恋心を自覚してからも、僕は何もしなかった。初めての恋だったからどうすればいいのかわからなかった。だから、今まで通り普通の友達として春香に接した。

 僕は春香と同じ選択授業をとっていた。ディベートの授業で、春香は常に積極的だった。筋道立てて持論を展開し、徹底的な議論を好んだ。意外な一面だ。よく通る声ではきはきと発言する春香がかっこよく見えた。

「春香みたいに自分の意見、ちゃんと言えるようになりたいよ」

「うっそー。これでも感情的にならないように自制してる方なんだけどなあ」

「感情的ではなかったから、そこは安心して」

「ほんと? よかったー。私、すぐ感情的になっちゃうからさ。売り言葉に買い言葉でつい強い言葉使っちゃうの直したいなって思ってて。学校ではイメージもあるから抑えてるんだけど」

 イメージという言葉を聞いて、有名人は他人からどう見られるかの客商売であることを思い出した。僕は時々、春香が芸能人であると忘れそうになる。

 登下校の時にパーカーのフードを深くかぶったり、伊達メガネをかけて変装しているのを見ると、「ああ、彼女は女優なんだ」と実感した。僕は自主練を含め毎日水泳部が忙しかったので春香と登下校の時間がかぶることはほとんどなかったけれど、ごくまれにそういう姿を見ると日本中の人が春香のことを知っていると思い出した。

 一学期末の大掃除の日、春香に小さな声で話しかけられた。

「面倒くさすぎない? こんな暑い日にやることないのにね」

「同感。こんな日は泳ぐに限る」

「大樹はブレないね」

「事実だろ。こんな非効率な真昼間にやるなんて時間の無駄だよ」

「そうだねー。無駄の極み! あはは、大樹にしかこんなぶっちゃけたこと言えないや」

 普通に話していたら、心臓が突然わしづかみにされた。

「だって大樹って話しやすいんだもん。なんでも言える」

 それは僕が特別だということだろうか。うぬぼれてもいいんだろうか。全身が沸騰しそうになった。こんなの、冬でも熱中症になりかねない。心臓がいくつあっても足りない。

 そんなことがあっても相変わらず告白はしなかった。彼女の特別でいられることを手放したくなかった。デートらしいデートが出来なくても、仲のいいメンバーで集まって、グループで一緒に遊びに行けるだけで充分だった。春香は僕の青春そのものだった。

 地元の夏祭りの日、少しだけ勇気を出した。クラスの大所帯で行ったのだが、あまりに大勢で固まって行動すると人の迷惑になるので、花火が始まるまでは少人数に別れて屋台を回ろうと誰かが提案した。僕は春香とふたりで屋台を回った。

 浴衣姿の春香の髪は、いつの間にかラベンダーの香りになっていた。ふたりで一緒に挑戦した金魚すくいで、僕は一匹の金魚をとった。

「すごーい! 大樹、天才」

 春香が小さく拍手をしてくれた。

「春香にあげようか?」

「うーん、お世話できないから、気持ちだけもらっとく! ありがとね」

 僕は翌日金魚鉢を買いに行った。春香と一緒にいた時にとった金魚だから、愛着もひとしおだった。大切に育てよう。気持ち悪いと分かっていながら、僕はこっそりその金魚に春香と名付けた。するつもりもない告白の練習と称して、金魚相手に「好きだ」と毎晩言った。

 休みの日にデートに誘う勇気すらなかった。言い訳のように今まで以上に水泳に打ち込んだ。それは秋になって春香のつけている香水がベルガモットに変わっても同じだった。
 修学旅行も、クラスの有志で集まったクリスマスパーティーも、ギリギリまで参加できるかあやふやだった割には、いざ参加すればレクリエーションの中心に彼女はいた。
 春香がいるかいないかで盛り上がりが違った。春香が来なかった体育祭の打ち上げを、クラスメイトは苺の乗っていないショートケーキや炭酸の抜けたコーラにたとえた。ドラマのセリフか何かをもじった一言二言のあと、クリームソーダを片手に乾杯する春香をみんな楽しみにしていたのだ。僕はそのセリフの元ネタは分からなかったけれど、ファミレスでからあげをおいしそうにつまむ春香の横顔が見られないのは残念だと思った。

 春休みに会おうと約束することもないまま進級した。始業式の日、クラス替えの結果が掲示されている場所で声をかけられた。

「一か月ぶりだね、春告魚くん」

 冗談のような呼び方で、いたずらっぽく春香は笑った。違うよ、春を連れてきたのは僕じゃなくて君だ。

「もう春だな」

「去年を思い出すね、また同じクラスだよ」

 クールぶってはいたけれど、内心ガッツポーズをしていた。あの日の温度も、空の色まで覚えている。まだコートなしにはいられないほど寒い日の、薄雲越しの淡い青空。僕たちの新しい始まりの春。

 一、二年生の頃は教室に充満していた浮足立った空気も、三年生になると落ち着き始めた。受験という一大イベントが迫っていたからだ。僕はAO入試で私立大学を受けることにしていた。春香も受けるのは僕とは違う学校だけれどAO入試組だった。

 奇しくも僕たち二人は合格発表の時期が近かった。夏休みの中頃、僕は合格が決まった。僕は真っ先に春香に報告した。
「サクラサク」
 女の子にラインをするのに慣れていなくて、顔文字もスタンプも何もなくそれだけ送った。
「おめでとう 春告魚くん」
 可愛くデフォルメされた魚のキャラクターのスタンプとともに、春香から返信が来た。

 春香の合格発表はその翌日だった。僕と同じように「サクラサク」と告げた。
「春告魚くんが桜を呼んできてくれたのかな?」
 画面に表示されたしゃれた言い回しのメッセージから春香の声が聞こえた気がした。僕はすっかり舞い上がっていた。

 恒例の夏祭りでは最初、意識してしまって春香と目が合わせられなかった。受験生ということもあり、去年より参加メンバーが少なかったので全員で出店を回ることになったのは残念なようなほっとしたような複雑な気持ちだった。
 金魚すくいの金魚は短命だと言うが、僕が春香と名付けた金魚は一年たっても健在だった。また春香と一緒に金魚すくいをして、春香が僕に似ていると言ってくれた春告魚に一番よく似た桜色の金魚を狙ってとった。僕はそいつに大樹と名付けた。

「仲良くしろよ、僕の代わりに、さ」

 そう言って金魚鉢に放った“大樹”は早速“春香”と喧嘩し始めた。合格を祝いに我が家に遊びに来た祖父曰く、「オス同士だから縄張り争いをしているんじゃないか」だそうだ。僕が一年以上春香を重ねて愛でてきた金魚はオスだったと知って、苦笑するしかなかった。