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 荷物の運び先は、旧音楽室だった。昨日、沙耶がピアノを覗き見したあの教室だ。

 普段授業で使われていないからか、教室の四隅のうち三つは、今運んできたような段ボールの山で埋め尽くされている。それでもこの部屋が倉庫ではなく「旧音楽室」だと分かるのは、残りの一つの隅に存在感のある大きなグランドピアノが置いてあるからだった。
 旧音楽室は、昨日と同じく夕陽を受けて橙色に染まっていた。

 元の場所にはまだまだ沢山の箱があったはずなのに、牧野先輩は戻る様子を見せず、箱を置いて早々にピアノの前に座った。

「あの、もういいんでしょうか……?」
「まさか、これからだよ」

 牧野先輩が、ピアノの蓋を開ける。譜面置きの楽譜をぱらぱらと捲りながら、準備運動のようにいくつかの音を確かめている。

「ピアノ、弾くんですか……?」
「うん、弾くよ」

 ポロロン、と牧野先輩の指が小鳥のさえずりのようにいくつかの音を奏でる。零れたその音たちが、旧音楽室の中に広がって震えている。

 その音に引き寄せられて、沙耶はピアノへ一歩ずつ近づいていた。牧野先輩が、崩れた音たちをかき集めて音楽を作っていく。リズムもメロディもなかった混沌の中から、音が集合して一曲になる。

 ――すごい。

 沙耶はその場から離れることができなかった。何もできず、ただ牧野先輩のピアノを聞いていた。

 音の洪水。うねり、強弱、打ち寄せられるパワー。メロディの一つ一つが絡み合って響きを作り、大きな波が沙耶を飲みこんでいった。

 全てのメロディの波が遠のいて、完全な静寂が取り戻されてから、沙耶は口を開いた。

「今の、なんていう曲ですか?」
「クラシックの、ワルツ第六番」

 真っ青な曲だと思った。最初は優しい黒と夜の青が入り混じって、少しずつ白くなり、やがて最後には真っ青な空がやってくる。牧野先輩の弾くピアノには、音に色がついていた。その色に、どうしようもなく沙耶は焦がれていた。

「すごい」
「そう?」

 褒め言葉なんて聞き慣れているのだろう。牧野先輩は気にする様子もなく、言葉を続けた。

「ピアノ、好き?」
「好きっていうか……好き、ではあるんですけど。ただ、青くて」
「青?」
「先輩の演奏の、音のことです。最初は真っ青だと思ったんですけれど。そこから黒が始まって、グラデーションが綺麗でたまらなくて」
「青? 俺のピアノが?」

 牧野先輩はすこし考え込むように白黒の鍵盤をしばらく見つめていたが、やがて柔らかい笑顔を取り戻して沙耶を見た。

「次は沙耶が弾く?」
「まさか! ピアノなんて弾けません」

 ピアノどころか、リコーダーもピアニカだって怪しいものだ。自分の指が、あんなに美しい音を奏でられるとは思えない。

「ふうん。じゃあ弾けるようになるまで練習してみる?」
「練習しても、多分無理です。多分っていうか……絶対」
「でも、ピアノに興味あるんじゃないの?」

 ピアノの前に座ったままの牧野先輩が、不思議そうに沙耶を見上げて言った。

「いえ……興味なんて。今まで、弾いたこともないし」
「あれ、違った? だって見てたでしょ、昨日そこの窓から」

 顔が熱くなるのが分かった。きっと今、沙耶はゆであがったような真っ赤な顔をしているに違いない。

 まさか、気づかれていたなんて。いや、それよりも、あの時ピアノを弾いていたのが、牧野先輩だったなんて。

「……昨日のピアノも、先輩が弾いてたんですか?」
「ああ、沙耶の方からは見えてなかったんだね。俺としては、バッチリ目が合ってたつもりだったんだけど」
「えっ」

 じゃあ、牧野先輩は沙耶と初対面のつもりではなかったということになる。

「あんなに見てたから、ピアノ好きなんじゃないかなと思って」
「それは……」

 牧野先輩の奏でるピアノの音は、好きだった。今聞いた……なんだっけ、ワルツも好きだ。弾く曲ごとに違う色がついていて、その色彩の海に溺れてしまいそうになる。できるだけ近くで、できるだけ長く聞いていたくなるそのメロディたち。

 でも、それを自分で演奏できるかと聞かれたら、話は別だ。それほど音楽に打ち込める自信がない。

「なんでさっき、私に声を掛けたんですか?」
「言わなかったっけ? 身体が弱いから、重たいほうの箱を持てなかったんだよって」
「……そんなに身体が弱い生徒に、力仕事を頼む先生がいるとは思えません」
「へぇ、名推理だね」

 牧野先輩が、苦笑しながら立ち上がる。ピアノの前に座るよう椅子を手で示されたけれど、素直に座る気にはなれなかった。

「どうしたの?」

 不思議そうにする先輩に、どう説明すればいいだろう。結局沙耶の口から出たのは、こんな不可解な一言だった。

「資格が……ないんです」
「資格? ピアノを弾く資格ってこと?」
「いいえ。青春に打ち込む資格」

 きょとん、とした顔で先輩がぽかんと口を開ける。そしてやがて、外国語の発音を確かめるみたいに、ゆっくりと言った。

「せー、しゅん?」

 へらり、と先輩が口の端だけで笑った。

「もうっ、馬鹿にしないでください!」
「いや、馬鹿にはしてないけど、まだよく分かんないなって」

 先輩は沙耶から離れて、ピアノの周囲をぐるりと回り始める。一歩ずつ、ゆっくりと進みながら、沙耶に言い聞かせるような言い方で話を始める。

「青春ってさ、具体的に何? 青春に打ち込む資格がないからピアノが弾けないってことは、もしピアノが弾けるようになったらそれは青春に繋がるって、沙耶は思ってるの?」
「青春は、なんていうか、今全力を持って打ち込めるもの、二十になったって三十になったって忘れられないもの、あと、恋とか、そういう……」
「……恋?」
「いやっ、なんでもいいんです! とにかくっ、ピアノを青春にするだけの資格が、私にないんですっ!」
「でも、もしピアノが弾けるようになれば、沙耶が何やら強く夢想している『青春』ってやつが叶うんだよね?」

 む、夢想って……。たしかに強すぎる憧れはあるけれど。

「私……音感がないんです。それに、手先も不器用だし」
「俺も手先は器用じゃないよ。ほら、この小指にあるの、昨日包丁で切った傷跡」
「でも、音楽の素養はきっと小さい頃からありましたよね?」
「今度俺とカラオケ行こうか。きっと自信が湧いてくると思うな」

 どうして、この人はこんなに私を励ましてくれるんだろう。

 沙耶の言い訳一つ一つに、牧野先輩は絆創膏を貼るみたいに対処してくれる。ほぼ初対面の後輩に対して、どうしてこうも親切にしてくれるのだろうう。牧野先輩のことが、よく分からなかった。

 ただ、少しだけ、気力のようなものが湧きあがっていた。

 握った拳を震わせて、沙耶は一度だけ勇気を出してみることにした。

「私でも、弾けるようになりますか……?」
「やってれば誰でも弾けるようになるよ。ピアニストになりたいとかなら別だけど」
「どうすれば、弾けるようになりますか?」
「今日弾けなくても、明日も弾けなくても、とにかくピアノに触り続けること。嫌いにならずに、ずっと一緒にいられるかどうか」

 ちらり、と沙耶は牧野先輩の表情を確認する。そこには、先ほどと変わらず、へらり、と笑う顔があった。

「もし、ピアノに嫌われちゃったら?」
「物は人間を嫌いにならないよ。嫌いになるのはいつも俺たちの方だ」

 先輩の言葉には、全て妙な説得力があった。

「で、ピアノ、弾く?」

 ここまでお膳立てされて、ノーと言える訳が無かった。あの日のピアノのメロディに、沙耶は確かに憧れていた。今でもこの耳に聞こえてくるような気がしてくるほどに。

「……弾きます。放課後、ここに来ても良いですか?」
「良いよ。水曜日以外なら、俺は毎日いるから」

 ピアノの横に立って笑う先輩は、さっき廊下で初めて話しかけてきた時と同じように、ものすごく絵になっていた。
 その日から、沙耶と先輩の週四のピアノレッスンが始まった。