何事もなく月日が過ぎ、杏実はさくらに誘われて花火大会に来ていた。二人とも浴衣ではなく、普段着だ。杏実は白いブラウスにひざ丈の花柄スカート、さくらはドット柄のワンピースだった。
「デートなら浴衣着なさい」と母がしつこかったが、デートではないので断った。
「にぎやかだね、あずちゃん」
 さくらが声を弾ませる。杏実たちと同じように友達同士で来ている人たち、カップル、家族連れ。会話と屋台の呼び込みの声と鉄板の上で何かが焼ける音が混じり合い、「お祭りの音」を作り上げていた。
 肉とソースが焦げる匂いが鼻を掠めた。それにつられるようにお好み焼きの屋台を見た瞬間、杏実は思わず立ち止まった。
 水谷と桧山が二人きりで、お好み焼きを一パックだけ買っていた。二人とも浴衣姿だ。デートという言葉が杏実の頭に浮かんだ。でも「付き合っていない」と言っていたはず。手は繋がれていないが、距離はとても近く、親密な雰囲気だ。そんな二人が人混みに紛れようとしていた。
「どうしたの? お好み焼き食べる?」
「ごめん、トイレ!」
 さくらを置いて、二人を追いかけた。
「『週一回、数分しかお喋りしていない私』がそんなに気になりますか? 水谷先輩がとられそうだから?」
 桧山に伝えた言葉がブーメランとなって自分に突き刺さった。
 ――水谷先輩がとられそうで焦っているのは、私だ。
 人混みをぬって、ほとんど駆け足になりながら、ようやく二人を見つけた。神社の裏の大きな石段に肩をくっつけて横並びになっていた。その様子を、荒い呼吸が漏れないように気をつけながら杏実が隠れて見守る。
「慎之介、今日は一緒に花火大会に来てくれてありがとう。それでね、言いたいことがあるんだ。あたしと付き合ってほしい」
 告白は予想外だったらしく、水谷は何が何だか分からないというような顔をしていた。
「え……?」
「あたしのこと嫌い?」
 その質問にはほとんど間を空けずに答えていた。
「こんなに長いこと一緒にいるんだ。嫌いなわけないだろ」
「じゃああたしの彼氏になって」
「でも……」
 水谷が目をそらし、言い淀む。桧山が頬を膨らませた。
「彼女いないんでしょ? 何が問題なの?」
 水谷は黙ったままだ。不意に桧山が水谷の顎をつかんだ。水の口を開けさせる。水谷は目を見開いている。そこに箸でつかんだお好み焼きを差し込む桧山。
「冷めないうちに食べよう」
 不意に食べ物を突っ込まれた水谷は、状況が読み込めていない様子で、顎を動かした。やがて水谷の喉仏が動き、嚥下したのを見届けたあと、桧山が嬉しそうに笑った。
「ソース、ついちゃったね」
 二人の顔が重なった。杏実は心臓が飛び出しそうだった。二人に呼吸音が聞こえてしまうかもしれないと不安になり、両手で自分の口をおさえた。
「今の、ファーストキスだったの。責任とってよ」
 桧山が水谷の頬をなでた。そのまま愛おしそうに見つめる。水谷は困惑した表情だ。しばらく無言で何かを考えたてから、水谷がため息をつく。
「分かった。付き合おう」
 それを聞いた桧山は、嬉しいというよりは安心したような表情を浮かべた。
「慎之介の隣は、あたしが一番ふさわしいよ。ずっと支えてあげるからね」
 桧山が再び水谷に接近した。
 花火が上がる。色とりどりの光に、キスの横顔が照らされる美男美女カップル。とても綺麗だと思った。こんなにも完璧に「青春」を体現している場面があるだろうか。
 そこに杏実が入る余地はない。入ってはいけない。「完璧」ではなくなるから。
 ――邪魔だったのは、ずっと私だ。挑戦せずにすべてを諦めれば傷つかない。そうやって生きていた。これからもそうやって生きればいい。好きになる前に気づけて良かった。
 スマートフォンが光った。さくらからのメッセージだ。
『今どこ? 花火終わっちゃうよ! さっき別れたお好み焼き屋さんの近くで待ってるからね』
 杏実は静かにその場を離れ、何食わぬ顔をしてさくらの元に戻った。杏実を待っている間に買ったのか、さくらはたこ焼きのパックを持っていた。八個入りだった。すぐにでも食べられるように蓋が開いており、つまようじが刺さっている。
「どこ行ってたの」とさくらに怒られながら、立ったまま花火を見た。
 水谷と桧山の後ろで上がっていた時は、あんなにロマンチックだったのに、今は「花火だなあ」としか思えない。
「授業で炎色反応習ったの思い出した。あ、ナトリウム。あっちは銅かな?」
 さくらが夜空を指差した。とても現実的で笑ってしまった。
「そうだね。私にはこっちの方がしっくりくる」
 杏実が言うと、さくらは不思議そうに杏実を見つめ、まばたきを繰り返した。その隙に、たこ焼きが刺さっているつまようじを引き上げる。
「ちょっと! 人が買ったものを勝手に食べないでよ!」
 一個丸ごと口の中に入れた。作ってから時間が経っているのだろう、食べ頃の温度だ。また、端の方だったので、ソースの量もちょうどいい。
「あなたみたいな『普通』のおとなしめな女子生徒は、慎之介の隣にふさわしくない」
 唐突に桧山の言葉を思い出した。