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「とりあえず、楽譜コピーしてきました!」
旧音楽室に入るや否や、沙耶は今朝コピーしたばかりの楽譜を先輩に手渡した。最初に貰った一部は書き込みを行わず綺麗なまま残しておくことにして、沙耶と先輩の分をそれぞれ用意してみたのだ。
「準備がいいね。多分調整が必要だとは思うけど、一旦これで弾いてみようか」
「なる、ほど……?」
曲の『調整』ってどうやるんだろうと沙耶は不思議に思ったが、その調整によって少しでも弾きやすくなるのならありがたい。
「じゃ、前の時と同じように、まず俺が一度弾こう。一旦楽譜読ませてね」
そう言って先輩はピアノの前に座り、ぱらぱらと楽譜をめくる。何度も読み直し、シャーペンで謎の記号を書き込んだりしながら、時折左手の和音だけを鳴らしている。そういう風に音を取っていくんだなと、工程を横で見ているだけでも随分勉強になった。
「よし、大体分かった。弾くね。メトロノームも付けておこう」
カチ、カチ、と固い音がリズムを刻む。牧野先輩の身体がピアノへ向けて傾いて、最初の音が鳴った。
――ポロン。
まるで試し弾きみたいなその一音から、どこかへ導かれるような繊細な旋律が始まり、やがてたった十本の指で弾いているとは思えない大きなうねりへと育っていく。お城の晩餐会で演奏されるにふさわしい、華やかで、上品でありながら踊り出したくなるような、弾むメロディ。
先輩はまるで身体全体で弾いているかのように大きく動きながら、指先は器用に細かく鍵盤の上で踊り出し、音を重ね続けている。弾き始めも、中盤も、終わり方も、すべてのフェーズに強弱と感情があって、真横で聞いているだけでなんだか涙が出てくるようだった。この音楽の中で王子様と一緒に踊れるなら、たった五分のダンスでも十分恋に落ちてしまいそう。
――相変わらず、凄すぎる。初めて弾くとは思えない。
全ての音が引き払った後に、メトロノームの音だけが忘れ物みたいに響く。呆然とする沙耶とは対照に、先輩はふうと一つ溜息をついてすぐに椅子から立ち上がった。
「よいしょっと。で、どうだった?」
そこでようやく、沙耶は自分の鼓動が少し高鳴っているのに気が付いた。
「……先輩の演奏、すご、かったです」
「そう? 第四小節間違えたけど」
こんなに上手い人でも、ミスしたりするんだ。そう思うと少し勇気が湧いてくるような、どれほど上手くなってもピアノって難しいんだなあと果てが遠く感じるような。
「いや、俺の演奏のことじゃなくてさ。沙耶、どう? 弾けそう?」
「あーっと、そう、ですね……」
そうだ。この曲を、沙耶自身が弾かなければならないのだ。それも演劇の最中に、観客の目の前で、生演奏で。
「う。正直自信がありません」
「まあ、難しくはあるよね。繰り返しの場所も少ないから、記憶しなきゃいけない量も多いし」
「……です、よね」
「そういえば、演劇の中で使うんだよね? 全部弾ける必要ってあるのかな。もしくはループさせてほしいとか、そういう要望とか」
うっ、たしかに。曲はあくまでも『BGM』なのだから、劇の中でどのように使いたいのかをもう少し詳しく聞く必要がありそうだ。あんまり喋ったことない子たちだけど……。
「聞いて、みます……」
あまりの沙耶のうろたえように驚いたのか、牧野先輩はゆっくりと首を傾げた。
「聞け、そう……?」
「きっ、聞けます! あの、私っていつもこう、すぐ怖気づくところがあって。なんというか、ほんとにほんとに内気すぎるというか」
「そう?」
「はい。私って……先輩と話している時は、たしかに、ちょっとマシかもですけど、クラスの中じゃぜんぜん誰とも喋れなくて。友達も、学校の外で遊べる子はいなかったりとか……なんて、あれ、どうしたんですか?」
うーん、と牧野先輩が首を傾げている。いまいちピンと来ていないようだ。
「先輩?」
「いや、話してる感じ、あんまりそんな感じしないなって。でも、たしかに沙耶のピアノはちょっと内気な人の弾き方だなって気はするけどね」
「……ピアノの音を聞いただけで、そんなことまで分かるんですか?」
まるで心の中が見透かされているかのようだ。演奏にそこまで『自分』が詰まっていたなんて思いもしかなった。
「うーん、分かるような気もするし、まあでも血液型診断みたいなもので『当たってる気がする』だけかも」
じゃあ、先輩のピアノの音は、先輩の心のどんな部分を体現しているんだろう。今度もう一度弾いてもらう時には、あの繊細な音の洪水の中に、牧野先輩の楽観的な性格を探してみようかな――なんて、沙耶が思った時だった。牧野先輩が、ついでのように言った。
「まぁ、俺も友達は少ないからなあ」
「……それ、なんか意外ですね」
「そう? 初めて言われた」
こんなに人懐っこい人に、友達が少ないなんて、素直に意外だった。
……沙耶と同じく、クラスでは全然人と喋れない……なんてことは、なさそうだけど。
「それはさておき。この曲が難しいのは確かだね」
話が本題に戻った。たしかに、牧野先輩でも弾き間違える曲を、沙耶がすらすらと止まらず弾けるとは思えない。
「あの、最悪私がダメだったら、代わってくれたり……?」
「あはは、それはできないよ」
そう言うだろうなあとは思いつつ、僅かな希望を掛けて牧野先輩を見つめてみる。一つでいいから保険が欲しかった。
「ダメ。できない」
子猫を静かに説得するような、優しいけれど反論しようのない言い方だった。でも、そこに叱るような響きはない。すこし不思議に思って、沙耶は牧野先輩の顔色を窺う。
いつもと同じ、涼し気で、怖いことや嫌なことなんて一つもないみたいな楽観的な表情だった。
「俺は文化祭には参加しない予定だからね」
「え……そうなん、ですか」
「そう。当日いないんだよ」
文化祭に不参加の生徒がいるとは思ってもいなかった。三年生は受験を控えているとはいっても、曲がりなりにも高校最後のイベントごとだ。
……まあそもそも、受験を理由にするなら、毎日旧音楽室で沙耶とピアノを弾いているわけがないけれど。
「先輩のクラスは、何やるんですか?」
「さあ? たしか模擬店だったかな」
「じゃあ、店番とかは?」
「シフト制なんだけど、俺はどのシフトにも入ってないんだ」
「また適当なこと言って抜けたんですか」
「人聞き悪いなあ」
ふと、先輩が当日いない――ということの意味に気が付いて、沙耶は口を尖らせた。
「……じゃ、私の演奏、聞きに来てくれないんですね」
「残念ながら、ね」
なんだか勝手に、お披露目の場には先輩がいて、観客席の後ろで、なんなら舞台袖で、聞いていてくれるものだと思っていた。いつも練習している時みたいに、メトロノームをセットして、はいどうぞって掛け声までかけてくれるような気がしていた。そんな約束は一つもしていないのに。
「……ごめんね」
先輩が苦笑いを浮かべながらそう言った。
それは、沙耶にとって初めて見る表情だった。先輩の、いつもの底抜けの気楽さ、ふんわりとした風のような柔らかさがほんの少し損なわれている。その代わりに、ああ本気で言っているんだなってことがよく分かる静かな声。
そっか、ってことは、本当に来てくれないんだ。子どもみたいないじけ方だけど、やっぱり先輩には来てほしかった。
さて、と切り替えるように先輩が楽譜を持ち上げる。
「まずは、この曲の難易度をどうにかしないとね」
「曲の長さを短くしてみる、とか……?」
「いや、もっと適切な方法があるよ。アレンジを加えちゃおっか」
「えっ先輩、そんなことも出来るんですか!」
「出来ないよ」
出来ないの? と、沙耶はオウム返しで文句を言いたくなってしまったが、それを言葉にする前に先輩は答えを口にした。
「忘れたの? この部屋の隣には、こういうことを生徒に教えるのが専門の人がいるってこと――人を頼ろう、特に、大人をね」