それから毎週水曜日、自動販売機の前で水谷に会うようになった。待ち合わせしているわけではなく、単純に杏実の下校時刻と水谷の買い出しの時間が被るだけだ。
 聞けば、生徒会の定例会議が毎週水曜日にあるらしい。
 六月になり、長雨がだらだら続くようになったが、今日は久しぶりの晴れだった。
 今日の水谷は珍しくジャージ姿だ。上下紺色で、上は前にファスナーがついているタイプだ。最後の授業が体育だったのかもしれない。うちの学校は、最後の授業がジャージで受けるものだったら、放課後も制服に着替えなくてもいいというルールがあるのだ。
「こんにちは」
 自動販売機の前にしゃがみ込む水谷の背中に話しかける。
「おー、清野さんだ。こんにちは」
 振り向いて、杏実の顔を認めた瞬間に笑顔になる。イケメンがその顔をするのは反則だろう。杏実の心臓が跳ねた。
「あ、そうだ」
 水谷が再び自動販売機に向き直って、尻ポケットから財布を取り出した。いつものがま口ではなく、三つ折りの紺色の財布だ。そこから出した千円札を入れた。
「清野さん、何がいい? いつも缶やお金を拾ってくれるから。そのお礼」
 こちらを向かずに言う。全く予想していなかった言葉に、杏実は返答に詰まった。
「何でもいいよ」
「あ」
 水谷が杏実の方を向いた瞬間、水谷の人差し指がコーラのボタンを押していた。振り向きざまに力が入ってしまったのだろう。がこん、と音がして商品が取り出し口に落ちてきた。
「……ごめん」
 うなだれる水谷。
「大丈夫です、コーラ好きですから」
 水谷の代わりに取ろうと手を伸ばすと、コーラの上で二人の指が触れ合った。
「ひゃっ」
 ――お父さん以外の男の人の手、初めて触った。
 考えるより前に手を引っ込めてしまい、そのはずみでコーラが地面で跳ねて転がっていった。
「ごめん、新しいの買うからっ! 拾わなくていいよ!」
 水谷の制止の声を聞き流して、杏実は缶を小走りで追いかけた。全身が熱かった。拾い上げ、ごまかすように笑顔を作って、水谷を見た。
「ありがとうございます。いただきます」
「危ない、開けちゃだ――」
 水谷の「め」が聞こえる前にプルトップを引き上げると、液体が飛び出してきて杏実の顔面を濡らした。
「あああああ……」
 水谷の絶望したような声が聞こえる。
 一瞬、何が起こったのか分からなかった。コーラが噴出したのだと気づいた時には、顔も上半身も濡れていた。もしかしたら、スカートの裾にもかかったかもしれない。
「本当にごめんね! 僕が止められなかったばっかりに。いや、その前からだ。僕がコーラのボタンを押さなければこんなことにはならなかった。とりあえず、これ着て」
 水谷がいきなりファスナーを下げてジャージを脱ぎ、Tシャツ姿になった。脱ぎたてのそれを腕に押し付けられ、杏実は赤面した。水谷の体温が残っており、あたたかい。
 何が起こったのか理解する前に、ウェットティッシュで顔まで拭かれてしまった。拭いたら化粧取れる、と心配しながら、水谷はそこまで考えておらず、完全な親切心なのだろうと杏実は思う。それとも、薄付きすぎてノーメイクだと思われているのだろうか。勝手に落ち込んだ。
「私、帰るだけですし、ジャージはいりません。お気持ちだけいただきます」
「僕は制服着るから大丈夫。それよりも、このまま君を帰す方が嫌だよ。ジャージ返すの、いつでもいいから。じゃあね」
 戸惑っている杏実を置いて、水谷が爽やかな笑みを浮かべた。飲み物でパンパンのエコバッグを持ち、手を振ってくる。杏実も反射的に振り返してしまう。
 水谷が立ち去ったあと、意を決した杏実は、ブレザーを脱いで、シャツの上から水谷のジャージを羽織った。まだ生温かい。先ほどまで水谷が着ていたものだと思えば思うほど、鼓動が早くなった。胸元の名前の刺繍「水谷」が見えないように、リュックの紐を持つふりをして隠した。
「あ、おつり」
 水谷が釣り銭を取らずに帰ったことに気づく。すくい上げるようにして手のひらに乗せ、そっとスカートのポケットに入れた。小銭の感触が内側で太ももに擦れて、くすぐったかった。

 帰宅後、こっそり一人で洗濯機を回していると、母親に見つかってしまった。
「何? そんなに急ぎの洗濯物あったの?」
 訝しげに聞いてくる。
「う、うん! 制服にジュースこぼしちゃって」
「まったく、あなたはおっちょこちょいなんだから」
 母がキッチンに引っ込んだので、ほっと一息ついた。ブレザーとスカートは、水で濡らしたタオルを使ってトントン叩いた。長期休みの時に、クリーニングに出してもらおう。
 自分の制服は家族共有の物干し場に干したが、水谷のジャージだけは部屋に持って帰った。
 カーテンレールにハンガーをかけて眺める。
 ――明日までに乾くかな。お母さんに見つかりませんように。
 水谷と刺繍されているジャージ。自室に自分以外の人のものがあるということは、こんなに落ち着かないものなのか。初めて知った感情だった。