帝国軍特命部隊本拠地。軍本部と同じく中央区画に居を構える洋風の広い屋敷は、敷地内に部隊本邸、別邸と二つに分かれていた。
本邸は隊員の居住空間、訓練場、医務室等を兼ね備えている。
隊員数は百名前後。その約半数が本邸に寝泊まりしており、炊事場や中庭、洗い場には通いの女中が務めに精を出し、常に人の気配がそこかしこにあった。
そして本邸のすぐ後ろの別邸には、隊長である暁の執務室や私室、ほかにも多くの部屋が備わっている。
特命部隊に身を置くことが決定した深月が借りているのも、別邸の一室だった。
「おはようございます、深月さま」
「おはようございます……」
日が明けてまもなく、深月の部屋を訪れたのは本邸女中頭の朋代だ。
深月の世話役を仰せつかった彼女は、毎朝決まった時間に顔を見せ、深月の支度を手伝ってくれた。
(私なんかに申し訳ない。本当なら分不相応なのに)
仕立てのいい着物に袖を通し、髪を整え、控えめな頭飾りまで。
古着とも言いがたい襤褸の衣と、手櫛で髪をひと結びにしていただけの頃とは、なにもかもが違う。つい萎縮して肩を丸めそうになるが、深月はハッとして顔をあげた。
「毎朝すみません。着替えを手伝ってくださって」
「ふふふ、私はとても嬉しゅうございますよ。暁さまの妻になられるかもしれないお嬢さまのお手伝いができるのですから」
「…………」
深月はなんとも言えない表情で唇を引き結んだ。整えてもらったばかりの前髪が、瞳の憂いを隠すように流れる。
「やはり少し目にかかってしまいますわね。私でよければ整えて差し上げましょうか? そうすれば視界も晴れますでしょうし。なによりもったいないですもの、このままでは宝の持ち腐れですわ」
朋代はぼそりと濁したが、ほかに思うところがあった深月には届かなかった。
「そこまでしていただくわけには」
深月が乗り気でないことを察した朋代は、「気が変わりましたらいつでもおっしゃってくださいね」と引き下がった。
朝食までは、もう少し時間がある。朋代は本邸の様子を確認するため退室し、部屋に残された深月は浅く息を吐いた。
たった数日前では、日が昇る前に起きて勤め奉公に明け暮れていたというのに、いまは正反対の生活になりつつある。
(今日は、お洗濯日和ね)
深月は備えつけの椅子に腰かけ、窓外の快晴にそんな感想を抱いた。
あえて意識をべつのところに向けないと、つい考えてしまうからだ。知ったばかりの、自分のことを。
(わたしが稀血という存在だから、狙われて、周りを巻き込むかもしれない。そうならないためにもここにいる。朱凰さまの、花嫁候補として)
どうにか理解しようと反芻したところで、多くの不安は尽きないままだった。
深月はそっと自身の顔を両手で覆う。
心は日に日にうらぶれていくのに、泣くのもままならない。こうしているうちに涙一つでも流せれば、どんなによかっただろうか。
***
同時刻、暁の執務室にて。
「おいアキ。なにがどうして〝花嫁候補〟になったんだ?」
執務机にいる暁に声をかけたのは、帝国軍お抱え医者の不知火だった。彼は室内の長ソファーを陣取るように座って不可解そうにしている。
「見張るためにそばに置くには、それが手っ取り早い」
「そりゃあそうだが。ほかにいくらだって言いようがあるじゃねえか。隊長付き女小姓とか、隊長付き女中って手も……いや、見方を変えるとそれはそれで卑猥だな、うん」
「おまえはなにを言っているんだ」
論点のズレを感じ、暁は怪訝な顔で冷ややかに返した。
「しかしまあ、未婚の男女が四六時中一緒にいて反感を買わず周りを納得させる理由としては、花嫁のほうが清らか真っ当なのかね」
不知火は暁が軍の人間から縁談話や斡旋状を渡されるたび、苦々しげに顔を歪めていたことを知っていた。
数週間前には、とある華族から『君も貞淑な花嫁を迎え尽くしてもらったらどうだ。それが男児の特権だろう。がっはっは』と絡まれていたはず。本人は終始しらけていたし、『不愉快極まりない』とぼやいてもいたが。
それが頭の隅にでも残っていたのだろう。巡り巡って今回、深月がここにいる上で必要な名目を〝花嫁〟にしたのかもしれない。
「……彼女に関しては、朱凰の分家筋からやってきた花嫁候補ということになっている。参謀総長の口添えだといえば、隊員たちも余計な詮索をしようとは思わないだろう」
「おいおい、好き勝手にその名を語るなんて……いや、おまえならできるわな。さすがご子息さまさまだな」
「茶化すのはよせ。特命部隊隊長として、現段階で稀血の処遇を一任されているというだけの話だ」
暁は軽くあしらう。だが、不知火の発言がまるっきり違うというわけでもない。
朝廷に直属し、帝国軍参謀本部の長、最高指揮官にして権力者である朱凰参謀総長は、暁の養父だ。
幼少の頃に養子縁組をし、それから暁は朱凰家の人間として生きてきた。
そして特命部隊は帝国軍直轄の部隊として存在しているが、実質的には参謀総長直属の部隊である。
参謀総長からはその都度状況に応じて指令が下されるが、基本現場の指揮権は隊長の暁が握っていた。
「取り急ぎの報告は済ませてある。参謀総長もとくに異論はないようだった」
言いながら暁は机の書類に目を向ける。
そこには不知火から渡された稀血の結果報告書や、ほかにも本部から新たに送られてきた調書が置かれていた。
さらに端には縁談状がいくつかある。暁にとっていまもっとも不必要なものだ。それを処分用の箱に仕分けていると、またしても不知火が尋ねてきた。
「表向きは花嫁候補といっても、実際は稀血ちゃんの監視、観察が目的だろ?」
「ああ。軍が保持する稀血の情報には、不鮮明な部分が多いからな」
稀血が周囲にどれほどの影響を及ぼすのか。
ほかにどんな力を秘めているのか。
禾月と同様の性質があるのか。
稀血である深月を通じて、それらを確認するのも暁の役目である。
「つまり、おまえは稀血ちゃんと過ごす時間が多くなるってことだよな」
「当然だろう。稀血が発見されたと知るのは、おまえ以外に総督だけだ。緊急の事態が起こった場合を考えても、そばに置くのは俺以外に適任はいない」
そもそも禾月や悪鬼について知る者もかなり限られている。
帝国軍では特命部隊員のほか、参謀総長をはじめとする上層部、諜報部隊のみ。外部では朱凰家、分家の一部が該当する。
さらに深月が稀血であるということは、ここにいる暁と不知火、参謀総長だけが知っている。のちほど副隊長には知らせる予定だが、彼は私用で隊を離れているため、いまのところ認知しているのは三人だけだった。
「事情を知る人間なら、もちろんおまえが適任だろうが。オレが言いたいのはだな、あー……ほら、男女ふたりが長いあいだ一緒にいるわけだろ?」
「任務の一環だ。それのなにが問題なんだ?」
「いやあ、そりゃあ……」
不知火は素っ頓狂な声を漏らした。
暁は綺麗な顔をした美丈夫だが、縁談云々を抜きにしても普段から女っ気がなく、異性からの好意にも動じない鉄壁の男である。
そんな暁が任務とはいえ女性の近くにいなければならない状況というのは、どんなに想像してみても異様な光景にしかならない。
「まあ、相手はあの稀血だしな。女だからってほだされるわけないか」
「おまえはさっきからなにをぶつぶつ言っているんだ」
余計な心配だったと勝手に自己完結している不知火に、暁は呆れた様子だった。
「すまんこっちの話だ。で、その稀血ちゃんの様子は?」
「この数日は反抗意思もなくおとなしくしている。今日からはこの部屋で過ごすことになるだろうが、近々隊員に紹介する予定でいる」
「おまえの口から花嫁と聞いたときの隊員の顔が見ものだな」
「すぐに慣れる」
何事も冷静沈着。なにをふっかけても泰然としている暁に、不知火は聞き返した。
「で? おまえから見て、稀血ちゃんはどうなんだ?」
どこか意味深い不知火の視線に、書類をさばいていた暁の手が止まる。
眉をぴくりと動かし、それから静かに目を伏せた。
「……難儀だ」
「んん?」
あまりにも小さなつぶやきに、不知火は聞き返す。
しかし暁は無言のまま、今朝がた確認したばかりの報告書を流し見た。
(借金返済のため老舗和菓子屋の奉公人として数年間いたそうだが、近所周辺の住民とは一定の距離を保っていたようで深く認知されていない。……あの手を見れば、どのような扱いを受けていたか薄々想像つくが)
あの夜――暁が一ノ宮家の母屋から深月を連れ出した際、赤く爛れた手が目に入ったのを思い出す。あれは水仕事や過酷な雑用による代償だ。
奉公とはいえ荒れ具合はあまりにもひどく、そして抱えた身体の軽さに驚愕したのを覚えている。いいようにこき使われていたのだろう。雇い主と奉公人との間ではよく問題視されているものだ。
奉公先では冷遇され、大旦那の娘の代わりに妾を囲い込む男のもとへ嫁がされた。初夜では悪鬼に取り憑かれた誠太郎に襲われかけ、それによって自身が稀血であることが明かされた。報告書と深月の証言を合わせれば、こんなところだろうか。
(……あまりにも環境に左右された人生だな)
ふいに暁の脳裏に浮かんだのは、自身が何者かを知って身を震わせる深月の姿だった。
(彼女はここにいる以外、選べる道などなかった)
寄る辺ない身。それを難儀と思っても、監視対象を同情的には見られない。
(たとえなにも知らなかったとはいえ、二つの血が流れているのは事実だ)
もちろんその態度すら欺くための嘘だったという線もまだ捨てきれない。
人間と禾月の狭間に生まれた存在。
人か、人にあだなすものか。個人的感情を差し引いて見極めるのが、己の責務だ。
(これもしばらくは使わないだろう)
暁は本部から届いていた小包のなかを確認する。
参謀総長直筆の署名とともに入っていたのは、硝子の小瓶だった。
ゆらゆらと小瓶のなかで揺れる赤い液体を視界の端に映し、そっとふたを閉じる。
これを使うのは、見切りをつけたときだけである。
***
特命部隊に身を寄せて四日目。
暁に呼び出された深月は、多くの書物が並ぶ広い洋室に案内された。
「本日から昼の間はここで過ごしてもらう。勝手に外を出歩く以外は好きにしていて構わない」
どうやらここは暁の執務室らしい。
簡素な説明のあと、軍帽をはずした暁は執務机に腰かけて書類に目を通し始めた。その紙の束の多さに驚愕しながらも、深月の視線はきょろきょろと多方向に動く。
(好きにして構わないと言われても)
この三日間は与えられた部屋でおとなしくしているだけだった。
しかし今日からは、本部への出頭や報告、根回しをすべて終わらせ事務処理中心に移行した暁と過ごすことになる。
表向きは朱凰の分家筋からやってきた花嫁候補としてだが、実際のところは保護と稀血の調査・監視が目的であるため、なるべく彼のそばにいるよう義務付けられているのだ。
(日中はずっとここにいるなんて、落ち着かないわ)
深月は肩を縮こませる。
西洋の高価そうな調度品が並ぶ空間に硬直するしかない。革製の透かし彫りソファの感触ははじめてのもので、体勢を整えるのに苦労した。
それに、ここにきてから用意される着物についても思うところがある。街娘たちの間で大流行している西洋風の花柄模様の着物は、朋代が持ってきてくれているものだが、どれもあきらかに上等品だ。
花嫁候補の話をされてからは忙しそうでなかなか会える機会がなかったけれど、特命部隊隊長である朱凰暁は、帝国軍参謀総長の息子だという。加えて華族の生まれであり、文句のつけようがない容姿から多くの令嬢が虜になっていると朋代が教えてくれた。
そのような人とふたりきりだなんて、恐れ多くて息が詰まりそうになる。顔が良いからなどという理由は深月の頭にはなく、高貴な身分の人というだけで自分には別世界の存在なのだ。
深月は横目でちらりとその姿を確認する。
書類に判を押したり、なにか書き記したり、暁の手は常に動いて忙しくしていた。
深月も庵楽堂にいたときは、日が昇るより早くに起床し、寝るまでずっと雑事に追われていた。それなのにいまは、ただ地蔵のように固まっている。苦痛だった。
「なにか、俺に話しがあるのか?」
ふいに声をかけられ、深月は横を向く。書類を手にした暁と目が合いそうになった。
硬質な双眸に見つめられ、深月は遠慮がちに口を開いた。
「組紐のことを、お聞きしたくて……」
それは一ノ宮家の母屋で落として以来、手もとから消え失くしてしまっていた。
この三日間、深月はずっと尋ねたいと思っていた。
「……ああ」
暁は思い至ったように席を立つと、深月に小さな木箱を差し出してきた。
「今朝がた戻ってきた。これで間違いないか」
深月はそれを受け取り、ふたを開ける。
箱のなかには硝子石が嵌め込まれる深月の組紐があった。それもちぎれた部分が修復されており、また結び直してつけられそうだった。
「はい、間違いありません。あの、ありがとうございます」
「礼はいらない。すでに調べがついたものだ」
「調べる……これを、ですか?」
思わず疑問を口にすると、暁は一瞬だけ執務机に目を向けた。
その後、何事もなかったように深月の前にあるテーブルを挟んで正面に置かれたひとりがけの椅子に座る。
「あ……お仕事の邪魔をしてしまい、申し訳ございません」
「構わない。いましがたそれについての報告に目を通し終わったところだ。君の耳にも入れておくべきだろう」
職務を中断してしまったかと不安になったが、暁は嫌な顔ひとつせず深月に向き合う。
「軍で調査した結果、君の組紐には特殊な石が使われていたと判明した。稀血の気配を断つ効果をもった加工石だ」
「気配を断つ……?」
「稀血が分泌する香りを消す、と言ったほうが正しいかもしれないな」
ただの硝子石だと思われていたものは、別名『日照石』という特殊加工石であることがわかった。そしてこの日照り石は、あやかしが放つ邪気や妖気を跳ね除ける特性が含まれており、特命部隊隊員の妖刀などにも使用されている。
祝言前、麗子と軽く揉み合った深月は、右腕を化粧棚の角に引っかけ怪我をしていた。さらに初夜では誠太郎に組紐をちぎられたため、無防備に稀血の香りが流れてしまったと考えられた。
「たったこれだけの怪我で、ですか」
深月は右腕にそっと手を当てる。傷はもうほとんど塞がっていた。
「その日照り石の効果はすでに切れているようだが。君はそれを、いつから身につけていた?」
「……物心がつく頃には、すでにありました。養父が『肌身離さずつけなさい』と、わたしにくれたものです」
当時は御守りとして持つ以上の意味はないと思っていた。
けれど、組紐に使用されていたのが日照り石だとわかったいま、背けがたい疑念が出てくる。
(養父さまは、なにかを知っていたんじゃ……?)
そう考えたとき、暁は「君について少し聞きたい」と言ってきた。
ひとまず深月はうなずき耳を傾ける。
「君が庵堂楽に身を置いたのは齢十四の頃。だが、奉公以前の記録はなにも残されていなかった。戸籍はおろか名字登録すらされていない。かといって『養成館』に入所していたという話も掴めていない」
養成館とは、政府認可の養護施設。身寄りのない孤児や捨て子が過ごすための場所であり、帝都にいる以上は特別な理由がない限り入所が義務付けられている。
「養成館で生活をした経験は?」
「……いいえ、ありません」
「では、君が養成館で過ごさずにいたのには、どういった事情がある?」
「それは、養父がわたしを引きとって――」
そこで深月は、はたと言葉を止める。
暁がいま聞きたいのは、きっとそこじゃない。
深月は人間と禾月の血を継いで生まれた稀血。となれば、暁が焦点を当てようとしているのはおのずとわかってくる。
「君は生みの親について、なにか聞いていたか?」
やっぱり、と深月は思った。
稀血が人間と禾月の間に生まれてくるのなら、深月の本当の両親はどちらかが人間で、どちらかが禾月のはずだ。そして、養成館ではなくどこかで深月を引き取った養父は、やはりなにか知っていた可能性が高い。
「……わたしが聞いていたのは、実の父と母は、赤子の私を置いてどこかへ行ってしまったという話だけです。以来、私を育ててくれたのは、養父でした」
深月が両親に捨てられたことを淡々と告げれば、暁はわずかに瞳を哀しそうに揺らした。しかし気のせいともとれるほど一瞬で、さらに尋ねる。
「では、養父はいまどこに?」
「十四のとき、亡くなりました」
「君が庵楽堂の主人に返していた借金というのは、もしや」
「……! ええ、養父が生前残したものだと聞いています」
借金まで調べ上げられている事実に深月は目を丸め、それから首を縦に動かした。
「養父の名は?」
「名字はわかりません。名は貴一といいます」
あらためて深月は、養父の素性をたいして知らなかったことを思い知る。
なにより養父が詮索を拒んでいたような印象だったため、無理に問いただせなかったのだ。
「亡くなったというのは、病で?」
「いえ、養父は……家の前に傷だらけで倒れていて。その怪我によって亡くなりました」
「何者かから、襲撃を受けたのか……」
暁は思案し、難しそうに眉根を寄せる。
「人が死んだとなれば大事だ。警吏隊にはいつ頃届出を?」
「それは……出して、いません」
「なに?」
「養父が、警吏には報せるなと。傷も手遅れだから、医者も連れてくるな、しばらく外には出るなと、何度も私に」
養父は最後までかたくなだった。なにか隠しているのはわかりきっていたのに、それを深月に話す力もなく死んでしまった。
残されたのは数々の疑問と、借金。
当時は、金貸しと揉めて殺傷騒ぎにまで発展したのだと大旦那に聞かされた。
深月はどこかで納得していない部分があった。あの堅実な養父が、本当にそのような事件に巻き込まれたのかと。
しかし庵楽堂で生活をしていくうちに疑問を感じる暇さえなくなって、いつしか意識の外に抜け落ちてしまっていた。
「養父がどんな職に就いていたか、生まれはどこで、過去になにをしていた人なのか……わたしはなにもわかりません」
いまさらながら、自分はなんて薄情なのだろう。
そんな不甲斐なさと同時に感じたのは、養父に対する懐疑心だった。
(ねえ、養父さま……あなたはなにか知っていたの? だから、この組紐をはずすなと言って? 養父さま、わたしはなにを信じればいいの)
組紐だけが、養父との繋がりを示すものだった。たとえもうこの世にいなくても、触れて実感するだけで気持ちが少し休まるような気がした。
しかしそれを授けてくれた人は、とんでもない事実を隠したままだった。
養父の目には自分が、どんなふうに映っていたのだろう。
街から離れた場所で深月を育て暮らしていたのも、物資や生活必需品を届けて極力出歩く行為を避けさせていたのも。全部わかっていたけれど、深月は黙って受け入れていた。
なにか大切な理由があるのだと、信じていたからだ。しかしその理由が稀血だったからであり、人ならざる化け物だと内心疎んでいた結果なのだとしたら……。
「君の養父、貴一殿はどのような人だった?」
それはとても、気遣わしげに響いた。
深月はふと前を見る。暁に声をかけられ、思いのほか自分が鬱々とうつむいてしまっていたことに気づかされた。
「も、申し訳ございません。話の途中に」
「謝罪は必要ない、それで?」
「え……」
「君の知る養父は、どんな人だった」
これも事情聴取のうちなのだろうか。そう思っただけに、こちらを真っ直ぐ捉える目からほのかな温度を感じて、深月はふいを突かれてしまう。
あれだけ根掘り葉掘り聞いていたのに、いまはどれだけ静寂が包もうと彼は言葉を待ってくれていた。
不思議だった。こんなにも長い時間、自分の言葉を待ってくれたのは、短い人生を振り返ってみても養父以外にいなかったから。
そのとき、胸の奥深くにしまわれていた思い出が唐突によみがえった。
「……字を、教えてくれました」
養父は教え上手だった。たまに変わり種といって異国の文字にも触れさせてくれた。
「本を、たくさんくれました。いまはひとつもないけれど」
養父は博識だった。幼いときには紙芝居を読んでくれた。
「知らないことを、たくさん教えてくれました」
養父は物知りだった。自分についてはなにも語らないのに、海をこえた先にある広い世界の話をしてくれた。花の名前、草の種類、生きていく知恵をほどこしてくれた。
「わたしが好きだった、キャラメルをよく買ってきてくれました」
養父は甘味が好きだった。貰ったキャラメルを口内でころころ転がしていたら、喉に詰まりそうになって笑われたときもあった。
「今日のように肌寒い日は、大きな羽織りをかけてくれました」
養父は、あたたかい人だった。口数が多いほうではなかったけれど、やさしかった。
「そうか」
深月がひとしきり思い出を口にしたあと、暁が短く声に出す。無表情な顔つきが、やはりどこか柔らかげだった。
そして暁は、言った。
「君のなかに揺るがない記憶があるのなら、それを信じ抜けばいい。たとえ理想と違った現実がこの先あろうと、君の糧になるはずだ」
なぜ暁は、突然そんな言葉をかけてくれるのだろう。
会って間もない人間に、的確な言葉をくれるのだろう。
意図がわからず、なんとも不明瞭だった。
(わたしが顔を伏せてしまっていたから……?)
慰めとしか思えない口ぶりに、まさかの可能性が導き出される。
たった一瞬、深月の気持ちが落ち込んでいるのを察して、あのような聞き方をしてきたのだろうか。
深月はなんとか呼吸を整えた。
(……よく、わからない人だわ)
最初は微動だにしない姿に畏怖すらあったというのに。予想していなかった彼の人間味に触れてしまい、深月のなかにあった得体の知れない恐れがほんの少しだけ薄らいだ。
「す、朱凰さま……こんなときに、なのですが」
じんわりと汗が滲んだ両手を重ね、膝上できゅっと握る。深月にはまだ彼に伝えていない言葉があった。
「あの晩……助けてくださり、ありがとうございました」
一度に多くを耳にしたせいで、ずっと冷静さに欠けていた。
しかし振り返ってみれば、誠太郎が振り下ろした刃から庇ってくれたのは、まぎれもなく彼である。
「ありがとう、ございます」
「……そう何度も感謝されることでは」
暁から言いよどむ気配が伝わってくる。
繰り返し告げた『ありがとう』を変に思われただろうか。しかしこれは、たんに助けられた謝意を言っているだけではなかった。
(わたし、久しぶりに養父さまの話ができた……)
そこには、養父の思い出を口にさせてくれた心づかいに対する礼も含まれていたのだ。
職務としての対応なのかもしれないけれど、それは深月にとってとても大きなきっかけだ。
長々と張り詰めたようにあったふたりの緊張の糸が、ほんのわずかに緩んだ瞬間だった。
ひとまず養父の話が一段落ついたとき、こんこん、と扉を叩く音がした。
「失礼いたします」
深月と暁は、同時にそちらへ目線を送る。
入ってきたのは、配膳台を引いた朋代だった。
「お茶とお菓子をお持ちいたしました。あら、ちょうど休憩中でしたか?」
ふたりがテーブルを挟んで相対している様子から、朋代はそう勘違いしたようだ。
飴色のつやつやしたテーブルに、緻密な線や絵柄が施された洋食器が置かれる。
湯のみ茶碗ほどの大きさだが、綺麗な半円を描くそれは、深月の知る湯呑とは違う。そしてその横には、薄い皿に乗った四角い形の見慣れない食べ物があった。
「こちらカステラです。ぜひ深月さまに召し上がっていただきたくて」
「わたしに、ですか?」
「そうですとも。お部屋にいらしたときは、遠慮されてお食事以外なにも口にされなかったではありませんか」
(……だって、毎食あるだけでも十分だったから)
なんだか暁を差し置いたような発言が気にかかり、深月は正面の様子を窺う。しかし暁は気分を損なうどころか、いつものことだと言わんばかりで朋代の手もとを眺めていた。
「さあ、どうぞ」
器にこぽこぽと注がれるのは、透きとおる赤茶色の液体。
深月は首をかしげて、じっとそれを観察した。
「どうかしたのか」
「え?」
「見つめてばかりいても、勝手に喉には通らない」
諌められて、さらに両肩が跳ねるよう持ち上がる。
(まだ朱凰さまも口をつけていないのに、わたしがいいの?)
だが、黙って挙動を見られていては手を動かさないわけにもいかず、深月はこわごわと白い器を手に取った。横についた持ち手に指をかけ、不慣れに口へと運んでいく。
こくりと一口飲み、ほっと息を吐いた。
「……おいしいです。緑茶とは違った味がします」
「ふふふ、こちらは西洋産の紅茶というものです。カステラも一緒に召し上がると、より美味しくいただけますよ」
かすてら。砂糖をたっぷり使用した南蛮菓子だ。
深月は使い途中の店先から遠目に見ただけだったけれど、ここ数年帝都で流行っている菓子である。
そっと暁を見ると、まだこちらに視線を固定したままだった。
「あ、あの……朱凰さまは、お召し上がりにならないのですか?」
「俺のことは気にせず、先に食べたらいい」
そう言って暁は片手で持った器に口をつける。
「では……いただきます」
しばらく逡巡していた深月だが、意を決して楊枝を取った。
食べやすく切り分けたあと、一口ほどの大きさのカステラを舌に乗せる。
じんわりとやさしい甘みの広がりに、鈍色の瞳がぱちぱちと明るくまたたいた。
「あまくて、おいしい」
数年越しの甘味だった。
自然とこぼれた感想に、朋代は微笑ましそうに目じりの皺を深くする。
暁もまた、そんな深月を食い入るように見ていた。
「なんて愛らしいのでしょう。これですわ、暁さま」
「朋代さん、なにが言いたいんだ?」
「あなたはなにを口に入れても『ああ』や『うん』としかおっしゃらないんですもの。それでは作りがいがありません」
「美味しいとも伝えているだろ?」
「無礼を承知で申し上げるなら、深月さまのような反応が理想でございますわ」
「無茶を言うな」
軽快に繰り広げられる会話。敬称は使っているが、ふたりの様子はとても親しげだ。
「ほんの少し前は、小リスのように頬袋を膨らませてなんでも召し上がっていたというのに……」
(頬袋……小リス……)
想像しそうになり、深月はすぐに頭から想像を打ち消した。さすがに無礼が過ぎてしまう。
「一体いつの話を……。やめてくれ、彼女の前で」
暁は額に手を押さえると、困ったように息を吐いた。
(この人も、こんな顔をするのね)
深月は密かに盗み見ながら、ふと思い返す。
(そういえば朋代さんは、朱凰家に代々仕える使用人の家系に生まれたと教えてくれたような……)
詳しくは聞いていなかったが、朋代は幼少の頃の暁を知っているからこそ、女中ではあるが自分の子どものような態度で接しているのだろう。
暁が咎めないところを見るに、もとから容認しているようだ。
「ところで私、さきほどからおふたりについて一つ気になっていたのですが」
「……なんだ」
(……?)
もう余計な話はしないでくれ、と言いたげな声の暁と、内心首をかしげた深月は、揃って朋代を見やった。
「深月さまは花嫁候補として分家からいらしたのでしょう? ということは、おふたりはいずれ夫婦になられるかもしれない。ですのに、いつまで他人行儀な呼び方なのです?」
「……!」
ぎくり、とする。
花嫁候補としてやってきた分家の箱入り娘。朋代が知らされている深月の事情は、そんな表向きのものだけだった。ゆえにさきほどからいやによそよそしいふたりの姿が、不自然に映ってしまったのだろう。
(もっとそれらしくしていないと、怪しまれてしまう……)
まだ顔を合わせてほんのひとときしか経っていない。突然馴れ馴れしくするなどできはしないけれど、これからは花嫁候補と偽るのだから気を配らなければいけないと、深月は自分の表の立場を再認識した。
***
「私ったら、昼間はお節介が過ぎましたわね」
夕方。暁が本邸に顔を出すと、朋代にばったり出くわし開口一番に言われた。
野暮なことを告げてしまったという反省の色が窺える。
「いや、それより……彼女はこの数日、どんな様子だった?」
「お部屋でのご様子、という意味でしょうか?」
「些細な違和感でも構わない。彼女に関して気がかりな点があったのなら教えてくれ。……花嫁候補として、よく知っておく必要がある」
言葉尻に取ってつけたような風情を装う。
深月がもしなにか隠しているのなら、自分よりも朋代といたときのほうがボロは出やすかっただろう。養父の思い出を語る深月に邪なものを感じなかったとはいえ、念のため把握しておく必要があった。
「そうですねぇ。ほんの数日ですけれど……とても謙虚で、なにに対しても心苦しそうに謝意を口にする、少し行き過ぎたくらい遠慮深い方でしょうか」
そう言って朋代は庭先にある一本の木に目を向け、やがて悲しげにつぶやいた。
「なんだか、耐冬花のようですね」
「……耐冬花?」
「椿の別名ですよ。厳しい冬のなか、痛みにも似た冷たさにじっと耐え、ただひたすら春を待つ。深月さまからは、そのような儚さを常々感じます」
暁が聞きたかったのは、深月に怪しい点はなかったか、ということだった。
朋代の言葉は感情論に寄っていて、暁の求める答えとは違っている。だというのに、妙に関心を寄せている自分がいた。
「彼女が、耐え忍ぶ花であると?」
「ふふ、あくまでも比喩でございますよ。ただ、私の知る朱凰の分家のお嬢さまとは、毛色が違っているのは確かですわね」
おそらく朋代はなにかしら勘づいているのだろう。
朱凰の分家や派生の家門は多くあり、その数だけ令嬢はいるが、あのように癖でうつむいてばかりいる箱入り娘は稀である。
いまは朋代の手によって姿だけは令嬢といって遜色ないが、近くにいる時間が長いほど、仕草や振る舞いで違和感を持たれてしまう。
(あえてそこには、触れる気がないようだが)
勘のいい人だからこそ、ぎりぎりのところを見極めて一線を引いている。しかし、昼間の発言にはかなりの悪戯心が隠れていた。
「朋代さんは、彼女を気に入っているのか」
「あら……それをおっしゃるならば、暁さまもではありませんか?」
「……は?」
なにを言い出すのかと、暁は顔をしかめた。
今日ようやく落ちついて話せたぐらいの、会って間もない監視対象を気に入るもなにもないだろうと怪訝がる。それでも朋代の笑みは深まるばかりだ。
「ふふふ。暁さま、ではお聞きします。女性の表情に気を取られたのは、今回がはじめてだったのではありません?」
「…………」
急に喉の奥底がぐっと絞まったような心地がした。朋代の指摘に、口だけの否定すらできなかった。すべて的を得ていたからである。
『あまくて、おいしい』
前髪で陰る眼が、カステラを一口入れただけで輝いていた。
「ほら、すぐに思い出せたでしょう?」
「それが、どうしたと」
「歯がゆいですわね。瞬時にその顔を思い出せるくらいには、心に深く残ったのですよ。いつも不要なことは気にもとめないような、あなたさまが」
「それだけで気に入っているという話にはならないと思うが」
「剛情ですわね。では言葉を変えます。深月さまのこと、女性として苦手ではないでしょう?」
やはり朋代は、どこか楽しげだ。
自分が深月を気にかけているのは事実だ。しかしそれは、朋代が考えているような花嫁候補として、異性として見ているからではない。あくまでも稀血だから……の、はずだというのに。
(朋代さんの言葉を、すべて鵜呑みにするわけではないが)
いまのところ深月からは、邪なものが一切感じない。
……そう、邪どころか。あの瞬間だけは、すっかり毒気を抜かれてしまった。
心のままにつぶやかれた声があまりにもたどたどしく、小さくほころんだ顔が印象的で。
「美しい花の開花というのは、それが丹精込めたものほど咲いた姿に胸を打ち、記憶として残ります。そしてまた、咲かせたいという欲が出る。それは人にも共通すると私は思いますわ」
それは、花を愛でることを趣味とする彼女の持論だろうか。
あまりに抽象的すぎる。しかし、どういうわけか引っかかる。
庭先の椿の木に目をやりながら、暁はしばらくその場に踏みとどまった。