先生の頬をそのまま引き寄せ、軽く唇を重ねた。
彼の乾いた唇の感触を感じる。
亜子の身体から、花が抜けていく。
「亜子、ありがとね」
花の意識が離れるとき、そう聞こえた気がした。
※
3月1日、底抜けに晴れた日だった。
「今日は本当におめでとう。先生は、この一年、みんなと過ごせてとても楽しかった。
これから色んなことがあると思うが、君たちなら絶対に大丈夫だ」
先生の心地よい声を聞くのが、今日が最後なんて信じられないと亜子は思った。
いつもと同じように制服を着て、学校に行って、授業中は彼を見つめて、玲菜とくだらないことでおしゃべりして…。
そんな日常が明日も明後日も続いていきそうなのに。
でも、机の上に整然と置かれた、卒業証書が入った筒と、くたくたにくたびれたスクールバッグと、PTAからもらった記念の紅白饅頭が、
「今日が最後だよ」
と、静かに主張していた。
亜子はそれらから目を背けるように、窓の外を見た。
限りないブルーの空と、ポツポツと咲き始めた桜。
今年は、かなりの早咲きらしい。
「帰る前に、みんなにそれぞれ何か一言言ってもらおうかな。まずは、
……磯崎亜子」
亜子は、慌てて正面を向く。
冷たい汗が背中から吹き出てキャミソールを濡らす。
返事しなきゃと焦るが、卒業の日にふさわしい何かを言える自信がない。
ふと、前から3番目のトイレのことが頭をよぎった。
ここで、体調を崩したふりをしてトイレに逃げ込めば、事なきを得るだろう。
しかし、そんな思いは一瞬でかき消した。
私はもう、大丈夫。
「はい! 山田先生、3年間、ありがとうございました!」
亜子は起立し、頭を下げる。
「こちらこそありがとうな、磯崎。苦手な数学、よく頑張ったな。大学に行っても、しっかりやるんだぞ」
先生はあっさりとしたものだった。
「しっかりやるんだぞ」なんて差し障りのない一言を添えて、次の子の名前を呼んだ。
クラス全員に激励の言葉をプレゼントしたあと、最後の「さようなら」の挨拶をした。
どこぞの青春ドラマみたいに、みんなが先生の周りをわーっと取り囲む。
なんだ。先生、みんなから愛されてんじゃん。
嬉しいような、悔しいような、ほろ苦い気持ちを噛みしめてたら、玲菜に引っ張られて先生の隣に押し出された。
そして、美術部の子達が描いてくれたアニメキャラクターの黒板アートを前に、みんなで写真を撮った。
盛り上がる私たちを後目に、先生は、「じゃあな」と教室を出た。
※
亜子は机のフックに掛けていた売店の半透明のレジ袋を手に取り、あわてて先生の後を追う。
「亜子、頑張って! あとで結果聞かせて!」
と叫ぶ玲菜の声が飛んできた。
廊下には、写真を撮る生徒で溢れている。
亜子は、手に持っているレジ袋をギュッと握りしめ、人にぶつからないように気を付けながらダッシュした。
職員室につながる階段を下りようとする彼が視界に入る。
「山田先生!」
自分でもびっくりするくらいの、大きな声。
振り向いたその顔は、いつもの先生の顔だった。
スーツからのぞく水色のシャツが悔しいほど爽やかだ。
「先生に伝えたいことがあります!
お昼、一緒に食べませんか?
卒業式の前に、先生の分も買ってきました」
レジ袋を差し出す。先生は静かに微笑んだ。
「ちょうど僕もお昼にしようと思っていました」
先生の手にも、小さなレジ袋。
「磯崎と、同じもの買っちゃったみたいですね」
半透明の袋の中から、ピザパンとアロエジュースが透け見えた。
彼の乾いた唇の感触を感じる。
亜子の身体から、花が抜けていく。
「亜子、ありがとね」
花の意識が離れるとき、そう聞こえた気がした。
※
3月1日、底抜けに晴れた日だった。
「今日は本当におめでとう。先生は、この一年、みんなと過ごせてとても楽しかった。
これから色んなことがあると思うが、君たちなら絶対に大丈夫だ」
先生の心地よい声を聞くのが、今日が最後なんて信じられないと亜子は思った。
いつもと同じように制服を着て、学校に行って、授業中は彼を見つめて、玲菜とくだらないことでおしゃべりして…。
そんな日常が明日も明後日も続いていきそうなのに。
でも、机の上に整然と置かれた、卒業証書が入った筒と、くたくたにくたびれたスクールバッグと、PTAからもらった記念の紅白饅頭が、
「今日が最後だよ」
と、静かに主張していた。
亜子はそれらから目を背けるように、窓の外を見た。
限りないブルーの空と、ポツポツと咲き始めた桜。
今年は、かなりの早咲きらしい。
「帰る前に、みんなにそれぞれ何か一言言ってもらおうかな。まずは、
……磯崎亜子」
亜子は、慌てて正面を向く。
冷たい汗が背中から吹き出てキャミソールを濡らす。
返事しなきゃと焦るが、卒業の日にふさわしい何かを言える自信がない。
ふと、前から3番目のトイレのことが頭をよぎった。
ここで、体調を崩したふりをしてトイレに逃げ込めば、事なきを得るだろう。
しかし、そんな思いは一瞬でかき消した。
私はもう、大丈夫。
「はい! 山田先生、3年間、ありがとうございました!」
亜子は起立し、頭を下げる。
「こちらこそありがとうな、磯崎。苦手な数学、よく頑張ったな。大学に行っても、しっかりやるんだぞ」
先生はあっさりとしたものだった。
「しっかりやるんだぞ」なんて差し障りのない一言を添えて、次の子の名前を呼んだ。
クラス全員に激励の言葉をプレゼントしたあと、最後の「さようなら」の挨拶をした。
どこぞの青春ドラマみたいに、みんなが先生の周りをわーっと取り囲む。
なんだ。先生、みんなから愛されてんじゃん。
嬉しいような、悔しいような、ほろ苦い気持ちを噛みしめてたら、玲菜に引っ張られて先生の隣に押し出された。
そして、美術部の子達が描いてくれたアニメキャラクターの黒板アートを前に、みんなで写真を撮った。
盛り上がる私たちを後目に、先生は、「じゃあな」と教室を出た。
※
亜子は机のフックに掛けていた売店の半透明のレジ袋を手に取り、あわてて先生の後を追う。
「亜子、頑張って! あとで結果聞かせて!」
と叫ぶ玲菜の声が飛んできた。
廊下には、写真を撮る生徒で溢れている。
亜子は、手に持っているレジ袋をギュッと握りしめ、人にぶつからないように気を付けながらダッシュした。
職員室につながる階段を下りようとする彼が視界に入る。
「山田先生!」
自分でもびっくりするくらいの、大きな声。
振り向いたその顔は、いつもの先生の顔だった。
スーツからのぞく水色のシャツが悔しいほど爽やかだ。
「先生に伝えたいことがあります!
お昼、一緒に食べませんか?
卒業式の前に、先生の分も買ってきました」
レジ袋を差し出す。先生は静かに微笑んだ。
「ちょうど僕もお昼にしようと思っていました」
先生の手にも、小さなレジ袋。
「磯崎と、同じもの買っちゃったみたいですね」
半透明の袋の中から、ピザパンとアロエジュースが透け見えた。