季節は廻り、春。僕たちは二年生に進級したあとも同じクラスになった。

「大樹、おはよう。髪に花びらついてるよ」

 通学路の桜並木で彼女に声をかけられた。この頃には僕たちは名前で呼び合うようになっていた。

「春香こそ背中に花びらついてる」

「えっ、うっそー。どこどこ?」

 体や頭についた花びらを手探りで探すお互いの仕草が何だかおかしくて、顔を見合わせて笑った。

「桜って、なんかいいよね」

「分かる。いいよな」

 僕たちの間にあまり多くの言葉はいらなかった。口数の少ない僕に会話のペースを合わせてくれているのだろうか。春香の気遣いが心地よかった。

 春香は教室では常にしゃべっていた。アドバイスをもらいに来た演劇部の女子に演技とはかくあるべきかを饒舌に熱弁したり、どんなに芸能界の裏事情や人気タレントのあれこれについて質問攻めにされても千手観音が千本ノックをするように華麗に質問を打ち返したりしていた。

 新しいクラスでも春香は常に人気者だった。春の遠足のバスの席割は女子の間で春香の隣の座席の争奪ジャンケンが行われていた。女子たちの鉄壁のガードによって、男子はジャンケンの参加資格がなかった。
 体育の前後の男子更衣室はしょっちゅう春香が可愛いと言うボーイズトークで盛り上がっていた。去年違うクラスだった男子は特に、有名女優と同じクラスという特別な状況に浮足立っていた。

「折笠春香が彼女ですって言ってみたくね? なんなら、週刊誌とかにスクープされてえわ」

「バーカ、お前が芸能人に相手にされるわけがないだろ。折笠の撮影現場、イケメンしかいないんだぞ」

「夢くらい見させてくれよー」

 僕はその会話に混ざることなく、いつも黙々と着替えていた。春香が可愛いということには共感できたが、彼女を芸能人として特別視することにはいまいち共感できなかった。それはきっと僕が、教室にいる春香だけを知っていて、テレビの向こうの折笠春香を知らなかったからだと思う。

 ほどなくして、僕たちの学校は春の遠足でまだ寒さが残る山へハイキングに行った。二列になって川沿いを歩く。雪が融けて水量が増えた小川で魚が跳ねれば、小学生のようにみんながはしゃいだ。

 僕はのんびり川べりに座って、遡上する魚をぼーっと見つめていた。いくら標高が低いとはいえ東北の山ともなると、午前中は大分寒かったが、日が高くなるとだいぶポカポカして気持ちが良い。

「もうすっかり春だね」

 後ろから声をかけられ振り返ると春香がいた。

「そうだな。山の中まで春が来てる」

 僕が答えると、春香が僕の隣にしゃがんで、川の中を指差す。

「春告魚が春を連れてきたんだよ、きっと」

 川の中では桜色の魚が悠々と泳いでいた。

「春告魚?」

「サクラマスのこと、春告魚って言うんだよ。春の訪れを告げる魚」

 僕が聞き返すと、春香は丁寧に説明してくれた。綺麗な桜色をしたこの魚たちはサクラマスというらしい。

「おばあちゃんが住んでるところでは、別の魚が春告魚って呼ばれてるみたいだけど」

「詳しいんだな」

「うん。お父さんが釣り好きだから、色々教えてくれるの」

 春香は少女のように無邪気に話す。

「生まれた川をずっと海まで泳いで下って、荒海に揉まれながらひたすら泳いで、激流を泳いで昇って春に戻ってくるの。一生のうちにどれくらい泳ぐんだろうね」

「泳ぐことが、生きることなんだろうな」

「命を懸けて泳いでるから、こんなに綺麗な色なんだね」

 春香が僕に視線を移す。その刹那、風が吹いて春香の長い髪から桜の香りがした。僕は全身で春を感じていた。

「大樹みたいだね、春告魚って」

 桜色の唇がそう言葉を紡いだ瞬間、トクンと心臓が高鳴った。胸の温かさは、春香が僕の人生の軌跡を肯定してくれた嬉しさだけではない。

 春香の目を見つめ返す。長い睫毛、綺麗な二重、大きな瞳。澄んだ水面のように透き通る
瞳に吸い込まれそうになる。

 暦に少し遅れて、僕の心に春が来た。川のせせらぎの音に混じって、恋に落ちる音が僕の心に響いた。

 恋心を自覚してからも、僕は何もしなかった。初めての恋だったからどうすればいいのかわからなかった。だから、今まで通り普通の友達として春香に接した。

 僕は春香と同じ選択授業をとっていた。ディベートの授業で、春香は常に積極的だった。筋道立てて持論を展開し、徹底的な議論を好んだ。意外な一面だ。よく通る声ではきはきと発言する春香がかっこよく見えた。

「春香みたいに自分の意見、ちゃんと言えるようになりたいよ」

「うっそー。これでも感情的にならないように自制してる方なんだけどなあ」

「感情的ではなかったから、そこは安心して」

「ほんと? よかったー。私、すぐ感情的になっちゃうからさ。売り言葉に買い言葉でつい強い言葉使っちゃうの直したいなって思ってて。学校ではイメージもあるから抑えてるんだけど」

 イメージという言葉を聞いて、有名人は他人からどう見られるかの客商売であることを思い出した。僕は時々、春香が芸能人であると忘れそうになる。

 登下校の時にパーカーのフードを深くかぶったり、伊達メガネをかけて変装しているのを見ると、「ああ、彼女は女優なんだ」と実感した。僕は自主練を含め毎日水泳部が忙しかったので春香と登下校の時間がかぶることはほとんどなかったけれど、ごくまれにそういう姿を見ると日本中の人が春香のことを知っていると思い出した。

 一学期末の大掃除の日、春香に小さな声で話しかけられた。

「面倒くさすぎない? こんな暑い日にやることないのにね」

「同感。こんな日は泳ぐに限る」

「大樹はブレないね」

「事実だろ。こんな非効率な真昼間にやるなんて時間の無駄だよ」

「そうだねー。無駄の極み! あはは、大樹にしかこんなぶっちゃけたこと言えないや」

 普通に話していたら、心臓が突然わしづかみにされた。

「だって大樹って話しやすいんだもん。なんでも言える」

 それは僕が特別だということだろうか。うぬぼれてもいいんだろうか。全身が沸騰しそうになった。こんなの、冬でも熱中症になりかねない。心臓がいくつあっても足りない。

 そんなことがあっても相変わらず告白はしなかった。彼女の特別でいられることを手放したくなかった。デートらしいデートが出来なくても、仲のいいメンバーで集まって、グループで一緒に遊びに行けるだけで充分だった。春香は僕の青春そのものだった。

 地元の夏祭りの日、少しだけ勇気を出した。クラスの大所帯で行ったのだが、あまりに大勢で固まって行動すると人の迷惑になるので、花火が始まるまでは少人数に別れて屋台を回ろうと誰かが提案した。僕は春香とふたりで屋台を回った。

 浴衣姿の春香の髪は、いつの間にかラベンダーの香りになっていた。ふたりで一緒に挑戦した金魚すくいで、僕は一匹の金魚をとった。

「すごーい! 大樹、天才」

 春香が小さく拍手をしてくれた。

「春香にあげようか?」

「うーん、お世話できないから、気持ちだけもらっとく! ありがとね」

 僕は翌日金魚鉢を買いに行った。春香と一緒にいた時にとった金魚だから、愛着もひとしおだった。大切に育てよう。気持ち悪いと分かっていながら、僕はこっそりその金魚に春香と名付けた。するつもりもない告白の練習と称して、金魚相手に「好きだ」と毎晩言った。

 休みの日にデートに誘う勇気すらなかった。言い訳のように今まで以上に水泳に打ち込んだ。それは秋になって春香のつけている香水がベルガモットに変わっても同じだった。
 修学旅行も、クラスの有志で集まったクリスマスパーティーも、ギリギリまで参加できるかあやふやだった割には、いざ参加すればレクリエーションの中心に彼女はいた。
 春香がいるかいないかで盛り上がりが違った。春香が来なかった体育祭の打ち上げを、クラスメイトは苺の乗っていないショートケーキや炭酸の抜けたコーラにたとえた。ドラマのセリフか何かをもじった一言二言のあと、クリームソーダを片手に乾杯する春香をみんな楽しみにしていたのだ。僕はそのセリフの元ネタは分からなかったけれど、ファミレスでからあげをおいしそうにつまむ春香の横顔が見られないのは残念だと思った。

 春休みに会おうと約束することもないまま進級した。始業式の日、クラス替えの結果が掲示されている場所で声をかけられた。

「一か月ぶりだね、春告魚くん」

 冗談のような呼び方で、いたずらっぽく春香は笑った。違うよ、春を連れてきたのは僕じゃなくて君だ。

「もう春だな」

「去年を思い出すね、また同じクラスだよ」

 クールぶってはいたけれど、内心ガッツポーズをしていた。あの日の温度も、空の色まで覚えている。まだコートなしにはいられないほど寒い日の、薄雲越しの淡い青空。僕たちの新しい始まりの春。

 一、二年生の頃は教室に充満していた浮足立った空気も、三年生になると落ち着き始めた。受験という一大イベントが迫っていたからだ。僕はAO入試で私立大学を受けることにしていた。春香も受けるのは僕とは違う学校だけれどAO入試組だった。

 奇しくも僕たち二人は合格発表の時期が近かった。夏休みの中頃、僕は合格が決まった。僕は真っ先に春香に報告した。
「サクラサク」
 女の子にラインをするのに慣れていなくて、顔文字もスタンプも何もなくそれだけ送った。
「おめでとう 春告魚くん」
 可愛くデフォルメされた魚のキャラクターのスタンプとともに、春香から返信が来た。

 春香の合格発表はその翌日だった。僕と同じように「サクラサク」と告げた。
「春告魚くんが桜を呼んできてくれたのかな?」
 画面に表示されたしゃれた言い回しのメッセージから春香の声が聞こえた気がした。僕はすっかり舞い上がっていた。

 恒例の夏祭りでは最初、意識してしまって春香と目が合わせられなかった。受験生ということもあり、去年より参加メンバーが少なかったので全員で出店を回ることになったのは残念なようなほっとしたような複雑な気持ちだった。
 金魚すくいの金魚は短命だと言うが、僕が春香と名付けた金魚は一年たっても健在だった。また春香と一緒に金魚すくいをして、春香が僕に似ていると言ってくれた春告魚に一番よく似た桜色の金魚を狙ってとった。僕はそいつに大樹と名付けた。

「仲良くしろよ、僕の代わりに、さ」

 そう言って金魚鉢に放った“大樹”は早速“春香”と喧嘩し始めた。合格を祝いに我が家に遊びに来た祖父曰く、「オス同士だから縄張り争いをしているんじゃないか」だそうだ。僕が一年以上春香を重ねて愛でてきた金魚はオスだったと知って、苦笑するしかなかった。


 一足早く受験戦争を離脱した僕たちは、残りの高校生活を各々のライフワークに捧げた。僕は部活を引退しなかったし、春香はレッスンの日数を増やしたらしい。
 十月になると、春香はドラマの撮影が忙しくなり学校にはほとんど来なくなった。僕はただの友達。連絡する正当な理由がなかった。

 僕の隣にいるときの春香は普通の女の子なのに、春香がいない時に聞こえる噂話は女優としてのことばかり。

「折笠春香、卒業後はハリウッドデビューか? だってさ」

 真偽不明のネットニュースの記事についてクラスメイトは噂していた。寝耳に水だった。僕は当時、春香が出ている映画やドラマのタイトルもその役名も知らなかった。

 当たり前だけど、変わらないものなんてない。いつか、僕は春香の傍にいられなくなる。ただの友達は卒業して接点がなくなればそれで終わり。そんな現実を突きつけられた気がした。

「なあ、僕はどうするべきだと思う?」

 返事をしてくれない金魚に問いかける。

 クラスの有志で行われるクリスマス会も、忘年会も日程調整アンケートの欠席に丸をつけた春香。きっと、こうして会えないことが増えていくのだろう。繋がりが少しずつ薄れていく。そんなのは耐えられなかった。

 僕の中で答えは決まっていた。一世一代の勇気を出して、春香の予定が空いている日に呼び出した。

 インターネットで検索したテンプレートのプランを参考に、ごくありふれたデートをした後に、曇り空の下、川沿いを散歩する。凍っていないのが不思議なくらいに冷たい水が音を立てて流れている。隣を歩く春香の髪はバニラの香りがした。

「あのさ」

 僕は立ち止まって切り出す。何もかもが初めての恋だったから、告白の作法なんて分からなかった。

「僕は、春香が好きだ。ずっと好きだった。僕と、付き合ってください」

 春香はとても驚いた顔をしていた。心臓が壊れそうなほどドキドキしていた。返事が怖くて目を逸らした。

「大樹以外の人に告白された時は、いつも聞いてるんだ。君が好きなのは、私? それとも女優としての私? って」

「そんなの、決まってるだろ! 僕は今ここにいる春香が好きなんだよ!」

 僕が思わず声を張り上げると、春香は微笑んだ。

「うん。みんなが女優としての折笠春香しか見てなくても、大樹だけは私のこと普通の女の子として扱ってくれた」

 優しい風が雲を掃い、太陽の光が差し込む。

「みんな、私に華やかなクリームソーダを求めてる。でも、大樹の前ではありのままの私でいられた。大樹の前では、水でいられたんだ」

 川の水面が陽光を反射して煌めく。それは、着色料で染められたエメラルド色の飲み物よりもずっと美しく感じられた。

「私も、大樹が好きだよ」

 僕の人生の中で一番幸せだった季節が始まる。
 肌寒さに震えて目を覚ます。幸せだった頃の夢を見ていた。

――私たち、別れよう。

 五年前の今日、はっきりそう言われたはずなのに。

 カラカラに乾いた喉を潤すために、蛇口を雑に捻りガラスのコップに水を注ぐ。まだ波打ったままの水を一気に飲み干した。

 テレビをつけると、天気予報が流れていた。

「本日午後から夕方にかけて、雨模様となるでしょう」

 気象予報士の言葉を軽く聞き流す。画面上部に表示された時刻を見て、僕はチャンネルを変えた。

 ほどなくして春香の主演ドラマが流れだした。社会現象にまでなった漫画が原作の恋愛ドラマだ。画面の中で春香は僕以外の男と手を繋ぎ、抱き合い、キスをする。嫉妬心に駆られながらも目を離せない。そんな経験を幾度となく繰り返してきた。

 部屋中に彼女のポスターを貼り、彼女の出演したドラマのDVDは彼女の台詞を一言一句覚えてしまうほど繰り返し視聴した。あどけない子役時代のものから、僕たちが恋人同士だったわずかな期間のものまで、可能な限り買い集めた。

 普通の女の子の春香は水。名女優の折笠春香はクリームソーダ。みんなが女優の折笠春香を求める中、僕だけが普通の女の子としての春香を見ていたから、僕は春香の特別になれた。なのに、僕は特別を捨てた。

 僕の手から零れ落ちた春香の面影を探して、金魚鉢いっぱいのクリームソーダを飲むかのように無機質な画面の中に女優としての春香を求めた。

 クリームソーダの中で魚は生きていけない。春香が愛してくれた僕はあの日死んだのだ。

 僕のスマートフォンが震える。高校時代のクラスのグループトークに本宮京子がメッセージを送信していた。すぐにそのメッセージにリプライがついた。

「春香のウェディングドレス姿、綺麗だったよね」

「春香、高校の時から早く結婚したいって言ってたよね」

 いくら思い出したところで、幸せな日々は帰って来ないし、あの日をやり直せるわけではない。それでも、僕は五年前を思い出してしまう。

 僕が春香と恋人同士になってからも、僕たちがお互い忙しいと言う事実は変わらなかったが、何とか時間を作ってデートをした。

 スキャンダルやゴシップになるのが嫌だったので、付き合っていることは誰にも言わなかった。僕たちは友達同士だった頃のように振る舞った。

 人が多い目立つところでデートは出来なかった。万が一のことがあると嫌だったので、家に呼ぶこともしなかった。それでも、僕が春香に告白した川沿いを一緒に散歩しているだけで幸せだった。

 家に呼べない代わりに、あのときの金魚はまだ元気だと写真を見せた。いくら恋人になったと言っても、二匹に付けた名前は言えなかった。

 金魚はいつか死ぬし、芸能界の人気は移り変わる。変わらないものなんてない。人の心も変わってしまうかもしれないことが怖かった。僕は川沿いで一度弱音を吐いたことがある。僕は春香と釣り合う人間だとは思えなかったからだ。そのときも春香の言葉を聞けば自然と永遠を信じられた。永遠なんてないと誰より知っているはずの春香は僕に永遠という名の夢を見せてくれた。

 手を繋ぐだけで精一杯だった。指先同士が触れるだけで胸がいっぱいだった。何を血迷ったのか、バニラの香りのする髪に一度だけ触れたことがある。

「春香の髪、いい匂いがする」

「ほんと? 香水とか使ってないんだけど」

 春香は少し考えて答えた。

「もしかしたら、寝る時に枕元でアロマディフューザー使ってるからその香りが移ったのかも」

「そうなんだ」

「うん。冬はバニラの香りのエッセンス使ってるんだ。春は桜の香り」

 またひとつ、春香の新たな一面を知れたことが嬉しかった。

 学校も自由登校期間に入ってなかなか会えない分、会える時間が大切だった。三月になって、僕たちは河原でお花見をする約束をした。春がすぐそこまで来ていた。

 約束の日は三月二十五日。卒業式の翌日だ。付き合い始めて、もう少しで三か月。少し早いけれど、僕は記念にプレゼントを買って張り切っていた。

 卒業式の日、みんなが泣いていた。僕は泣かなかった。春香とクラスメイトではなくなっても、恋人同士だから。これからもずっと一緒にいられると信じていたから。学校が離れたくらいで何も変わらないのに大げさだと思っていた。

 「三年A組の友情は永久不滅」と普段から耳にタコができるほど言っていたくせに、どうしてクラスメイトではなくなることがみんなそんなに悲しいのだろう。友達ならば、好きな人ならばいつでも会えばいいのに。

 校長の話は相変わらず長かった。大人としての自覚だとか、節目だとかそんなあ話をしていたけれど、あくびをかみ殺すのに必死でちゃんと聞いてはいない。それより僕は翌日のデートのことで頭がいっぱいだった。

 しかし、待ちに待った花見の日、突然雨に降られた。二人とも傘を持っていなかったので、急遽普段は絶対に行かない僕の家で雨宿りをした。幸いにも両親は仕事で家にいなかったので、息子に彼女ができたと大騒ぎされることはなかった。
 仕切り直しだ。僕は翌週の都合のいい日を提案した。ちょうど桜が満開になる日を選んだ。

「ごめん、来週は食事会が入ってて」

 春香の言葉に冷や水を浴びせられたような気持ちになる。

「何だよそれ。仕事ならいいけど、食事会なら断ってほしいんだけど」

 多忙なのはお互い様だ。春香は僕が練習や試合でなかなか会えなくても文句を言うことはなかったし、僕はもちろん春香が撮影やそのための稽古を理由に直前でキャンセルになっても責めなかった。でも、食事会はさすがにナシだ。

「仕方ないじゃない。仕事の関係の人との食事会なの」

「食事会だろ? セリフ合わせとか打ち合わせじゃなくて、飯食うだけだろ。ていうか、そういう場ってたぶん酒出るだろ。春香は酒飲まないにしてもさ、彼氏としては彼女が酒飲んでる男と一緒にいるの嫌なんだけど。僕、不安なんだよ。分かってよ、頼むから」

 今思えば、僕は異常なほど嫉妬深かった。当時僕はまだ十八歳だったから、酒という未知のものに対して恐れを抱いていたというのもある。春香は不機嫌な僕に対して明らかに困惑していた。

「だから、これも仕事の一環なんだって。芸能界では人と人との繋がりってすごく大事なんだよ」

「そんなの、実力でねじ伏せろよ! 人生懸けてお芝居やってきたんだろ? コネなんかに頼らないで、芝居で勝てよ」

 僕は駄々をこねた。幼い僕は、社会の仕組みなんて分からず、水泳と同じように実力さえあればチャンスがあって正当に評価されるものだと信じていた。

「何も知らない癖に勝手なこと言わないで! 私が大樹の水泳のことで文句つけたことある? 大樹も私の仕事のことに口挟むのやめてよ」

 珍しく春香が怒った。それはぐうの音も出ないほどの正論で、僕はひっこみがつかなくなった。

「僕と仕事、どっちが大事なんだよ」

 僕の発言は頭の悪い子供そのものだった。春香は僕に呆れたのだと思う。

「理解してくれないなら、もういい」

 春香は立ち上がり、家に帰ろうとする。制止しようと手を伸ばすと振り払われた。謝らなきゃ、そう思ったのに、拒絶されたショックで声が出なかった。

「私は大樹の前では普通の女の子でいられて居心地よかったけどさ、大樹は私と付き合ってると理解できないこととか不安になることばっかりだと思うんだよね。それだと、大樹は辛いだけでしょ」

 春香は悲しげな目で僕の目を見て、はっきりと言った。

「私たち、別れよう」

 春香は僕の返事を待たずに出て行った。これが僕たちの最後の会話。


 付き合っていた頃のことを思い出していた。

 ドラマは終盤に差し掛かり、結婚式のシーンへと移る。ウェディングドレスを身にまとった春香が、相手役の男とキスをして永遠の愛を誓う。僕らが高校生の頃ベストセラーだった漫画『高校生の花嫁』が原作のこのドラマは驚異的な視聴率をたたき出した。

 春香は幼い頃から無常の世界に身を置いていた。世間に飽きられて、スキャンダルに潰されて、あるいは才能の限界を突きつけられて昨日まで隣にいた人が次々と消えていくのが芸能界だ。

 ドラマが終わると次はバラエティ番組の時間だ。春香が司会や他のゲストから口々におめでとうございますと祝われている。

「ありがとうございます。自分はとても幸せ者だと思います」

 マイクを持った春香は、とても幸せそうな顔をしていた。

「自分の一番の長所をあげるとするなら、人との縁に恵まれたところだと思います」

 ドラマや映画のDVDは手に入れやすいが、バラエティ番組の映像はなかなか手に入れづらい。録画しておいてよかった。春香の映っている映像はどんなものでも愛おしい。

「ほんと、酷い話だよね。こんなのってないよ」

 また、クラスのトークルームに新たなメッセージが投下されていた。一瞬目を離したすきに、過去の映像の振り返りからスタジオへと画面が切り替わる。

 黒い服を着た芸能人が次々と春香を語る。

「演技に一切の妥協をしないストイックな方でした。台本の解釈の違いで口論になったことも幾度となくありますが、彼女の姿勢は尊敬していました」

 僕と同い年くらいの女優がそう語った。

「言葉をとても大切にしている人でした。だから彼女の演技は重みがあったのだと思います」

 僕より少し若い俳優が語った。

「芝居の世界に生まれて、芝居の世界を生きて、芝居の世界に骨をうずめたとでもいうのでしょうか。女優になるために生まれてきたような、天性の才を持った方でした。本当に惜しい方を亡くしました」

 大御所らしき人が語った。彼の言葉を聞いて、スタジオにいる何人かが涙を流した。

 テロップには「折笠春香さんを偲んで」と書かれている。春香が十八歳の若さでこの世を去って、今日でちょうど五年になる。

 春香は交通事故で死んだ。雨でスリップした車が、制御を失って歩道に突っ込んだ。僕はそれを人伝に知った。

 春香の葬式には同級生だけでなく、仕事の関係者と思われるかなり年上の人やスポーツ中継で見たことのあるアナウンサーや芸能界に極端に疎い僕でも知っているほどの有名人も参列していた。

 春香の死があまりに突然だったことと参列者があまりに多かったことから、最期にきちんと春香に向き合えたとは到底言えなかった。もう遅いけれど、春香にちゃんと謝りたかった。

 僕の金魚たちは後を追うように死んだ。僕は空っぽのまま、二匹の金魚を庭に埋めた。人魚の春香と大樹は一緒のお墓で永遠に隣にいられるのに、僕は死ねなかった。

 現実が呑み込みきれないまま、四月のはじめに春香の実家を訪問した。線香をあげにきたと思われる人たちがちょうど春香の家から出て行くところだった。弔問客を見送った春香の母親と目が合った。

「春香に会いに来てくださった方ですか」

「はい」

「ありがとうございます」

 春香の母親は深々と僕に頭を下げた。

「春香とはどういったご関係の方でしょうか」

「僕は……」

 答えに詰まった。春香は家族にすら彼氏がいることを伝えていない。春香がいなくなった今、春香と僕が恋人だったことを証明するものは何もないのだ。

 春香はかつて、好きな人ができたら結婚して国家公認カップルになりたいと言っていた。僕はなれなかった。国家どころか、春香の身近な人にすら認められていない。

――ソモソモ、モウ、彼氏ジャナイ。

 聞きたくもない幻聴が頭の中に響く。違う。僕は別れようの言葉に対して頷いていない。だから、まだ恋人なんだ。必死に幻聴を振り払った。

――春香ハ、オマエヲ彼氏ダト思ッテイナイ。

 やめてくれ。僕たちは恋人だったんだ。震えが止まらなくなった。

「あの、大丈夫ですか? どうかされましたか?」

 僕はきっと相当に顔色が悪くなっていたのだろう。心配をかけないように早く答えなくては。クラスメイトと答えようとしたが、その肩書にも「元」がつくことに気づいた。春香との関係は終わってしまったのだ。そう思うと息ができなくなる。

――嫌ワレタンダヨ、オマエ。

 春香は僕に別れようと言った。あれは恋人関係を終わらせようと言う意味だ。恋人ではなくなったかもしれない。ならば、無難に友人ですとでも言えばいい。あの言葉は絶交という意味ではない、はずだ。でも、それを確かめるすべはない。

――ソモソモ、最初カラ、釣リ合ッテイナカッタジャナイカ。本当ニ、好カレテイタノカ?

 春香は天国で僕を恋人と呼んでくれるのだろうか。せめて、元恋人として付き合っていた事実そのものを葬り去らずにいてくれるのだろうか。僕をまだ友人だと思ってくれているのだろうか。分からない。

 僕は春香の恋人か、友人か、その他大勢か、それ以下か。もう誰も答えてくれない。

 その事実が怖くなって、僕は黙って逃げ出した。大声で呼び止められたが、走って逃げた。

 僕は春香の何なのだろう。僕は何者なんだ。僕は、僕は、僕は……。

 その答えは未だに分からないままだ。


 在りし日の春香を語る元クラスメイト達の多くは僕より一足早く社会人になっている。こういう節目にだけ春香を偲んでいる彼らも、普段は仕事の付き合いでの飲み会が忙しいとかそんな愚痴ばかりをグループトークに投下している。

 あの頃の僕がもう少し大人で、仕事上の付き合いやビジネスの世界の常識についてもう少しわかっていれば何かが変わったのだろうかと考えたところでもう遅い。

 永遠にあの日には帰れないのに、僕はずっとあの日にとらわれている。僕は春香の両親のもとから逃げ帰った後、ひきこもりになった。春香の面影を求めて春香の出演していた番組を四六時中ずっと見ていた。

 留年が決まった日に、両親にやるべきことをやらないのならDVDをすべて捨てると激怒され、やむなく心が空っぽのまま復学した。家と大学を往復するだけの日々が続いた。泳ぎ方はもう忘れてしまった。

 春香の追悼番組は終盤に差し掛かる。春香が主演を務めたドラマのダイジェスト、春香の主演女優賞を祝うバラエティ番組のワンシーンと来て、最後のVTRは生前の春香が出演した最後のバラエティ番組だ。収録日は事故の前日だという。見たことの無い番組だった。

 随分と砕けた雰囲気の番組だった。女性アイドルが「春香ちゃんに百の質問!」のコールと共に次々と質問をしていく。

「好きな飲み物は?」

「クリームソーダです」

「幸せを感じるのはどんな時?」

「お散歩をしている時ですね。コースは秘密です。こういう何気ない時間が一番幸せです」

「最近嬉しかったことは?」

「お花見に行くことになったんです。すごく楽しみです」

 春香も楽しみにしてくれていたんだ。春香に別の日に行こうと言った時、飲み会を優先されて悲しかった。僕だけが楽しみにしていたのだと思ったから。今なら分かる。春香は本当に楽しみにしてくれていたけれど、本当に仕方がない事情があったのだ。

「自分の直したいところは?」

「カッとなるとつい心にもないことを言ってしまうところです」

 分かっていたはずじゃないか。僕があまりに馬鹿なことを言うから春香を怒らせた。あげく、別れようだなんて言わせて、永遠に仲直りできなくなった。もしも明日があったのなら、ちゃんと謝って、来年はお花見できたらいいねって笑い合うはずだった。

「もらって嬉しいプレゼントは?」

「大切な人が私のために選んでくれたものなら何でも」

 僕は卑屈な男だった。喜んでくれるか不安だった。今なら分かる。安物でも、センスが悪くても、春香は喜んでくれた。渡せなかったプレゼントは捨てられず、未だに空っぽの金魚鉢の隣で埃をかぶっている。

「それじゃ最後の質問! ずばりっ、好きな男性のタイプはー?」

 アイドルが一際テンションを上げて質問をする。春香の答えを聞くと同時に、僕は走り出していた。行かなきゃ、春香の眠る場所へ。

 灰色の空の下、灰色の雑踏を駆け抜けて僕はひたすら走った。僕たちの思い出の場所を走り抜けて、辿り着いたのは春香のお墓。場所は知っていたのに、五年間ずっと来る勇気がなかった。

 今日は春香の命日だと言うのに、先客は二人だけだった。僕が春香のお墓の前まで行くと、彼らは振り返る。あの日一度だけ会った春香の両親だった。

「あら、あなた……どこかで……」

 春香の母親が、僕を見てあの日のことを思い出そうとしている。それよりも、と言うように春香の父親が頭を下げた。

「もう五年になるのに、わざわざ来てくださってありがとうございます。こんなに長い間忘れないでくれる方がいらっしゃるなんて春香は幸せ者ですね」

 ごめんなさい。僕は春香を幸せにしてあげられませんでした。それでも、僕は春香に伝えないといけないことがあるんです。渡したいものがあるんです。何も言えないでいる僕に、春香の母親が質問する。

「春香の、お友達ですか?」

 五年前、僕が春香の何なのか尋ねられた時、数々の幻聴が僕を苛んだ。今、僕の頭に響くのは笑顔でインタビューに答えていた春香の声。

――魚みたいな人が好きです。

 五年前、僕はずっと不安だった。付き合い始めてからも、これは夢なんじゃないか、いつか夢から覚めるんじゃないかと怖くて仕方なかった。永遠を求めて恋人になったのに、恋人になっても永遠を信じられなかった。

――僕の人生には春香が必要だけど、僕は春香に何ができるか全然分からないんだ。魚は水がないと生きられないけど、水は魚がいなくても生きていける。それが怖いんだ。

 五年前の僕は、春香と並んで川辺に並んで腰かけて、随分と弱気な発言をした。春香は僕の弱さを受け止めてくれた。

――魚心あれば水心って言うじゃない?

 そう言うなり凍り付かないのが不思議なほどに冷たい川の水を、春香は両手で掬った。透き通った川の底では、静かに魚が眠っていた。

 春香の手から透明な水が零れて、川に還っていく。その水の煌めきは水に心が、命があることを証明していた。

――水だって、魚がいないと生きていけないんだよ。

 あの言葉が僕に存在理由をくれた。悲しい記憶に塗りつぶされてその言葉をはっきり思い出せなくなっても、僕の心の根幹の部分にずっとその言葉はあった。

 だから、五年間ずっと答えられなかった問に今なら答えられる。僕は何者なのか。

「春香さんは水でした。誰にも踏み荒らされていない山の雪解け水みたいな、澄んだ水でした」

 どうか届いてくれ、五年前まで。

「僕は魚です。春香さんに春だよって伝えに来た、春告魚です」

 墓地の桜は花開き始めていた。もう、春だ。

 春香の両親はお互いに顔を見合わせた。

「私たちはもう帰るところでしたから、ゆっくりおふたりで話してやってください。春香も喜ぶと思いますので」

 そう言うと二人は静かに歩き去って行く。僕は二人の背中に頭を下げた。

 僕は改めて、お墓に手を合わせて春香に語り掛ける。

「久しぶり。あの時は男のくせに小さいこと言ってごめん。寂しかったんだ。不安だったんだ。春香のことを信用していないわけじゃなかった」

 当然、返事はない。それでも、僕は続ける。小糠雨が降り始めた。細かい水滴が顔と体を濡らす。

「勝手な話だと思うけど、僕はまだ春香の恋人でいたいんだ。嫌だって言うなら、直接教えてほしい。理由が僕を振るためでもいいから、もう一度会いたい」

 頭上の桜に視線を移す。桜の花びらから雫が落ちた。

「今年も春が来たよ。よく考えなくても分かることだけどさ、桜って毎年咲くんだよな。あの時お花見できなかったなら、来年の約束をすればよかったんだ。今日も曇ってるから、また晴れた満開の日にでも来るよ。出来なかった五年分、これから一緒に取り戻そう」

 僕は桜を見上げながら、他愛もない話をする。あの日できなかったお花見の続きだ。

「水泳、また始めようと思ってるんだ。今更プロにはなれないけどさ、ずっと立ち止まってるんじゃなくて、あの頃みたいにがむしゃらに泳ぎたいんだ」

 僕がそう宣言すると、雨が強くなった。雨粒が大きくなり、静かだったこの場所に雨音が溢れかえる。

「雨、強くなって来た。そろそろ帰るね。でも、またすぐに来る。何度だって会おう」

 あの日渡せなかったペアリング。安物で、今改めて見ると値段よりも安っぽく見えるセンスのない指輪かもしれない。それでも、桜色の石のついた魚モチーフのペアリングが最高に僕たちらしいと思えたのだ。僕は薬指にペアリングをはめた手を掲げてみせた。

 僕は立ち上がり、墓石に背を向けて歩き出す。その時、ふっとバニラの香りがした。忘れるはずのない冬風に揺らめく君の髪の香り。

 僕は思わず振り返る。供えたばかりの指輪が消えていた。

 春告魚の生まれた川の水は、海へと流れる。海の水はやがて雲になり、雨となってこの世界を巡る。きっと春香が雨になって帰って来たのだ。

 雨の中を泳ぐように、傘もささずに僕は歩き出す。けじめとして明日の卒業式には出ようと思う。
 春告魚のように、君への執着を卒業して、きちんと就職して社会という荒海を泳いで生きていく。君が生きたこの世界を疲れ果てるまで泳ぎきろう。いつか、僕が愛した水のような人の元へと帰るその日まで。

fin

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