一瞬当てられたことが分からなかった。

スマホのメッセージと先生の挙動に集中力の大半を割いていたからだ。

「間違えられない」

緊張のあまり胃の辺りがキュウっと痛む。
顔は紅潮し、声の出し方を忘れる。
せっかくの先生からのご指名なのに。
気の利いたセリフひとつ言えない。

肝心な時に役に立たない声帯を震わせて「トイレに行ってきます」と亜子はその場を逃げた。
いや、気の利いたうんぬんより、素直に「すみません。分かりません」と答えればよかったのだ。

緊張したり、想定外のことが起こったりすると、その場を逃げ出したくなってしまうのは、亜子の悪い癖だ。
保育園児のときから、困ったことが起こるといつもトイレに逃げていた。
友達にからかわれたときも、発表会で失敗したときも。

トイレの力はすごい。

洗浄レバーを押せば、渦を巻く水と一緒に亜子の恥ずかしい気持ちや泣きたい気持ちをスーッと消し去ってくれるのだ。

17歳になってまでトイレに逃げ込む癖が抜けない自分の不甲斐なさに少し情けなくなったが、そんな思いは、トイレに近づくにつれて消えていく。
亜子は、早く居心地の良い個室とお尻をすっぽりと包みこむあたたかいひと肌温度の陶器の椅子に座りたくてたまらなかった。