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 旧音楽室に着くと、いつもと同じように牧野先輩がピアノの前に座っていた。楽譜をぱらぱらとめくりながら、曲の流れを確認していたようだ。

「うまく話せた?」
「はいっ!」

 牧野先輩はいつも通りの能天気さで、へらりと笑う。

「それはよかった」

 沙耶は、先ほど言われたばかりの言葉を思い出す。

 ――カッコいい人だったから、ビックリしちゃった。

 たしかに、初めて牧野先輩に話しかけられた時には驚いた。映画でも撮ってるのかなって周囲を見渡したくなるぐらい、絵になる人だったから。

 でもその後、この人の本当に凄いところはピアノの演奏技術だと知った。ただ弾けるというだけじゃなくて、音程に色彩を乗せられる人。感情を、表現を、ピアノに込めて弾ける人。 

「沙耶? どうかした?」
「あっ、いえ! なんでもないです。劇の内容と要望、聞いてこれました!」
「よかった。大丈夫だろうとは思いつつ、ちょっと心配してたよ」

 どんなシーンで演奏するのかを教えてもらったことで、重点的に練習すべきところが理解できた。すぐにもう一度田中先生にアレンジをお願いすることになった。調整が完了した後は、牧野先輩がまたもう一度弾いてくれる。今日は沙耶よりも牧野先輩のほうがピアノに触っている時間が長いくらいで、ああでもないこうでもないと弾き方を試す先輩の様子が新鮮だった。

「――こんな感じかな。ごめん、今日は沙耶はあんまりピアノに触れなかったね」
「いえ、かなり勉強になりました! それに楽譜も固まったので」

 田中先生と牧野先輩と一緒に作ったこの楽譜があれば怖いものなしだ。

「今から一回弾いてみる?」
「そうですね、確認も兼ねて――」

 そう言って沙耶がピアノを弾こうとしたところで、音楽準備室に続く扉の開く音が響いた。

 顔を出したのは、田中先生だった。

「牧野くん、そろそろ終わりにしなさいね」
「はい、すぐに」
「いつもそう言うじゃないの。……あれ? プリントの箱、二つも運んだの? 疲れちゃうから持たなくていいって言ってるのに」
「いえ、沙耶も一つ運んでくれたので」
「ああ、藤塚さんが。二人ともありがとう」

 田中先生の用事は、それだけでは終わらなかった。珍しくピアノの隣までやってきて、牧野先輩に一枚のプリントを突き出したのだ。

「牧野くん、もう一つ。進路調査票、まだ出してないでしょう」

 ああ、と牧野先輩が少し苦笑いしながら頷く。

「忘れてました。でも、そもそも書いたところで……」
「いいえ、事情によらず全員に書いてもらってるんですからね」
「じゃあ、この後出します」
「ほんとに? 出す必要ない、なんて去年みたいに拗ねてるのかと思ったけど」

 どういうことだろう、と首を傾げる沙耶の横で、牧野先輩はいつも通りの涼しい顔をしている。

「……そういうのは二年生で卒業しましたので」
「そ。良かったわ。じゃ、今ここで書いて」
「……はい」

 先輩は渋々プリントを受け取って、旧音楽室に一つだけある教員用の机へ向かう。面倒くさがっている様子だが、一応言われた通り今書きあげるつもりらしい。

 うちの学校は持ちあがり担任制だ。だから多分、牧野先輩の担任は一年のころから三年の今までずっと、田中先生なんだろう。

 牧野先輩が行ってしまうと、沙耶は田中先生とピアノの前で二人きりになる。授業を受け持ってもらっているとはいえ、先生と一対一で話したことは一度もなかった。得意の人見知りが顔を出しそうになったところで、そういえば先生へ直接感謝の言葉を伝えていなかったことを思い出す。

「あの……先生。楽譜のアレンジ、ありがとうございました」

 まるで見張るように牧野先輩を見つめていた田中先生の瞳が、ふっと緩んで沙耶へ向けられる。

「ああ、文化祭の? ピアノ初心者だって聞いてたのに、チャレンジングね。毎日練習してて、凄いなって。青春パワーね」

 青春。その言葉は、やはり沙耶の心を震わせるところがあった。
 熱心に文化祭の準備に取り組んでいる……なんて、以前の沙耶が聞いたら、本当に自分の話なのかと疑うだろう。

「どう、牧野くんって教えるの上手?」
「はい、とても。」
「へぇ? あの子あんまり他人の面倒見れないのかと思ってたけど、意外ね」

 牧野先輩って、教室だとどんな感じなんだろう? 横目で先輩の方を伺ってみるけれど、珍しく笑みを少しも浮かべることなく机に向かっているようだ。まあ、プリントを書く時にへらへらしている方が変かもしれないけれど。

 やがて、牧野先輩がペンとプリントを持って立ち上がった。

「書けましたよ、先生」

 進学先、ちょっと気になる……けど、さすがに覗くのはよくないと思って沙耶は目を伏せた。うんうん、と先生が頷く声が聞こえる。

「はい確かに受け取りました。ところで……字はもうちょっと丁寧に書きなさいね」
「はい、先生」
「もうっ、返事だけは一丁前なんだから」

 先輩が叱られているところを見るのはなんだか新鮮で面白かった。
 ……本人は、ものすごくひょうひょうとしてるけど。

「じゃ、二人とも練習もほどほどにして、もう帰りなさいね」
「すぐ帰ります」
「……どうだか」

 苦笑いを残して、田中先生が旧音楽室を出ていく。その後ろ姿を見送った後、沙耶は立ったままの牧野先輩に向き直った。

「そういえば先輩の字って、見たことないです。楽譜への書き込みは記号だけだし」
「俺も沙耶の字は見たことないけど」
「まあ、そうですけど……」

 よく考えると、ピアノを弾いている時以外の先輩を全然知らない。話すこともピアノのことばかりで、好きなものとか、嫌いなものとか、何も知らない。……いや、一度だけ好きな作曲家について教えてもらったことはある気がするけど。

 ……まあでも、牧野先輩にとっての沙耶だって、同じようなものかもしれない。旧音楽室でしか会うことのない、ピアノの話だけで繋がっている後輩。

 なんて考えている横で、ぼそっと先輩が呟いた。

「自分の字はあんまり好きじゃないんだよね。なんていうか、高校生の字っぽくないから」
「意外です。ピアノが弾ける人って、なんていうか」

 なんていうか……小さい頃から器用で、何でもできそうって言うか。
 でも、そう言ってしまったら、まるで牧野先輩に「不器用だ」って言ってるみたいだ。そう思い口を噤んだ沙耶の考えに気が付いたのか、牧野先輩はまたへらりと笑った。

「俺は字も下手だし、不器用だし、歌も音痴だよ。前に言った通り」
「……でも、ピアノは弾けるじゃないですか」

 そして、それだけで十分だ。あんなに、人の心を動かす音楽を奏でられるのだから。

「そう? じゃあもう一曲弾こうかな」

 さっきはピアノを譲ってくれるようなことを言っていたのに、いざとなると惜しくなったのだろうか。牧野先輩は沙耶の隣に座り、少し楽しそうに、身体を小さく揺らして、ぽろろん、ぽろろんと音を鳴らしていく。劇に使う曲ではなかった。もっと素朴で底抜けに明るいだけの、指運びも簡単そうな曲だった。

 日も落ちて寒くなってきたからか、暖房が動き始めて、暖かい空気が牧野先輩と沙耶を包み始めた。童話の中みたいな可愛らしいピアノの音も相まって、とろんと眠たくなる。そのまどろむような時間の中で、ふと沙耶は先輩に一つ言いたいことができた。

「当日来れないなら……代わりに手紙が欲しいかも」
「え? なに?」

 ピアノを弾きながら話を聞いているせいで、ぼそっとした沙耶のつぶやきは聞こえなかったらしい。もう一度声を張り上げて言うほどのことなのかどうか少し悩んでから、沙耶は改めて苦笑いして首を振る。先輩はそれ以上聞かずに、身体を揺らしてゆっくりとピアノを弾き終え――る、はずだった。

 その時、何かを遮るように、ピアノの音が一際大きく鳴った。

 直後、破れるような不協和音が部屋中を満たす。先輩がピアノに手を付いていた。続く静寂を切り裂くように、先輩が大きく咳き込んだ。

「……先輩?」

 ほとんどピアノに倒れ込むようだった牧野先輩は、沙耶の声かけに顔を上げてみせた。

 なんだか、息がものすごく苦しそうな気がする。酸欠にでもなったのだろうかと、窓を開けるため立った沙耶の手を、牧野先輩が掴んだ。

「ごめん」
「先輩、大丈夫ですか?」
「うん」

 顔を上げた先輩は、意外にも平気そうだった。顔色も悪くないし、声も普段と変わらない。

「体調、悪いんですか?」
「いつも悪いよ。病弱だって言っただろ?」

 それはいつもの、沙耶に何か雑用を押し付けようとする時の先輩の言い訳だった。見れば、いつも通りの緩い笑顔を浮かべている。
 なんだ。慌てた自分がバカみたいだと、沙耶は安堵の溜息を吐いた。

「もうっ……ほんとに、心配したんですから。今日はここまでにしますか?」
「ああ。もう帰ろう」

 先輩が譜面を片付けてくれる。その横顔も声も、全てがいつも通りで、変わったところは何もない。改めて、沙耶は内心ほっとする思いがした。

 ――と、同時に。

 牧野先輩のことが、心配で心配でたまらなかった、さっきの瞬間のことを思い出す。先輩の存在が、沙耶の中で大きく大きく膨らんでいる証拠だった。

 帰り支度をする先輩を、ちらりと横目でうかがう。

 うーん、と伸びをして窓の外を見つめる先輩の瞳の色が、薄い茶色に輝いていた。