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話を聞き終えた牧野先輩は、珍しく真面目な顔だった。
「――つまり、弾けない曲の演奏を依頼されて困ってる、と」
まあ、一行でまとめると確かにそういうことだ。情緒のない言い方だなあと沙耶は口を尖らせたくなったけれど、泣き顔を見られている手前強く出れない。
ふーむ、と先輩が考えるように顎に手を当てる。そうだ、今からでも先輩に代打を頼めばいいんじゃないだろうかと沙耶が気付いた瞬間、先輩が口を開いた。
「あのさあ」
「はい?」
「別に悩むようなことじゃなくて、その曲を、今から、弾けるようになればいいんじゃない?」
「…………えーっと」
まさか、そう来るとは思わなかった。ひょっとしたら一緒に断り方を考えてくれるのかな、ぐらいに思っていたのだけれど。
「だって、どのみち、沙耶はピアノが弾けるようになりたかったんだろ」
それは、そうだ。でも、今やっている曲と今回弾かなければならない曲とは、難易度が何もかも違うはずだ。そもそも、沙耶に人前でピアノが弾けるとは思えなかった。
「一旦さ、やってみるとして、どうやればいいのかって考えてみようよ。ま、ダメだったらやんなきゃいい」
……そんな風に、考えられるだろうか。出来ない理由は、探すまでもなく沢山ある。どうやってやろうかと考えようにも、何から手を付けていいのか分からない。
視線を落として鍵盤を見つめる沙耶に、いつものように牧野先輩がへらりと笑う。
「これはそんなに悪い状況じゃないよ。締切と課題曲があちらからやってきてくれたんだ、しかも難易度やスケジュールも実に都合が良い」
「そう、なんですか……?」
「無理のない計画で練習できるよ。ま、毎日ここに来てもらうことにはなるけどね」
その言い方は、先輩の協力を前提としているように、沙耶には聞こえた。
「あの、手伝ってくれるってことですか?」
「そりゃあもちろん。泣いてる後輩をほっとくタイプの男に見える?」
見えない。全然見えない。じわり、と涙がもう一度溢れてくる。牧野先輩はいつだって、どうしてか沙耶を信じてくれた。いつも当然のように沙耶のことを分かってくれたからこそ、今日までピアノに向き合い続けることができた。
「違うんです……その」
そうだ、自分が何を一番心配していたのか、沙耶はようやく気が付くことが出来た。この質問に先輩が答えてくれたら、きっと挑戦することが出来る。
「私にできると、思いますか?」
「いつも言ってることだけど。今日できないことだって、明日はできるかもしれないんだよ。今日練習すれば、明日はできるようになってる可能性のほうが高いんだから」
先輩の言葉は、いつも一貫していた。本当にシンプルで、笑っちゃうぐらいまっすぐに、沙耶が弾けると信じている。
……そしてその言葉が、沙耶には必要だった。甘えているのは分かっているけれど、そう言ってもらえることで、なんだか本当にできるのではないかという気がしてくる。
「やって……みます。弾けたらいいなって、本当にそう思うんです」
「きっと弾ける」
力強いその言葉には一つも根拠がなくて、沙耶はつい笑ってしまう。
「笑わないでよ。だって、弾けたらそれが一番でしょ? ダメだったら謝ればいいわけだし」
「そんな簡単には考えられないですけど、でも、一回やってみます」
やる前からできないなんて言ってちゃダメだ――なんて、以前の沙耶が聞いたら、そんな言葉には現実感がなさすぎるって首を振っただろう。でも今の沙耶には、この言葉の正しさがよく分かる。
青春に夢を見ていた沙耶は、青春を夢だと捉えていたからこそ、そこに手を伸ばすことをしなかった。強引に引き上げてくれたのは、いつも先輩だった。
「がんばって……みます」
こう言えるようになったのは、先輩のお陰だ。
気持ちを新たに、ぐっと握りこぶしを作ったところで、牧野先輩がもう一度首を捻った。
「ところで一つ不思議なんだけど……そんなに無理だって思うなら、どうして一回引き受けたの?」
「ひ、引き受けたわけじゃないですっ! ただ……そうですね、結局、私、押しに弱いんです」
ふうん、と先輩が相槌を打つ。先輩のような人には気の弱い人間の気持ちなど分からないのか、なにやら不服そうだ。
「それじゃあ、毎日ピアノを弾いてるのも、俺が沙耶を押しに押して誘ったから?」
「――え?」
いや、それは違う。沙耶は慌てて立ち上がり、さっきよりも近い目線で先輩の顔を見つめた。
「違います。先輩のピアノが、大好きだからです」
先輩は珍しく少し面食らったように目を見開いた。先輩が返事をする前に、思っていることを全部伝えておこうと、沙耶は再び口を開く。
「あの白い音も、赤い音も、どれも全部がすごいなって思ってたんです。あんな音が、私にも、弾けたらなって……だから、私」
だから、なんだと言うのだろう。次の言葉が探せずに口をぱくぱくさせていたら、そんな沙耶を見た牧野先輩が噴き出して笑った。あはは、と声を出して大口まで開けている。
「もっ、もうっ……!」
全く緊張感のない人だ、と脱力する沙耶に、ごめんごめんと先輩がまたへらりと笑う。
「じゃあ、お望み通り、強欲にも全部手に入れてみようよ。青春と、打ち込めるもの、あと……なんだっけ?」
それは初めて先輩に会った日に、沙耶が熱弁した『青春』の定義だった。
青春、打ち込めるもの、あと、恋。
「いっ、いいんです、残りの一つは!」
「そうなの? なんだったっけ?」
「とにかくっ、いいんです。一個も手に入らないと思ってたところ、二つも手に入りそう。私、ピアノに懸けてみたいと思います」
「そんな大層に思われたら、ピアノの方も重たく感じるかもしれないなぁ」
「……じゃ、どうしたらいいって言うんですか」
「ただ弾けるようになればいいよ。弾きたい通りにね」
とんでもなく難しいことを、まるで簡単なことかのように言う。呆れちゃう時もあれば、凄いなあと心の底から思うこともある。改めて、牧野先輩は不思議な人だ、と沙耶は思う。
「今日はさすがにもう遅いね。明日までに曲を聞き込んでおいで。俺もこの曲知らないから、ちょっと頑張ってみるよ」
沙耶は頷いた。先輩の言う通りに、帰り道も、宿題中も、ずっとシンデレラの晩餐会の曲を聞いた。防水スピーカーまで持ち出して、長風呂しながら浴槽の中でも聞いた。
ベッドの中に潜り込んで眠るまでの間も、曲で頭の中を一杯にした。眠りに落ちる直前、ぼうっとした頭でメロディを分解しながら、沙耶はどこか不思議な気持ちでいた。今この瞬間、同じ曲を、多分牧野先輩も聞いている。