今日で最後にしよう。この仕事も、人生も。

 今日の依頼主は大学生とのことだ。毒親に育てられ、逃げるように家を飛び出して、ドブネズミのように生きてきた私とは何もかもが違う。きっと、何不自由ない人生を送ってきた別世界の住人なのだろう。金の力で女を買う。暇潰しで己の欲を満たす。大方こんな所だろう。
 指定された住所に車で送られて、束の間の距離を自分の足で歩く。何の変哲もないアパートの一階の一番奥の部屋が依頼主の城だ。念のため、部屋番号を見て間違いがないことを確認すると、私はドアに設置されたチャイムを鳴らす。ピンポーンという高い音が、思いのほか闇夜の静寂に響き渡り、来訪者の存在を強調させる。来訪者とは紛れもない私のことだ。
 数刻後、家の中から「はい」という男性の声が聞こえた。私が自分の正体を告げると、男性は快くドアを開け、私を招き入れてくれた。
 大学四年生という年齢よりも見た目は幼い印象だ。サラサラで特にセットされていない髪型にクリッとした大きな瞳。色白の肌に頬はやや痩けていて、華奢で繊細な雰囲気を纏っている。何処か少年っぽさが抜け切れていない客としては珍しいタイプだ。もっとチャラチャラした風貌をイメージしていたが、良くも悪くも毒気のない優しげな青年だった。
「ごめんなさい。散らかっていて」という青年の言葉に、私は思わず「何処が?」と返した。散らかりっぱなしの部屋に構わず招き入れる客も珍しくない中、この青年の部屋はとても綺麗に片付いている。いや、単に片付いているだけではない。異様なまでに物がない。パッと部屋を見渡した所、ベッドとテーブルとパソコンぐらいしか見当たらない。生活必需品と言って良さそうな冷蔵庫や炊飯器や電子レンジすらなさそうである。あまり客のことを詮索するのもあれなので、あえてそこには触れない。
「僕、本当に女性経験がなくて……初めてなので、よろしくお願いします」
 青年が予想外に大きな声を上げた。緊張から声量のコントロールが効かなくなっているのだろう。
「全然大丈夫ですよ。こちらの仕事ですので。お客様はリラックスしていて下さい」
 私はできる限り穏やかな口調で、青年の緊張を解そうとする。
「でも、上手くできなくて……サヤさんが痛かったらどうしようって心配で……」
 ん? 痛い?
「お客様、もしかして最後までできるとお思いですか?」
「……えっ? 違うんですか?」
 この勘違いをしている客は意外と多い。デリヘルは基本的に本番はNGだ。嬢によっては暗黙の了解でやってしまう事もあるようだが、私はそういうのは全部断ってきた。ただ、今日ばっかりはそれもありか、という気分になっている。それはこの青年が魅力的だからとかそういったものではなく、今日でこの仕事をやめて人生そのものを終わらせてやろうと考えているからだ。
「ええ、本来は最後まではNGです。まあでも、構いませんよ。バレないので」
「そういうもんなんですか?」
「はい。須藤様さえ他言しなければ問題ありません」
 私の言葉を、まるで授業を受ける小学生の生徒のように無垢な表情で聞き入る彼に、思わず笑みが零れた。
「えっと、何かおかしかったですか?」
「いえ、ごめんなさい。須藤様、真面目なんだろうなって思いまして」
「真面目な人がデリヘルとか呼びます?」
「うーん真面目の定義にもよるかも知れませんが、大企業勤めのお偉いさんとかも多いですよ」
「えっ? そうなんですか?」
 彼は本当に驚いていた。きっと利用者も嬢も底辺同士だとでも思っていたのだろう。そして自分が例外だとも。
「とりあえず、始めましょうか?」
「あっごめんなさい」
 私の催促に、彼は焦った様子で私をベッドへと導いた。シワ一つないベッドのシーツが、彼の真面目さを物語っている。私がその領域に侵入することで、シワが発生する事実に申し訳なさすら感じた。しかし、続いて侵入してきた彼が作る新規のシワに、私は安堵感を覚える。
 私の技巧に彼が小さな声を漏らす。自発的なものではない発声に、罪悪感を覚えているかのような険しい顔で、彼は耐えている。近隣住民への配慮か、はたまた自尊心を守るためか、彼は極力、声を出さないようにしている。
 事前準備が完了すると、彼はぎこちない様子で私の中に侵入してきた。とても不慣れで不恰好な様子だが、反面、愛おしく感じた。不器用ながら私への思いやりに満ちた言葉や動きが、快楽以上のもので私を満たしていた。
「サヤさん好きです」
「……私も好き」
 私の言葉を聞いたとほぼ同時に彼は果てた。時間にすると、とても短い結合ではあったが、彼は満足した様子であった。事後処理を簡単に済ませ、二人してベッドで語り合う。このような時間は随分と久しぶりな気がする。
「ありがとうございました。サヤさん」
「私の方こそありがとう」
 本心で礼を言ったことも言われたこともいつ振りだろうか? それぐらい私は人生において人から粗末にされてきた。ありがとうなんてありふれた言葉が、私にとっては何よりも嬉しい。彼の優しさが心に沁みる。
「最初で最後の相手がサヤさんで良かったです」
「最後だなんて、これからいくらだってあるでしょう? まだ若いんだし」
「いえ、僕もうすぐ死ぬんです。病気で」
「えっ?」
 彼の言葉に思わず絶句した。言われてみれば、異様に華奢な彼の体も白い肌も痩けた頬も、病人のそれと特徴は一致している。でもまさか、彼が死の淵にいるとは考えもしなかった。返す言葉が見当たらず黙っていると、彼は言葉を続けた。
「明日、大学卒業なんですけどね、おそらく数ヶ月後には人生からも卒業です。人生から卒業する前に、童貞を卒業しておきたかったんです。男のプライドってやつですかね?」
 彼はまるでバラエティー番組の内容を話すかのごとく、軽快に自分の現状を語った。その淀みのない口調と表情に、私は感動すら覚えていた。
「何で、そんなに笑顔でいられるんですか?」
 私は単純な疑問を彼にぶつけた。
「もう全ての感情を出し尽くしたんですよ。でも、どうしても心からの愛情というものだけは得ることができなかった。それをアウトプットする機会もなかった。まさに今、それを実行しているんです。こんな出会い方で申し訳なかったですが、ありがとうございます。サヤさん」
 彼の表情の理由が分かった。彼は人生に悔いがないのだ。迫り来る自分の死と向き合うことで、自分に足りないピースを模索した。その結果、私が選ばれた。こんな出会い方と彼は形容したが、何て素晴らしい出会い方なのだろう。私は彼の最後に選ばれたのだ。
「私、今日でこの仕事も人生も終わらせようって思っていました。でも、あなたと出会えて、人生は終わらせないことに決めました」
 今からでも遅くはない。彼のように後悔のない人生を歩む。自分が最期を迎える時、今の彼と同じ表情をしていたい。私は心からそう思った。
「良かった。僕の分も生きて下さい。後悔のないように」
「お客様のあなたにこんな話をするのはおかしいけど、後悔しないためにもこの仕事を辞めて、新しい人生を探すようにします」
「それは良かった。僕が最後の客ということですね」
「そうですね。きっかけをくれて、ありがとう」
 二人して穏やかに微笑み合う。この時間が永遠に続けばいいのにって心底思った。
「サヤさん、僕眠くなってきました。少しだけ眠ってもいいですか?」
「いいですよ。私は何処にも行きませんから、ゆっくり眠って下さい」
 私の言葉を聞いた彼は小さく礼を言うと、穏やかな笑みを浮かべたまま静かに瞼を閉じた。私はしばらくの間、そんな彼の寝顔をジッと見つめていた。そして、そっと彼の頬に口付けすると、眠っている彼の耳元で囁いた。
「卒業おめでとうございます」