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拙いながらも一曲弾き終えることができた興奮が、一夜明けてもまだ冷めやらなかった。
牧野先輩は沙耶のピアノを録音してくれていて、その日のうちにデータもくれた。そういえば、それをきっかけに遂に連絡先も交換した。
家で何度か聞きなおしてみるといいよ、というアドバイスに従って、下校中、眠る前、登校中、お昼時間にも聞いてみた。弾き始めの右手と左手がズレているし、中盤でリズムが崩れている。最後の方、気づいてなかったけど弾き間違いしてるかも。見つけたミスを修正したいと思ったけれど、今日は水曜日だから、牧野先輩はいない。
でも、先輩がいなくても、ピアノは弾ける。少しだけでもいいから、旧音楽室に寄ってみようかな。
こんなにピアノのことを好きになれるなんて思ってもいなかった。牧野先輩にあの日語った『青春』の二文字が、現実のものとして、今沙耶の目の前にある。
少し高鳴る心臓を抑えながら、旧音楽室の扉を開く。当然だけれど、先輩はいなかった。
先輩のいない旧音楽室は、人が一人いない分を差し引いても、いつもより寂しい感じがした。なんというか、色がない。ピアノを弾いていない時でも、先輩は淡い色彩を周囲に放っている人であるような気がしている。
ピアノの前に座り、左手で和音の練習をする。右手でメロディを追いかけて、少し手が慣れてきたと感じたところで、曲の初めから通しで弾いてみる――楽しい!
ベッドの中で、電車の中で、教室で、何度もイヤホンで聞いたミスを、今ならこの手で直せる。ピアノの音の迫力も、録音とは段違いだ。自分で音楽を奏でられるのがこんなに面白いことだなんて、一カ月前までの沙耶は知らなかった。
最後のフレーズが終わり、メロディが空気に溶けて消えていく。鍵盤から手を離し、ふぅ、と沙耶が一息ついた時だった。
「すごーい!」
突然背後から聞こえた複数人の大声に、沙耶の身体は跳ね上がった。声の方向と大きさからして、それが沙耶に掛けられた言葉であることは明白だった。
振り返ると、同じクラスの女子が三人ほど旧音楽室の入り口に立っていた。
「めちゃくちゃ上手いね! 藤塚さんって、ピアノ出来るんだ」
まさか。結局入りの部分は間違えたし、途中メロディを追いかけることに必死で強弱の表現にまで頭が回っていないところがあった。けれど何も言えず黙っているうちに三人はずいずいとピアノの隣にまでやってきて、あっという間に沙耶は彼女らに取り囲まれてしまう。
急速に、身体の熱が冷めていくのを感じていた。
「ねぇ、これ藤塚さんにお願いするのがよくない?」
「だねだね!」
「ピアノ弾ける人のこと先生に聞いてみようと思ってたんだけど、ほんと、ビンゴ! って感じ」
「び、ビンゴ……?」
雲行きがおかしい。沙耶は不安を感じながらも、愛想笑いでごまかそうとした。できれば一度時を止めて、考える時間が欲しいとさえ思った。しかしそんなファンタジーが起きるわけもなく、三人は止まることなく喋り続けている。
「しかもめちゃくちゃ上手いし!」
「あっ、ごめんごめん。私らね、ピアノ弾ける人探してたの!」
「文化祭の出し物で劇やろーってなったの覚えてる? 途中、晩餐会のシーンあるじゃん?」
「実は『シンデレラ』って、何年か前もやってるんだよね」
「で、インスタでタグ漁って昔の投稿とか見たらさ、先輩たち皆ピアノとか使ってやってんの! 音源でよくない? って思ってたけど、やっぱ生演奏っていいかも~って思い始めてさ」
「田中先生に頼むか、それかピアノ弾ける人に相談したいって思ってたんだよね」
「でも、まさか同じクラスにピアノ弾ける人いたなんて!」
三人はそれぞれ交互に、畳みかけるように、喋り続けていた。沙耶は一言も言葉を返すことが出来ず、位置としては中央にいるにも関わらず、成り行きを見守るだけの存在になっていた。
やがて文化祭当日の予定を聞かれ、十四時から十五時半の間、体育館に来ることが出来るかどうかを聞かれた。一緒に文化祭を回る人はいるか、予定はあるだろうか、と。それがおそらく断ることが出来る最後のチャンスだったのにも関わらず、沙耶は馬鹿正直に、予定は何もないと返事した。
予定が空いていると回答した沙耶に、三人が遠慮をすることはなかった。一目見ただけで沙耶には到底弾けないほど難しいと分かる楽譜を残し、ほんっとーにありがとうね、と笑いながら手を振って消えていく。
旧音楽室が再び静寂に包まれたその時、沙耶の心の奥には色彩の一切ない真っ黒な感情が押し寄せていた。
でも、これは自分のせいだ。取り囲まれて頼み事をされて、まるで攻撃されているかのように感じていたけれど、三人にそんな意思がないのは明らかだった。
ただ、沙耶が気弱だっただけだ。今までと同じ。勇気が出なくて、友達が作れなかった。勇気が出なくて、部活に入れなかった。勇気が出なくて、ピアノを弾く牧野先輩に声を掛けることができなかった。
――勇気が出なくて、断ることすら出来なかった。
鍵盤に触れる。でも、もう一度演奏しようという気にはなれなかった。どうやって断ればいいというのだろう。さっき言えれば良かったのに。無理だと言えれば良かったのに。
真っ黒な気持ちが、胸の奥の奥まで広がっていく。せっかく、なんでもない白黒の日常を、メロディに、色付けてもらったのに。
ドレミファソラシドに与えてもらった全てが脱色されて、色も、音も、何一つなかった。
旧音楽室に再び光をともしたのは、やっぱりあの人だった。
「――あれ、なんでここに?」
それは、聞き慣れた声だった。振り返ると、いるはずのない牧野先輩が立っていた。
夕陽に照らされる先輩は、相変わらずなんだか絵になっている。
「……先輩こそ、どうして?」
「今日は早退だったから」
「訳が分かりません。早退したなら、なんでここにいるんですか?」
「早退ついでに、いつもの用事も済ませてきたんだよ。水曜日はいないって言ってあったから、今日は来ないかと思ってた。ピアノが恋しくなっちゃった?」
「……ほんとに、居なければよかったんです」
旧音楽室に寄ろうなんて思わなければ。ピアノを弾こうなんて思わなければ。他の曜日だったなら、自分の代わりに先輩を突き出すことが出来た気がする。
「……へえ?」
先輩は不思議そうに首を傾げてから、暫く沙耶の言葉を待っていた。しかし沙耶が何も話さないようだと分かると、初めて喋ったあの日と同じように、優しく声をかけてくれた。
「じゃ、まあ。何があったか、話してみてよ」
泣きたくないのに、視界はもう歪みに歪んで、涙が落ちるのを待つだけになっていた。
沙耶は、ついさっきあったことを先輩に全部話した。同級生がいるのに気が付かずピアノを弾いていたこと。その結果、ピアノが弾けると思いこまれたこと。彼女らは文化祭の劇でピアノを弾く人を探していたらしいこと。そして、その役がどうやら沙耶に決まってしまったらしいこと……。