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初めて練習曲の楽譜を手に取った日から、一週間が経った。
弾けるフレーズを、毎日一つずつ増やしていく。ようやく曲の最後まで辿り着いて一通りのメロディを頭に入れ終わったからといって、通しで弾けるわけではない。フレーズ間の音の移行や指運びも難しいので、何度も何度も詰まってしまう。
「ううう……」
「はいはい、今のはちょっと惜しかったよ。もう一回やってみよう」
失敗続きで心がくじけそうな沙耶を、牧野先輩は根気強く励まし続けてくれた。ちょっとは嫌にならないのだろうかと、不思議になってくるぐらいだ。
「なんか、いきなり弾く前にもうちょっと、基礎練、みたいなのってありませんか……?」
「うーん、指の準備運動みたいなものがなくはないけど。でも、一旦はこの曲で基本的な指運びを身に着けたほうがいいと思うよ」
「な、るほど……」
もしかして最初から高いハードルに挑みすぎているのではと思ったのだが、今は目の前のこの高い壁に挑戦する他ないらしい。
頭を抱える沙耶に、先輩は苦笑いで答える。
「全部覚える必要はないよ。重要な箇所だけ確実に頭に入れておいて、残りの部分は楽譜を確認しつつ弾けばいいわけだしね」
「そ、そんな簡単に言って……」
楽譜と鍵盤を両方見ながら指を動かすなんて難しすぎる。いっそ、全部覚えろと言われたほうが簡単だ。
「……沙耶は、今日はずいぶんと詰まってるみたいだね」
「曲の全体の流れも、まだ頭に入っていないような気がするんです。家で聞いてみたりもしてるんですけど」
「聞き込むのはとても大事だね。あとは……そうだな、曲や作曲家のバックグラウンドを知ってみる、とか?」
「バックグラウンド、ですか」
作曲者はたしかベートーヴェンだったろうか。音楽室に貼ってあるパネルで顔は知っているけれど、本人の性格や、どういう人生を送った人なのかは全く知らなかった。
「ベートーヴェンって……どんな人なんですか?」
「恋多き男かな。『エリーゼのために』は知ってるだろ? あれなんかはまさに分かりやすく、エリーゼちゃんのために書かれた曲なんだ」
「へぇ……なんか、率直でまっすぐで良いですね。隠さない愛、って感じ」
でも、沙耶が今練習しているこの曲は……どうだろう? たしかに、火花が散るような軽いリズム、明るいメロディが印象的な曲ではあるけれど、ただそれだけじゃないような――。
「実は、ベートーヴェンって謎が一つあってね。死後に、『不滅の恋人』へって書かれた、出されていない手紙が見つかってるんだ」
「手紙?」
「そう。この恋人が一体全体どこの誰なのか、長年議論になっている」
「へえ……」
真っすぐで、軽快で、でも少しミステリアス。それなら、この曲のイメージとも合うような気がした。
「ま、現代の俺たちには、『出していない恋人への手紙』っていまいちピンと来ないけどね。送信ボタンがなかなか押せないメッセージって感じかな?」
たしかに、高校生にもなるともう手紙をやりとりする機会なんてない。恋人同士なら、プレゼントに手書きのカードを付けたりすることはありそうだけど……そういったものと縁がなく、友人も少なかった沙耶にとっては、どのみち想像できない話だ。でも。
「貰ったことないですけど、私は割と欲しいです、手紙」
「そう? じゃ、ベートーヴェンとも相性がよさそうだ」
あはは、と先輩が大口を開けて笑った。
「さて、ベートーヴェンのことが分かってきたような気がするところで――もう一回、弾いてみようか」
「うっ」
先輩は『ベートーヴェンとも相性がよさそう』なんて言ってくれたけれど、百歩譲ってたとえ気の合う関係だったとしても、その人の書いた曲を上手く演奏できるかどうかは話が全く別だ。
「弾けます、かね……?」
「ま、何百年も前にこの曲を書いた人のことなんて、気にしなくてもいいよ。目の前のピアノと、この楽譜だけ追いかけてみればいい」
「じゃ、今喋ってた時間はなんだったんですか?」
「んー、リフレッシュのための雑談?」
いつもの締まりのない笑顔で、牧野先輩が笑う。
「もうっ……分かりました、やってみます!」
全身にぐっと力を入れる。何百年も前に死んだ人のことも、面倒見は良いのに少し意地悪な先輩のことも気にしない。ただ目の前の楽譜とピアノだけに向き合って、音を鳴らす。
その覚悟ができてから、ぽろん、と一つ目の鍵盤を押した。
そこから先は、誰かの後ろをついていっているみたいに、繋がる紐を手繰り寄せているみたいに、音が繋がっていく。ドがミを呼んで、次にファを呼ぶ。右手の主旋律に従って、左手が和音を奏でる。初心者用の簡単な譜面なのに、今の沙耶には難しい。それでも、付いていく、付いていく。曲の最後が見えるまで、手を止めずに演奏を続けていく。
――これなら、弾けるかもしれない!
きっと、横で聞いている先輩には失笑ものだったろう。いっそ、それでもいい。他の誰にどう聞こえていたっていい。音を奏でる気持ちよさが沙耶の指を動かしていた。
音の美しさが一つの波になる。その中に溺れていたいのに、あれほど長いと感じていた五分間が、あっという間に終わった。
最後のメロディを弾き終えて、自然とピアノの音が止むのを待つ。音の響きはゆっくりと、教室の中へ消えていく。終わった――と感じられた瞬間に、ピアノから手を離す。カタン、と鍵盤が押しあがる音がして、一つの曲が終わりを迎えた。
なんと言えばいいのか、沙耶は分からなかった。もちろん、演奏に酷いところはいっぱいあった。でも、一度も詰まったりしなかったし、メロディの弾き間違いもなかった。沙耶の勘違いでなければ、おそらく左手も上手く付いてきてくれていた。ということは、ということは。
「ほら、弾けたじゃん」
先輩のほうを振り返る。下校時刻間際のこの時間、柱にもたれかかって沙耶を見ている先輩に当たる逆光が、輪郭を橙色に浮かびあがらせている。
先輩は、ピアノを弾いていても、いなくても、沙耶にとって光のような存在であり続けている。