深月が特命部隊の別邸で暮らすようになり半月が経った。
 以前より視界は良好になり、ゆっくりではあるが人の顔を見てする会話にも慣れてきたように思う。身構えてしまう癖はまだ残っているものの、びくびくと恐れて口を開くことは随分と減ってきた。
「失礼いたします」
 今日も朝食を摂るため深月は食堂の間に入る。
 一足先に来ていた暁は、椅子に腰かけ朝刊を広げていた。
「おはよう」
「おはようございます、暁さま」
 朝の挨拶にもぎこちなさが取れてきた。
 野暮ったい前髪を整えたおかげで、彼の顔も以前よりよく見えるようになった。そしてそれは、相手も同じなのだろう。
『どうでしょうか、暁さま。少し御髪を整えただけで、深月さまはもっと素敵になられましたわ』
『ああ、そちらのほうが表情もよくわかる』
『そういうことではありません!』
 ……と、暁と朋代の会話が繰り広げられていたのはまだ記憶に新しい。
 暁も多くは語らなかったが、かといって苦言を呈する素振りもなく、その距離が深月には心地よかった。
「昨日も掛布団は使ったか?」
「は、はい。あの、もうちゃんとかぶって寝ています」
 暁が就寝後の深月の様子を窺うついでに、しっかり掛布団をかぶせてくれていたのだと知ったときは驚愕した。
 それまでは遠慮するように寝台の端に腰かけ、薄い掛け布にくるまって意識を手放していた。抱えて寝台の真ん中に移動させられていたかと思うと、ひどい羞恥が勝って深月はおとなしく寝台を使うようになった。
「それと、明日の午後すぎに蘭士が顔を出すと言っていた」
「不知火さんが?」
「ああ、君の往診に」
「……はい、わかりました」
 不知火の往診は約五日に一度の頻度でおこなわれる。稀血の血液を定期的に採取し、体の異常がないかを確認されるのだ。
「体に異常を感じていないか?」
「いえ、特には……なにも感じないです」
 この問答もお決まりとなりつつある。稀血である深月の状態を逐一気にかけるのも暁の仕事だ。
 だが、暁や不知火から聞かれるような変化は深月の身に起こっていない。
(太陽の光を浴びても倦怠感はないし、逆に月の光を浴びたからといって体が熱くなることも、気持ちが高揚することもない)
 どれも禾月の特性だと教えられたけれど、深月にはひとつも当てはまっていなかった。
「なにか違和感があったらすぐに言ってくれ」
「はい」
 変化があったのは深月だけではない。暁のかける言葉は、あの日を境にまた少しずつ柔らかくなっていた。刃のように冷たく鋭かったまなざしはどこにもない。
 朝食後、ふたりは執務室に移動した。
 暁は執務机に着席し、深月はソファに座る。
 暁が書類に目を通し始めたのを確認したのち、深月も手もとにある小冊子を開いた。
(もうすぐで、第四章も読み終わる)
 ときおり、こんなに落ち着いた時間を過ごしていいのだろうかと恐縮してしまうほどに、穏やかな日が繰り返されている。
 ほかに深月がしていたのは、朋代が趣味で育てている花壇の手入れを手伝ったり、縫い物や軽作業に手を貸したり、花嫁候補を装うため定期的に訓練場で暁の指導風景を眺めるというものである。
 当初は勝手に執務室を出るなと言われていたが、深月の様子や態度を考慮して行動範囲も段々と広がってきていた。そんなふうに動けるのも、暁が童天丸を介し結界を張り、深月の現在地や動きを瞬時に突き止める力を持っているからである。
 自分が庵楽堂でどのような扱いを受けていたかというのは、あれだけ過剰な反応を見せてしまったこともあり暁も薄々わかっているだろう。
 それでもこちらを気遣ってなのか、すぐに追求してこない姿勢がありがたかった。もしかすると調べがついているからあえて聞いてこないのかもしれないが、なんにせよこれ以上ふがいない姿をさらすのは避けたい。
(それにしても、これはいつまで続くものなんだろう)
 まだ半月程度しか経っていないけれど、暁との契約には具体的な期間が設けられていない。自分が稀血である以上は、明確な日数を定めても無意味なのかもしれないが。
(聞いてみても、大丈夫かしら)
 小冊子から目を離し、深月は執務机のほうを見る。
 その些細な視線を感じ取った暁が、おもむろに顔を上げたときだった。
「失礼します、朱凰隊長!!」
 怒号に近い声が響き、素早く扉が開け放たれる。
 ふたりのいる執務室に入ってきたのは、鶯色の髪をした軍服姿の青年だった。
 猫のようにつんとした薄茶色の目、どことなくあどけなさがある中性的な顔には、驚異の感情が前面に出ている。
「羽鳥、入室許可はまだだが」
「申し訳ございません。しかし、いまはそれどころではありません!」
 羽鳥と呼ばれた少年は、つかつかと早歩きで執務机の前にやってくる。そして両手を机につき身を乗り出すと、まくし立てるように言った。
「聞きましたよ。朱凰隊長が花嫁候補だとかいう未来の伴侶を迎えたと! しかしそれは表向きで、不知火さんの話ではその女、稀血だというじゃないですかっ!!」
「……ああ、そのとおりだ」
 暁は机上で両手を組むと、伏せたまぶたを持ち上げ、しかとうなずいた。
「僕が部隊を離れていたあいだでどうしてこんなことに……あの稀血が隊長のそばに四六時中一緒にいるなんて、看過できるわけがありません!!」
「羽鳥、少しは落ち着け」
「隊長こそなぜ落ち着いているんですか! だって稀血は隊長の――」
「いい加減にしろ、羽鳥」
 重々しく放たれた声に、激昂の嵐がぴたりとやむ。昼間でも夜空にぽっかりと浮かんだ満月のように、鮮明な色の瞳がすごみを放っている。感情的になった羽鳥を黙らせるには十分なほど威圧を含んだものだった。
「これは決定事項だ。おまえがとやかく言ったところで覆せる問題ではない。当人を前にして騒ぎ立てるなど、軍人としてあるまじき愚行だ」
「ぼ、僕は……も、申し訳ありません。さっき不知火さんに聞いたばかりだったもので、つい心配で……って、え?」
 注意を受けて正気を取り戻した羽鳥は、ハッと踵を返した。
(あ……)
 振り返った羽鳥と目が合った深月は、なんとも言いがたい気まずさに硬直してしまう。
「だいたいの詳細は蘭士から聞いているようだな。では、ここで紹介しておく。深月」
 暁は席を立つと、深月のほうに歩いてくる。
 名を呼ばれ、小冊子をテーブルに置いた深月は慌てて立ち上がった。同時に羽鳥も口をきつく結びながら深月の前までやってくる。
「あ、の……深月と申します」
 いまの会話を聞いたあとでは、相手が自分をどう思っているのか嫌でも伝わっていた。いまだに納得いかない表情を崩さず、彼は最低限の挨拶を口にする。
「……特命部隊副隊長、羽鳥です」
 羽鳥。旧華族、伯爵家の三男。齢十八という驚異的な年齢で副隊長の座についた青年だと、少し前に暁が教えてくれた。
 隊長の暁を心の底から尊敬している彼は、深月に対して隠す気がまったくない嫌悪の念をそのまなざしに忍ばせていた。
(……きっと、わたしが稀血だから、よね)
 場所は違うけれど、厳しい目も、嫌われるのにも慣れている。その理由が自分の特殊性のせいだというのも。
 私用で帝都をしばらく離れていた副隊長がいるのは知っていたし、そのうち会うのだろうと深月も覚悟していたが、彼の一貫した態度には萎縮するほかない。嫌われることに慣れてはいても、やっぱり胸に来るものがあった。

 羽鳥と顔を合わせた次の日。
「朱凰隊長、失礼します。食事をお持ちしました」
 昼頃、羽鳥が昼食の盆を持って執務室にやってきた。
 朝は食堂の間でとっているふたりだが、昼食は朋代が別邸から運んだものを執務室でとるという流れがほとんどだった。
 もともとは暁が書類整理の合間にひとりで食べていたので、昼は簡単で食べやすいものを執務室で済ませていたそうだ。三食すべて豪勢(深月にとっては)な食事というのは胃に負担がかかるため、昼食の軽さが深月にはありがたかったりする。
(今日は、羽鳥さまが運んでくれたのね)
 どうやら暁の昼食の配膳は前々から羽鳥が担っていたらしい。それを羽鳥が帰ってくるまでの期間だけ朋代が代理でおこなっていたそうだ。
(なんだか、申し訳ない)
 朋代に対しても感じていたけれど、羽鳥が自分の昼食まで運んでくれているのを見るとお詫びを言いたくなってしまう。暁の分は喜んで持ってきているが、深月の分に関してはひしひしと不服さを感じているので余計に申し訳なかった。
「……昼食、ありがとうございます」
「こちらに置かせていただくので結構です」
 そのまま座りながら待っているのも悪いので、羽鳥から盆を受け取ろうとしたのだが、ばっさりと断られてしまった。
 中性的な顔が無情にも『触るな』と告げている。
(邪魔をしてしまったわ……)
 余計な真似をしてしまったと、深月は反省した。
「羽鳥――」
 その一部始終を目にした暁が口を開こうとしたところで……。
「朱凰隊長、いま少しお時間よろしいですか」
「ああ」
 控えめに扉が叩かれ、隊員に呼ばれた暁は椅子を離れた。
「君は先に食べていてくれ」
 深月にそう言い残して暁は部屋を出る。
 羽鳥に目配せをしていたので続けて退室すると思いきや、彼は扉の前で立ち止まってしまった。
「…………」
「…………」
 奇しくもふたりだけになった室内に、重い沈黙が流れる。
 深月はテーブルに置かれた昼食をただ見ていることしかできなかった。
 たとえば朋代や不知火がいたのなら、次々と話題が尽きずに話を広げてくれるのだろう。暁は多弁ではないけれど、静かな空間に一緒にいても最初の頃のように苦だとは感じない。
 だが、羽鳥はわけが違う。わかりやすく敵意のある相手を前にしてしまっては、刺激せずに静黙するしかできなかった。麗子のときと同じように。
「食事、召し上がらないのですか」
「え……?」
 まさか羽鳥が話しかけてくれるとは思っておらず、深月は驚きしばたいた。
「冷めますけど」
「……暁さまより先に口をつけるわけにはいきません」
 食べていいとは言われたが、部屋の主がいない状況で食事を進めるわけにはいかない。女中奉公のときに染みついた心構えがこんなときにも出てしまっていた。
「そうですか」
 決して手をつけない深月の姿勢に羽鳥は度肝を抜かれ驚いているようだった。それから思案する素振りをして、じっと深月を見据える。
「あなたは本当に自分が稀血だと知らなかったのですか。求血衝動もなくその歳まで無自覚のまま?」
「はい……」
 求血衝動。簡単に言うと、血が飲みたくて仕方がなくなる衝動だと聞いている。このような質問は、暁と不知火からもされていた。そして同じ質問をされようと深月の答えは変わらない。
「悪鬼に取り憑かれた人に襲われそうになりましたが、禾月はまだ見たこともないです」
 すると羽鳥は禾月を思い出したのか、しかめっ面を浮かべた。
「僕はあのいけ好かない連中が大嫌いです。人に危害を加えて血をすすり生きながらえているようなやつらだ。知恵が働くぶん悪鬼よりもたちが悪い」
 それはもう、わかっている。散々耳にして、そして訓練場で刀を交える隊員たちの闘志を肌で感じ、どれだけ疎まれている存在なのかを知った。
「羽鳥さまは、禾月と……戦っているんですよね?」
 いつか不知火にしたときのような聞き方で、深月は羽鳥に尋ねる。
「ええ、そうですけど」
「人の血を好んで飲む、だけど、人と変わらない姿なんですよね?」
「変わりません、でも」
 溜めるように区切ったあとで、羽鳥は続ける。
「あれらは人の形を真似た、ただの化け物です」
 それはあのときの不知火とは比べ物にならない、厭悪のこもった鋭い声だった。
 中立的な不知火から『化け物じみた』、そして主観的な羽鳥から『ただの化け物』という言葉が出た。つまりどう転んだところで人間からすると、化け物であることには変わりないのだ。
(その血がわたしにも流れているのに、どうしてだろう)
 言い知れない不安はあっても、やはりどこか遠い話のようだとも思ってしまう。それはきっと、禾月になにひとつ実感が持てないからだ。
「やはり納得がいかない。禾月でも許せないというのに、よりによって稀血が隊長のそばにいるなんて」
(よりによって……?)
 意味深なつぶやきを拾ってしまい、深月は無言で見返した。
「と、とにかく。いまはおとなしく従っているようですけど、僕は稀血なんて信じませんっ」
 ハッと口をつぐんだ羽鳥はさっさと部屋をあとにしてしまった。
 化け物。その実感が伴わない言葉が深月の胸により深く刻まれる。
 彼はもう部屋を出ていったというのに、ずっと針の筵に座らされている気分だった。
 しばらくして暁が戻ってくる。
 彼を見て、深月はすぐに違和感を覚えた。
「どうか、しましたか?」
 言いながら深月の視線が、そそそ、と暁の胸の下にまで下がる。正確には暁が抱えている網籠に、だった。
 不機嫌な空気をまとわせた暁はいまもその場に佇んでおり、深月が思わず近寄ると、網籠がかたかたと小刻みに動いた。
「え、この子は……」
「蘭士が置いていった」
 みゃあ、という可愛らしい鳴き声が、暁のため息と重なった。
 網籠の中には、白、黒、茶色の三つが配色された子猫がいた。
「三毛猫……?」
「おそらくは」
 ふわふわと柔らかそうな毛に包まれた子猫は、網籠を覗き込んだ深月を見上げてまた「みゃあ」と鳴く。
 暁が隊員に呼ばれたのは、この子猫が理由だったようだ。
「この子、不知火さんが置いていったんですか?」
「ああ、こちらの返答を待たずに」
 なんでも子猫は外の通りで馬車に轢かれそうになり、右前足にかすり傷を負ったところを不知火が保護したのだという。
 今日は午後から深月の往診もあり、子猫を抱えて特命部隊まで帰ってきたのだが、出入り口の門を抜けたところで本部から伝令が入ってきた。
 重傷者を報せる伝令で急ぎ本部へ向かわなければいけなくなった不知火は、近くの隊員にその事情と子猫を託し去ってしまった、ということだった。
 隊員によると不知火は『アキに任せておけば安心だ!』と言い残していたようで、暁は完全に面倒をかぶったことになる。ゆえにずっと微妙な表情をしているのだろう。
 網籠の中にはご丁寧にいくつかの手当て道具が入っている。
 子猫の怪我はそこまで深くないようだが、白毛の部分に血がついているのが痛々しくて、早く処置をしなければという気持ちになる。
「あの、とりあえず怪我の手当てをしても?」
「……頼めるか」
「はい、もちろんです」
「みゃ」
 暁から網籠を受け取ると、中でおすわりをした子猫が短く声をあげた。
 場所をソファに移した深月は膝上に網籠を乗せ、さっそく手当てを始める。
「にゃあ〜」
「ちょっとだけじっとしていてね、だいじょうぶよ」
 前足に触れると、ふにっとした肉球の感触が指先に伝わった。
 子猫は警戒心もなく手にすり寄ってくる。それどころかすでに懐きかけているようで、おとなしく深月に手当てをさせてくれた。
「君は猫の扱いがうまいな。手当ても慣れているようだ」
 頭上から感心した声がする。
 暁は食い入るように深月の手当て風景を眺めていた。
「動物はあまり触れ合う機会がなかったのですが、手当てはそれなりに……」
「それなりに?」
「あっ、いえなにも」
 変なところで突っ込まれ、深月はごまかすように首を左右に振った。
 怪我に慣れていたから手当てにも慣れていた、とは言えない。
 そのまま子猫のほうに目線を落とすと、ちょうどよく扉の外から「隊長、追加の伝達です!」と声がかかった。
 伝達の内容を確認した暁は、扉を閉めると呆れたように口を開く。
「不知火は本部に数日泊まり込みらしい」
「え、ではこの子は……」
「任せるそうだ」
(不知火さん……)
 急な怪我人が出たとはいえ、自由奔放な不知火の振る舞いに深月の肩も下がる。
 ということは、少しのあいだ暁が子猫を預かるのだろうか。
「みゃあ〜」
「……っ」
 まるで暁の言葉を理解していたかのように子猫は網籠の中で立ち上がり、暁に向かって手を伸ばしていた。
 とても可愛らしい姿なのだが、暁の表情はどこか硬い。戸惑いながらも子猫に触れようとして、その手は宙で止まっている。
「猫を触るのは初めてでしたか?」
「成猫なら体を撫でたことぐらいはあるが……この大きさは、ない」
「そう、ですか」
 ぎこちない返答に、深月までぎこちなくなってしまう。
 暁からは、猫が苦手というよりは未知のものを前にどうすればいいのかわからないような、ためらう様子がにじみ出ていた。
「なにかの拍子に潰れてしまったら困る」
「つ、つぶれ」
 子猫といってももう体はかなり育っているので、暁が言うような大事は万が一にも起こらない。要は力加減の心配をしているのだろうが……。
「あの、よければわたしが見ていましょうか?」
 困っていると思ったら、考えるより先に声が出ていた。
「君が、この猫を?」
「と、突然すみません。わたしも身を置いている立場なのに……」
 急激に自信がなくなってしまう。
 さすがに生意気を言ってしまっただろうか、出すぎた物言いだったならどうしようと、深月は頭の中で悶々とした。
「ありがとう。そうしてくれるなら、助かる。頼めるか?」
 そう言った暁の顔が、ほっと緩んだ。
「……!」
 自分の提案が無駄なものではなく、お礼となって返ってきた。こんな些細な瞬間に胸を打たれてしまう自分は、やはりおかしいのだろうか。
(でも、どうしよう、嬉しい……)
 前足を怪我した子猫が、以前の自分と重なって見えた。そんな思いもあって口にした提案だったけれど、感謝されたことがこの上なく誇らしくて。暁が見せてくれたかすかな笑みに、心がきゅっと弾んだ気がした。