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 田中先生は一日で曲をアレンジしてくれた。アレンジ後の楽譜でもう一度牧野先輩に弾いてもらったところ、難易度は下がりつつ、曲の華やかさは十分保たれたままだった。

 譜面も随分分かりやすくなっていて、指運びの難しかった部分も多少易しくなっていた。だからといって沙耶がすぐ演奏できるというわけではないが、なんとか希望が見えてきた。

 まだ、練習を始めてたったの四日目だ。今日は日直だったから少し遅くなってしまったけれど、今から向かえば二時間は練習できる。 

 沙耶が旧音楽室までの道を急ぎながら歩いていると、思わぬ人に出くわした――牧野先輩だった。

「あ、沙耶。ちょうどよかった。運ぶの、手伝ってくれる?」

 先輩はまたしても、あの重そうな段ボール箱の前にいた。初めて沙耶が先輩と話をしたのも、たしかこの廊下だったろうか。

「はい、これから行くところでした」
「ここで会えてよかった。今日は少し遅くなるって、言いそびれたなと思ってたんだ」
「私もです」

 旧音楽室の外で見る先輩は、なんだかちょっと新鮮だった。表情も、声色も、着ている制服だって変わらないのに、何かがいつもと違う気がして少し緊張してしまう。

 今、小さな箱を抱えて緑のタイをしている牧野先輩は、相変わらずどこか作り物めいた雰囲気で夕陽の光に包まれている。ピアノを弾いている時のあの強い存在感はどこか薄れていて、なんだか一瞬目を離した隙に消えてしまいそうな不思議な淡さがあった。

 そういえば先輩って、三年生だけど、進路とかどうするのかな。旧音楽室に来ない水曜日だけは、さすがに受験勉強してるのかな。

 牧野先輩の隣にいるのに、ピアノ以外の事を考えているなんて。話題も上手く探せなくて、黙ったまま、二人で廊下を歩く――一言の会話もないままに、突きあたりについた、その時だった。

「あれ、藤塚さん?」
「……あ」

 顔を出したのは、沙耶に文化祭のピアノを頼んできた三人のうちの一人だった。

 ――あ、そうだ!

 劇の中でピアノ曲がどんな役割を果たすのか、彼女に聞かなければならない。放課後聞こうと思っていたのに日直のせいで聞きそびれていたので、今は絶好のチャンスと言えた。

 ちらり、と牧野先輩を見上げ、小声で耳打ちする。

「すみませんっ。曲のこと、聞いてこようかと思います!」
「ああ、なるほど……じゃ、俺は先に行ってるよ。待ってる」
「はい!」

 牧野先輩は沙耶たち二人に微笑みと会釈だけを残して、一人歩いていく。よし、勇気を出す時だ。たかだか一回話しかけるぐらい、一人で出来なくては困る。

「ごめんっ、ちょっと今いいかな?」
「うん、いいけど……ねぇ、今の人誰? 三年生だよね」
「牧野先輩。旧音楽室でよく一緒にピアノ弾いてるの」
「へー、転校生とか……じゃ、ないよね? 見たことなかったなぁ」

 言われてみれば、沙耶もあの日初めて話しかけられるまで、廊下や学食で牧野先輩を見たことはなかった。というか、旧音楽室以外で会うのもさっきが二度目だ。

「ねぇねぇ、あの先輩も、ピアノ弾けるってこと?」
「あっ、うん。すっごく上手いの。だから実は先輩に頼もうかとも思ってたり、したんだけど……」
「えっ」

 彼女の瞳が大きく見開かれる。慌てて、沙耶は言葉を続けた。

「でも先輩、当日予定があるみたいで」
「なんだ、よかった! ヤダヤダ、同じクラスの藤塚さんがいいんだって! 文化祭の出し物なんだしさ」
「あっ、そっか……そう、だよね。一応今練習してて、なんとかできるかも……? って、思ってる」
「あーそっか、練習とかも必要だよね。なんか藤塚さんすらすら弾いてたから、ぽんっといけちゃうのかななんて思っちゃってたんだけど」
「ううん、全然下手なの。でも田中先生にも楽譜直してもらったし、多分当日までには弾けるようになりそう」
「えーっごめん、そんなにしてくれてたんだ。ありがとう! 劇、絶対成功させようね!」

 弾けるような笑顔を前に、沙耶は胸がいっぱいになるのを感じていた。これは、もしかしなくても、沙耶がずっとずっと夢に見ていた『青春』ではないだろうか。

 どこか高揚する気持ちを抑えながら、沙耶は頭の中でリストアップしていた質問を、そのリスト通りに投げかけた。どんなシーンで曲を弾くことになるのか、必要な曲の長さはどれぐらいなのか。五分も話さないうちに、演奏のために必要な情報は大体聞くことができた。

 ――ちゃんと、聞けた。

「ありがとう、多分これだけ聞ければ大丈夫……だと思う」
「またなんでも聞いてね。私ら、ピアノのこと分かんないから無理言っちゃうかもしれないけど、意味不明だって思ったらそう言ってくれていいから!」
「うん――ありがとう」

 偶発的な事故のようなものだったとはいえ、文化祭でピアノを弾く機会をくれたクラスメイト達に、沙耶は感謝していた。あんなに落ち込んでいたのが嘘みたいだ。

 お礼を言って急ごうとすると、クラスメイトは少しいたずらっぽく笑って沙耶の腕を取った。

「ねぇねぇ、さっきの先輩も旧音楽室にいるの?」
「い……る、はずだけど。どうして?」
「なんかカッコいい人だったからビックリしちゃった。あれでピアノ弾けるってずるいよね?」
「そ、うかな……? うん、そうかも」

 たしかにずるい。色彩溢れるあの音楽を聞かされたら、誰だって先輩のことが羨ましくなるだろう。

 でも牧野先輩の本当のずるさは、もっと違うところにあるような気もした。

 いつも見ている先輩の横顔を思い出す。へらりと笑う顔、突然飛び出す軽口、そしてピアノと向き合う時の真剣な表情。

 今はただ、旧音楽室へ行って先輩の隣でピアノが弾きたかった。