だがそもそもこういうところは彼には似合わない。僕はシワを寄せながら彼に聞く。

「だって瀬里菜ちゃんとよくここにデート来たって話してくれたじゃん」

 彼に全く悪気はないということは分かってはいるけれど、どうしても瀬里菜という言葉が胸の奥深くに刺さってしまう。たしかによく来たけれど……。

 彼はおしぼりで手を軽く拭いた後、メニュー表を見始めた。僕ももう1つあったメニュー表を開く。僕が彼女と来たときと全く変わりない料理が並んでいた。

「んー、悩むなー。どれも美味しそうだな」

「全部は食べたことないけど、どれも美味しいよ……」

「じゃあ俺は……キャラメルバナナにしようかな」
 
 メニューを見始めてすぐに、彼は自分の食べたいものを見つける。彼はこういう決め事については早い。だから僕と心だけを入れ替えたとしたら、もう瀬里菜がいないことは現実なのだから受け止めるしかない。そうなんだから瀬里菜の分まで楽しんで充実した人生を送ることが、自分にとって義務なんだ――とでも思えるんだろう。

 それに比べて僕は――。
 
 そういえば今彼が頼んだキャラメルバナナのパンケーキは僕がよく頼んでいたものだ。僕は何にすればいいのか少しの間悩んだが、瀬里菜がよく食べていたブルーベリークリームチーズのパンケーキを注文することにした。これを注文することで彼女のことを余計思い出してしまうけれども、瀬里菜との思い出の味を忘れるほうがよっぽど怖いと思った。

「おー、これがこのカフェのパンケーキかー。美味しそうだなー」

「うん、見た目もいいけど、味も美味しいよ」

 比較的店も空いていたためか、僕らの注文したパンケーキはすぐに来た。彼は珍しい絵画を見たときのようにパンケーキに興味津々で何枚も写真を撮っていた。

「そんなに撮るの?」

「いや、いいじゃん。俺こういうところ初めてなんだから……! あとでSNSにでもあげておこう……」

「じゃあ僕も――」
 
 僕も食べる前に1枚だけ写真を撮る。たった1枚だけ撮った理由は自分でもよくわからない。でも、なんかしら僕の体がそういう命令を出したんだろう。僕はふいに瀬里菜のラインを見る。

『明日はついに婚姻届を出す日だね! 僕は君みたいな人といられてなんだかずるいなって感じるぐらい幸せだよ! 明日、1つ言葉を贈りたいな』

 これが既読のつかなかったラインだ。つまり、僕の送った最後のラインだった。明日一つ言葉を贈りたい――それが『これからもよろしくね』だった。でも、贈ることはできなかった。伝わるときに言っておけばよかったという後悔もあるけれど、そういう後悔は僕を更に締め付けるのでしたくない。ただ、僕は言いたかった――。そんな一言すら現実というものは簡単に言えなくさせてしまうのだろうか。

「何見てるの?」

「いや、なんでもない……」

「そうか、じゃあいただきます」

「いただきます」

 いつの間にか自分ひとりの世界になっていたようだ。いや、僕ともういない彼女だけの世界に入っていたようだ。僕は慌てて自分を現実世界に引き戻す。それから彼に合わせる形でいただきますをする。

「おー、ほんとうだ美味しい!」

「だろ」

 彼はひとくち食べた途端、瞳を輝かせた。そんな彼を見て、僕はそう言う。瀬里菜が好きだった店だ、味に間違いはない。

「うん、ほんとうにうまい!」

 僕も一口目をいただく。このパンケーキは彼女とシェアしたときに少し食べたけど、やっぱり心を包み込んでくれる。食べるのってこんなに大切なことなんだなって改めて思わせてくれる。少しだけ悲しみを消すことができた気が、する。

「ちなみにさ、今更だけど瀬里菜ちゃんのどういうところを好きになったの?」

 いつの間にかもうかなり食べ進めていた彼がふいに僕に質問を投げてくる。彼女のいいところなんてたくさんあるし、たぶんこの世にある言葉では表せないようなこともいくつかあるんじゃないだろうか。そして僕にしか分からないような彼女のいいところも。

「僕が一番好きな部分は――仮に自分らしさを忘れたときも彼女は僕に自分らしさを取り戻させてくれるところかな」

 僕はその言葉の後にとある出来事をあげた。これは数年前――大学2年生の時だ。僕がある作業を瀬里菜もいたグループでやっている時、作業順番を間違えてもう一度最初からやり直しになってしまった。グループの皆は優しかったので、特別僕を非難したり怒ったりすることはなかったけれど、僕はこの一件でかなり自信を失ってしまった。

 その日の夜、彼女から明日来てほしいというラインが来て、翌日言われた場所に行くと彼女は僕に対してこう言ってくれた。

『君のさ、いいところはいっぱいあるんだから、小さな失敗で落ち込んでたら君のいいところ、出せないじゃん。小さなことで落ち込む時間があったら私に君の力で楽しくしてよ。自分の良さを出せないことも失敗の一つだよ』

 僕はこの言葉に動かされた。たったそれだけなのかと思われるかもしれないけれど、この言葉がきっかけで僕は彼女に好意をいだくようになった。僕が想いを伝え、付き合うようになってからも僕は何度も何度も彼女にこういう言葉をかけてもらった。そしてそんな彼女と結婚にまで至ろうとしたのだ。こんなにも僕のことを見てくれる人は今までいなかった。なんでこんなにも彼女は自然みたいに素敵な人なんだろう。でも、自然みたいに消えてしまうのだろう。一体、どうしてなんだろう……。

「おー。お前らしいな」

「そうかもね。僕は彼女と出逢えてよかった。運命の糸とかはわからないけど、僕の強い意志が繋いでくれたある意味プレゼントみたいなものだと思う」

「思うんじゃなくて、そうなんだよ。こういうのって何かあるんだよ」

 彼は僕の目を見てそこから少しも視線をそらすことなく少し強い口調でそういう。なんだか彼がこんなことを言うのは少し似合わないようにも思えた。

「そうなのか……」

「うん」

 彼は大きくうなずく。僕らが出逢ったのはただの運命なんかじゃない。そんな簡単な仕組みでなんてできていない。何かの力が複雑に絡まりあって僕らを出逢わせた……そうなんだろうか。

「俺も瀬里菜ちゃんと大学で少しだけ関わった事があるけど、瀬里菜ちゃん、慣れない仕事にも頑張ってくれてたし、俺のことすごく気にかけてくれた。お前は本当にいい人と出逢っちゃったんだなってその瞬間、思ったんだよね」

「……」

「瀬里菜ちゃんがさ、一つ言ってたことがあるんだよ。もし、私たちが結婚したときに旦那さんに言ってほしいって」

「えっ……?」

 僕は急に背筋が伸びる。瀬里菜が何かを伝えてほしいと彼に言った……? そして、それを未来の旦那さんに言ってほしいって……。何かが頭の中を巡る。血液とかそういうものではないなにかが……。

「『未来の旦那さんは、たぶん自分から恋をしたんだって思ってると思うけど、本当は私から恋をしたんだよ』そう伝えてほしいって言ってた」

 ――未来の旦那さんは、たぶん自分から恋をしたんだって思ってると思うけど、本当は私から恋をしたんだよ。

 その言葉が僕の心の扉を開ける。僕が初めに好意を伝えた。でも、その前から瀬里菜は僕に好意を持ってくれていた……? 人の心は見えない。本当にそうなのかはわからない。もしかしたら、そうなのかもしれない。だから瀬里菜は僕が君を好きになったという言葉を贈ってくれたのかもしれない。それが、誰かに託した言葉……。

「そして、『これからもずっとよろしく』だって……」

 ――これからもずっとよろしく。

 それは、僕が言いたかった言葉。

 でも、言えなかった言葉。

 最後に言わせてもらえなかった言葉。

 届けたかった言葉。

 僕が彼女に一番贈りたかった言葉。

 ずるい。

 言わせて。

 これからも僕は君と一緒にいたいんだよ。いや、君がいない人生は僕の人生ではないんだよ。

 僕らは家族になるんだから。いや、もうどこかでなってるんだから。

 なにを、どうすれば僕の気持ちは届くんだろう。
  
 僕はなんで言えなかったんだろう。

 少しだけ、悲しみを表す液体が瞳から出てきた。なんで泣いてるんだろう。こんなところで僕は泣いてるんだろう。

 わけわかんないよ……。

 僕って人は……。

 こんなんじゃ僕の人生終われないよ……。

 一生消えない傷ができちゃったじゃん……。

 するいよ、瀬里菜……。


                           *



 あの後、僕は今日は早めに仕事を早退させてもらった。彼は泣いていることについてどうしたのかと問いかけてくることもなく、逆に『大丈夫か、何かあったら言えよ』と優しい言葉をかけてくれた。

 過去を変えたい。一度だけでもいいから過去に戻りたいってこういうときなんだろうか。でも、僕にはそんな力を使うことはできない。ただの人間なんだから。

 家に帰っても何もすることはできなかった。ただぼっと時間が進むのを感じることなく、そのまま寝転んでいるだけだった。夜の8時を過ぎたが、特に今日はお腹が空くことなんてなかった。むしろなにもしたくない。この世界が透明であってほしい。

 今更だけど気付いた。瀬里菜がいなくなってから瀬里菜という人の存在の大きさに。瀬里菜がいないと僕はこんな風になってしまうのか。何もできないただの人間になってしまうのか。瀬里菜がいることで僕の人生は大きな道を作ることができているんだ。なんでそんな大切な人を失ってしまったんだろう。どうして僕はこの世界に一人ぼっちになってしまったんだろう。 

 何をやっても時間が経たない。スマホを見ていても。

 なぜだか僕は瀬里菜とのラインのやり取りを振り返っていた。もちろん、あのメッセージに既読はついていない。

『今日もお仕事お疲れ様! 久しぶりに一緒に御飯食べれて嬉しかったよ。でも、少し疲れてるように見えたから無理しないでね』

『もうすぐ、長期休みだね。家に上がった時も仕事をしてたけど、やっぱり頑張ってる姿が一番似合ってるよ!』

『昨日は仕事の相談に乗ってくれてありがとう! こんなにも優しい人と家族になれるなんて私はすごい人を見つけてしまったな!』

 こんな風に彼女からのメッセージが溢れていた。ずるいぐらいのメッセージだった。僕はこれ以上見るのは辛くなってしまいそうなので、一番下にスクロールした。
 
 でも、僕の視界はそれにより一瞬にして変わった。僕の呼吸は驚くほど荒くなる。

『既読』

 僕が送った最後の――『明日はついに婚姻届を出す日だね! 僕は君みたいな人といられてなんだかずるいなって感じるぐらい幸せだよ! 明日、1つ言葉を贈りたいな』その言葉に。

 もしかしたら彼女の家族が見たのかもしれない。生きているはずのない瀬里菜が見るなんてことはない。そうだ。でも、誰がこのメッセージを見てくれたんだろうか。もし、彼女の家族が読んだのなら瀬里菜にこのことを伝えてくれるだろうか。それならある意味届いたんじゃないだろうか。僕がいいたかったことが。本当の瀬里菜ではないけれど。

『ピーンポーン』

 何ヶ月かぶりに家のインターフォンが鳴る。何かいつもとは音が違う。何かが僕を導く――そんな感じがした。

 僕はすぐに玄関に向かう。靴をかかとを踏んだ状態で履く。そして、ドアノブに手を当てる。いつもよりもいくらか固い。

 ゆっくりとそのドアをまるでどこか遠くの世界に繋がっているかのような……そんな期待を込めながら右に回した。

 ――カチャ。

 そこには誰かがいた。でも、それは見たこともない人だった。僕と同じぐらいの歳の女の人。何かを……どこかを……。

「私、誰だか分かる?」

 その声が懐かしい。見たこともない人なのに、無性に懐かしい。その声と、そのほのかに香る匂いが答えを教えている。

「せ、り、な」

 僕は一音一音丁寧に発音していく。君の大切で美しい名前だから。失いたくない名前だから。ずっと残しておきたい名前だから。僕の大好きな人の名前だから。

「正解」

 やさしい声で瀬里菜はゆっくりとそう言う。

 でも、その目の前にいる瀬里菜はいつもの瀬里菜ではない。いくつも包帯や大きな絆創膏を顔も含め体の色々なところに貼られており、顔を半分ぐらいしか確認できない。痛々そうな姿。いや、本人はとても痛いはず。でも、そんなのを感じさせないような顔の漏れる部分から見えるにっこりとした笑顔。これが本物の瀬里菜なのかはまだわからない。ここは夢の世界なのかもしれない。

「その姿、どうしたの……?」

 僕は怖かったけれど聞いてみた。ここが本当の世界であるかどうかを確かめるために。

「あれ? 私のお母さんから聞いてなかった?」

「あ、お母さんから『ごめんなさい瀬里菜は、あなたと結婚できなくなってしまったの。瀬里菜はもう……、もう……』って言われた。だから――」

 僕は瀬里菜のお母さんにそう言われた。だから僕はもう瀬里菜は――と思っていた。

「えっ、そうなの? それはお母さん、流石(さすが)に大げさだな。私は、事故にあって……。まあ、私が前からの車に気をつけてなかったのが悪いんだけど……」

 瀬里菜は少し私って馬鹿だよねーと言うかのように一瞬笑った。つまりはもう会えなくなってしまったのではなく事故にあってしまっただけ。いや、でも、そんなことよりも――!

「じゃあ、君は、今ここにいるの?」
 
「うん、もちろん。こんな姿ではあるけど、私はこの世界にいます」

 瀬里菜はうなずいた。瀬里菜は今この世界にいる。間違いなくこの世界にいる。離さなくてもいいこの世界にいるんだ。

 瀬里菜は包帯が巻かれている手を僕の方に差し出してきた。だから僕は本当に本当にそっと手を握った。不思議な感覚だった。今まで体験したことのない感覚。

「でも、ごめん。今日はお別れを言いに来たんだ」

 瀬里菜の声の口調はさっきと全く変わりないのに、全然違うように聞こえてしまった。お別れって……。もちろんお別れの意味は分かる。でも、分からない。その別れるが。

「どうして、考え直して僕のことが――」

「いや――」

 僕が最後まで言う前に瀬里菜が少し強めの口調で僕の言葉を跳ね返す。少し、痛かった。

「そんなことは絶対ない。だって、もう聞いてるかもしれないけど私から恋をしたんだもん」

「じゃあなんで――」

 少し安心したと同時に、僕の頭の中でよくわからない感情が混じり合う。なんでという疑問もそこには含まれている。

「だって、こんな事故にあっただらしない私がいたら、君をだめにしちゃうから。それに、私、前みたいな姿じゃないよ。君は前の姿の私が好きなんでしょ? この傷、治らないかもしれないものも多いって言われたんだよ」

 瀬里菜――

 その言葉に僕は反論以外思いつかなかった。その間違いだらけの言葉に。なんで瀬里菜は頭がいいのに、しっかりものなのにそんなに間違いだらけの言葉を言うんだろう。

「なんだよ。そんな理由かよ」

「えっ……」

 瀬里菜は僕の冷えた声に少しだけ驚いたような顔をする。でも、僕は構わず続ける。

「君をだめにしちゃうなんて、そんなことはない。むしろ瀬里菜がいなくなった方が僕をだめにする。そのことをいない間分かった。瀬里菜の力は僕の思っている以上だったってことを……。それにさ、今よりも確かに前のほうが可愛いい姿かもしれない。でも、変わってないじゃん。瀬里菜の心は。だからそれは間違ってるよ」

 なんで言葉がこんなにも出てくるんだろう。いつもならきっとつまってしまうはずなのに。でも、今日は言いたいことが水が流れるように出てくる。

「だから――僕と、明日、婚姻届を出してください」

 僕は今までで一番瀬里菜の顔を見て言う。顔を見ただけじゃ瀬里菜が何を考えているのかは分からない。でも、きっと――

「……うん。私でも構わないなら。私は君と家族になりたいです」

 瀬里菜の言葉に僕は一体、何を感じたんだろう。分からない。自分でも分からない。だけど、そういう気持ちなら。僕なんかと家族になりたい――

「僕こそ、こんな僕で構わないのなら」

 こんなだめな僕でも構わないのなら僕は君のそばにいたい。いや、いさせてほしい。

「うん。もちろん」

 一度は途絶えかけた僕と瀬里菜が家族になるということを再び本当にした。2人の想いは繋がった。それに間違いなんてあるわけない。明日僕らは2人で市役所に婚姻届を出しに行く。そしてこのまま僕らは家族になる。

「あとさ、もう一つ言いたいことがあるんだった」

 そういえばまだ僕は、瀬里菜にある言葉を言いたかったんだった。この言葉を言いたかったから。これからのためにも。僕らがともに人生を生きるために、言っておきたい1つのこと。これが言えれば何かが舞い降りてきそう。

 僕は大きく息をすって言葉を全身から吹き込む。

「瀬里菜、これからもよろしく」

 ――この言葉が言えればもう、怖いものなんてない。