いくら思い出したところで、幸せな日々は帰って来ないし、あの日をやり直せるわけではない。それでも、僕は五年前を思い出してしまう。

 僕が春香と恋人同士になってからも、僕たちがお互い忙しいと言う事実は変わらなかったが、何とか時間を作ってデートをした。

 スキャンダルやゴシップになるのが嫌だったので、付き合っていることは誰にも言わなかった。僕たちは友達同士だった頃のように振る舞った。

 人が多い目立つところでデートは出来なかった。万が一のことがあると嫌だったので、家に呼ぶこともしなかった。それでも、僕が春香に告白した川沿いを一緒に散歩しているだけで幸せだった。

 家に呼べない代わりに、あのときの金魚はまだ元気だと写真を見せた。いくら恋人になったと言っても、二匹に付けた名前は言えなかった。

 金魚はいつか死ぬし、芸能界の人気は移り変わる。変わらないものなんてない。人の心も変わってしまうかもしれないことが怖かった。僕は川沿いで一度弱音を吐いたことがある。僕は春香と釣り合う人間だとは思えなかったからだ。そのときも春香の言葉を聞けば自然と永遠を信じられた。永遠なんてないと誰より知っているはずの春香は僕に永遠という名の夢を見せてくれた。

 手を繋ぐだけで精一杯だった。指先同士が触れるだけで胸がいっぱいだった。何を血迷ったのか、バニラの香りのする髪に一度だけ触れたことがある。

「春香の髪、いい匂いがする」

「ほんと? 香水とか使ってないんだけど」

 春香は少し考えて答えた。

「もしかしたら、寝る時に枕元でアロマディフューザー使ってるからその香りが移ったのかも」

「そうなんだ」

「うん。冬はバニラの香りのエッセンス使ってるんだ。春は桜の香り」

 またひとつ、春香の新たな一面を知れたことが嬉しかった。

 学校も自由登校期間に入ってなかなか会えない分、会える時間が大切だった。三月になって、僕たちは河原でお花見をする約束をした。春がすぐそこまで来ていた。

 約束の日は三月二十五日。卒業式の翌日だ。付き合い始めて、もう少しで三か月。少し早いけれど、僕は記念にプレゼントを買って張り切っていた。

 卒業式の日、みんなが泣いていた。僕は泣かなかった。春香とクラスメイトではなくなっても、恋人同士だから。これからもずっと一緒にいられると信じていたから。学校が離れたくらいで何も変わらないのに大げさだと思っていた。

 「三年A組の友情は永久不滅」と普段から耳にタコができるほど言っていたくせに、どうしてクラスメイトではなくなることがみんなそんなに悲しいのだろう。友達ならば、好きな人ならばいつでも会えばいいのに。

 校長の話は相変わらず長かった。大人としての自覚だとか、節目だとかそんなあ話をしていたけれど、あくびをかみ殺すのに必死でちゃんと聞いてはいない。それより僕は翌日のデートのことで頭がいっぱいだった。

 しかし、待ちに待った花見の日、突然雨に降られた。二人とも傘を持っていなかったので、急遽普段は絶対に行かない僕の家で雨宿りをした。幸いにも両親は仕事で家にいなかったので、息子に彼女ができたと大騒ぎされることはなかった。
 仕切り直しだ。僕は翌週の都合のいい日を提案した。ちょうど桜が満開になる日を選んだ。

「ごめん、来週は食事会が入ってて」

 春香の言葉に冷や水を浴びせられたような気持ちになる。

「何だよそれ。仕事ならいいけど、食事会なら断ってほしいんだけど」

 多忙なのはお互い様だ。春香は僕が練習や試合でなかなか会えなくても文句を言うことはなかったし、僕はもちろん春香が撮影やそのための稽古を理由に直前でキャンセルになっても責めなかった。でも、食事会はさすがにナシだ。

「仕方ないじゃない。仕事の関係の人との食事会なの」

「食事会だろ? セリフ合わせとか打ち合わせじゃなくて、飯食うだけだろ。ていうか、そういう場ってたぶん酒出るだろ。春香は酒飲まないにしてもさ、彼氏としては彼女が酒飲んでる男と一緒にいるの嫌なんだけど。僕、不安なんだよ。分かってよ、頼むから」

 今思えば、僕は異常なほど嫉妬深かった。当時僕はまだ十八歳だったから、酒という未知のものに対して恐れを抱いていたというのもある。春香は不機嫌な僕に対して明らかに困惑していた。

「だから、これも仕事の一環なんだって。芸能界では人と人との繋がりってすごく大事なんだよ」

「そんなの、実力でねじ伏せろよ! 人生懸けてお芝居やってきたんだろ? コネなんかに頼らないで、芝居で勝てよ」

 僕は駄々をこねた。幼い僕は、社会の仕組みなんて分からず、水泳と同じように実力さえあればチャンスがあって正当に評価されるものだと信じていた。

「何も知らない癖に勝手なこと言わないで! 私が大樹の水泳のことで文句つけたことある? 大樹も私の仕事のことに口挟むのやめてよ」

 珍しく春香が怒った。それはぐうの音も出ないほどの正論で、僕はひっこみがつかなくなった。

「僕と仕事、どっちが大事なんだよ」

 僕の発言は頭の悪い子供そのものだった。春香は僕に呆れたのだと思う。

「理解してくれないなら、もういい」

 春香は立ち上がり、家に帰ろうとする。制止しようと手を伸ばすと振り払われた。謝らなきゃ、そう思ったのに、拒絶されたショックで声が出なかった。

「私は大樹の前では普通の女の子でいられて居心地よかったけどさ、大樹は私と付き合ってると理解できないこととか不安になることばっかりだと思うんだよね。それだと、大樹は辛いだけでしょ」

 春香は悲しげな目で僕の目を見て、はっきりと言った。

「私たち、別れよう」

 春香は僕の返事を待たずに出て行った。これが僕たちの最後の会話。