広い舞台(ステージ)の上からでしか見ることができない景色。
 そこから広がる無数のペンライトの光で織りなす、カラフルな夜空。舞台に上がるだけで歓声が沸き上がり、花のブーケまで飛んでくるような、そんなワンシーン。
 幼少の頃、一度だけ、まるで夢物語のような話を聞かされてから、鶴喜亮(つるきりょう)は強い憧れを抱くようになった。

「感じるぞ! 観客の熱気が! 聞こえるぞ! 私の名を呼ぶ声が!」

 そんな星々の上に唐突に浮かび上がる真っ白な廊下。
 灼熱の砂漠に前触れもなく現れるオアシスのような、とてもアンバランスな風景。
 無論、ここは砂漠でもなければ、ライブ会場でもない。ここは何の変哲もない、ただの病院の廊下にすぎない。
 この場所で、彼は長らく待ちわびた舞台の幕が上がったのだ。 

観客(お客さん)の声に応えるこそが、エンターテイナーの務め! ならば、真のエンターテイナーを目指す身として、ここに出ずに何が芸能魂というものか!」

 空想にふけて、黄土色の髪を揺らし赤瞳を輝かせて豪語する亮。
 せっかくの童顔と愛らしい大きな瞳が台無しになっているが、本人はそのことに全く気にも留めない。
 時刻は、既に昼過ぎ。観客と呼べる者は一人もいない。
 強いて言えば、遠く後ろの方で眺めている二人の看護師ぐらいだろうか。けれど、彼女たちのクスクス笑いは決して気持ちのいいものではなかった。

「ねえ、あれ。またやってるよ。移動許可降りてもまだこうなのか」

「いや、むしろこれからヤバくなるんじゃない? こりゃああれだね。頭イカれた確定案件ね」

「むしろ発作レベル」

「それな」

 無遠慮な声が彼の妄想を破り、現実に連れ戻す。
 それが自分に向けたものだと、無論彼は知っている。それでも、彼は顔を下げることも口角を下げることはない。

「さあ、神々よ、とくとご覧あれ! この鶴喜亮(つるきりょう)の晴れ舞台を! 未来のエンターテイナーの大いなる第一歩を!」

 威勢よく言い放ち、立ち上がる。
 しかし、両足にギプスを巻かれていた患者がまともに立てるわけもなく、

「ぎゃぅわああああああ」

 そのままへたり込む。彼の情けない叫びが瞬く間に廊下中に響き渡り、

「げぶしっ」

 車椅子から転げ落ちて顎での着地、という滑稽なフィナーレで『亮のお笑い劇場』が一旦閉幕。その拍子で車椅子も倒れていて、どう見ても彼一人では到底起き上がれない状況というのに、二人の看護師は嘲笑するだけ。

「『げぶし』って。人間の口から初めて聞いたわ。はあ、ウケるぅ〜」

「ギャハハ、ほんとこれが担当とか。木村(きむら)さんマジ可哀想~」

 亮が上体を起こそうとするも、長い間ベッド生活を送っていたため力が入らず、そのままぐったり。

 事の経緯は、彼が事故に巻き込まれて病院に運ばれたのが始まりである。当時は出血が激しく、その場で手術を受けることになった。結果、手術が成功し、無事一命を取り留めたわけだが。事故の際に両足が骨折したせいで、暫くギプスで固定された状態で過ごしていかなければならなかった。
 けれど当時の病床数は著しく低く、彼の転院が決まった。その転院先が、ここ、高山中央(たかやまちゅうおう)病院である。
 ここで彼は長いベッド生活を過ごした。ようやく車椅子の使用許可が下りたのは、つい二時間前の出来事だ。

 その性格は、残念ながら事故の後遺症とかではなく、元からである。

「ちょっと鶴喜(つるき)クン、大丈夫!?」

 二人の看護師を通り過ぎて、一人の看護師が胡桃色のポニーテールを揺らしながら彼の元に駆け寄って、車椅子を起こして彼を車椅子に座らせる。
 彼女たちの姿を視界に捉え、『助けないで患者さんを笑うのは一体どういうつもり?』的な視線を送った。

「おー、怖い怖い」

「精々そいつの面倒を頑張ってなー」

 二人は一緒になってヘラヘラと笑ったが、離れてくれた。そのことに彼女はホッと一息をついてから、亮と視線を合わせる。

「どこか痛いところはない?」

「にひひひ、モォーマンタイ!」

 ぶいと二本の指を立てて白い歯並びを輝かせる彼を見て、無性に腹が立った。
心配して損した、という顔をしたが、すぐにそれを撤回。

――でもまあ、こうして無傷に済んだんだから、これくらいで許してあげよう。
 彼女がそう思った、その直後。

「おおぉぉ……。さすが天から舞い降りし白衣の天使(エンジェルぅ)! ヤサスィ! しゅきぃ!」

「だ か ら、それをやめてって、何回言ったら気が済むの!」

「はいたたた、はいたたたたっ」

 遠慮なく担当病人の頬をつねているこの看護士は、木村綾乃(きむらあやの)さん。亮が彼女の受け持ちと相成った日以来、ずっと貧乏くじを引いたと思っていた憐れな新人看護師である。

「もう、アタシがいない時は勝手に動いちゃダメって散々言ったのに……」

 情状酌量の余地がありと判断した彼女は、手を引っ込めてやれやれと首を振る。どうしてか、これからもこの台詞を言い続けることになるだろう、という地味で嫌な予想が胸中で広がった。
 今朝、あんなに注意したのにどうしてするのか。まるで、やんちゃな幼子を持っているみたいだ。実際に彼女は結婚したおろか、彼氏すらいないから余計に変だ。
――頭がおかしくなりそう。

 この問題は彼女を非常に悩ませていたが、その答えを得る時が思いのほか早かった。

「フッ、ダメと言われるほどしたくなるのが男のさ――はいたたた、はいたたたたたっ」