教室に入るやいなや、さくらから耳打ちされた。
「杏実、知ってる? 会長と副会長、付き合い始めたらしいよ」
 うだるような暑さの中、やっとの思いで登校した矢先にそんなことを言われて、杏実は一日分の気力を失った。ただでさえ憂鬱な月曜日の朝に、勘弁してほしい。
 黙っていると、さくらが不満げに唇を尖らせた。
「もうちょっと興味持ってよ。あの二人、前から仲良さげだったじゃん。名前で呼び合ったりしてさ。土曜日のお祭りに二人で行ったらしいんだけど、責任を取って付き合うことになったって」
 とても美しかったキス越しの花火が思い起こされる。
「責任って」
 吐き捨てるように言ってしまった。慌てて表情をとりつくろうが、もう遅い。さくらが訝し気にこちらを見ていた。
「そういえば、あずちゃんお祭りの途中ではぐれたよね? あの時何してたの? もしかして何か見た?」
「そんなわけないじゃん。トイレに行こうとして迷っちゃっただけ」
 前髪を整えるふりをして顔を隠した。
「あーあ、私も彼氏欲しいなあ。一緒に登下校したり、制服デートしたりさあ、青春って感じだよね」
「そうだね」
 切実なさくらの声に反して、上の空で相槌を打った。

 絶対に会いたくないと思っている日に限って、遭遇してしまうものだ。
 昼休み、一階の昇降口のそばにある購買でいちごジャムのコッペパンを買い、教室に戻る途中、向こうから水谷が歩いてくるのが見えた。避けようにも一本道で、右側には一年生の教室が並んでいるが、下級生の教室に勝手に入るわけにもいかない。
「清野さん」
 水谷は思わずといった様子で笑みを浮かべ、手を振ってきた。
「久しぶり。聞きたいことがあるんだ。この前言ってた『たぶん好き』ってどう言う意味?」
 杏実は顔をしかめ、水谷の左側をすり抜けようとする。
「逃げないで」
 真横に来た時、手首をつかまれた。力が強い。水谷の手はしっとりと汗ばんでいた。
「聞いてどうするんですか? 桧山先輩と付き合ってるんでしょう?」
 杏実は真っ直ぐ前を見て答えた。こちらに歩いてくる生徒が見える。もっと近づいたら水谷に手首を握られているのが見えるだろう。誤解されるかもしれない。桧山の耳に入ったら何をされるか分からない。
「誰から聞いたの」
 前しか見ていなかったから、水谷の表情は分からなかった。声だけで判断すると、困惑しているように聞こえた。
「噂になってますから」
 早くこの場を離れたい一心で早口で答える。
「とりあえず離してくれませんか?」
 手首に目をやると、
「あ、ごめん」
 すんなり離してくれた。横目で見ると、叱られた子どものようにしょんぼりしている。
「流れで付き合うことになっただけだよ」
「流れ? 責任を取ったと聞きましたが」
 無意識のうちに冷たい声が出てしまった。
「あ、そんなとこまで噂になってるんだね。そうなんだけどさ、歌恋と僕の『好き』は意味が違うと思う。たぶん僕は歌恋のこと、恋人としては好きじゃない」
「たぶん、ですか」
 思わず水谷を睨んだ。水谷がたじろぐ。
 入学式の日、祝辞がうまくいかなくて笑われても、逃げ出さずに最後まで舞台に立っていた水谷を尊敬した。でも今の水谷はかっこ悪い。責任を桧山になすりつけようとしているように見えて、腹が立った。
「水谷先輩は『無理に変える必要はない』って言ってましたけど、私は変わります。生徒会長目指します。絶対に先輩よりも尊敬される会長になってみせます」
 まくしたてるように言葉を重ねると、水谷がぽかんと口を開けた。
「では、お幸せに」
 水谷が何か言おうとして吸い込んだ息は、声にならずにそのまま吐き出された。