恐ろしい悪夢をみた。
 まるで狂気そのものになった男に、殺されそうになる夢。
 誰かが助けに入ってきたはずだが、どうだっただろうか
 ああ、それよりも。すぐに体を起こして朝食の支度を始めないと。
 鳥がさえずるよりも早く、日の出よりも早く、誰よりも早く。
 借金返済のため、今日も仕事は山積みだ。
「ん、んん……」
 そこで、深月は目を覚ます。
 視界に広がるのは、記憶にない西欧風の天井だった。
 深月は身を起こし、周囲を見渡した。
 洋風の調度品に囲まれた室内は、窓明かりに反射してきらきらと輝いて見えた。
(ここは……)
 頭はまだふわふわと揺蕩っている。
 これは夢の延長なのかもしれないと深月が疑い始めたところで、コンコン、と控えめに音が鳴り、左奥の扉が開かれる。
「失礼いたします。まあ、お目覚めでしたのね」
 入ってきたのは三十代半ばほどの、嫣前と微笑む女性だった。
「ちょうどご様子を窺うところでしたの。よく眠ってらしたので、どうしようかと思っていたのですが」
 女性はそう言いながら、両手に抱えた盥を近くの卓子に置いた。
「あの、すみません。あなたは……」
 おそるおそる尋ねる深月に、女性は「あらっ」と声をあげる。
「申し遅れました。私は朋代と申します」
「朋代さま……」
「いやだわ、朋代さまだなんて。どうか朋代と呼んでくださいまし」
 どこか気品を纏わせる女性――朋代は、口を手のひらで隠してころころ笑う。
「普段は本邸の女中頭を務めております。さあ、いつまでも襦袢一枚では風邪を引いてしまいますわ。まずはお支度を整えましょう、お嬢さま」
(おじょう……さま……?)
 それからの朋代は凄まじく動作が早かった。
 お湯入りの盥に浸していた手ぬぐいを絞り、丁寧かつ素早く深月の顔や首もとに当てて拭きあげる。言葉を挟む間もなく姿見の前に誘導され、色艶やかな飛翔鶴の着物に袖を通すと、次いで洋物の化粧台らしき場所に座らされた。
「あ、あの、朋代さ……ごほっ」
 詳しい説明を聞こうと口を開けば、緊張による喉の渇きで咳をしてしまう。
 すかさず朋代は水を注いだガラスの容器を差し出してきた。
「あらあら、大変だわ。私ったら気が利かないでごめんなさい。慌てずゆっくりお飲みくださいね」
「す、すみません」
 息が詰まりそうになりながら、深月は渡された水の杯にちびちびと口をつける。
 その間にも朋代は深月の髪を整えていた。
「お嬢さまの御髪は絹糸のように細くてお綺麗ですね。冬は空気が特に乾きますので、少し元気がないようですけど。香油を塗り込めばより艷やかになりますわ」
 木櫛で髪を梳かされる。ときおりふわりと花の香が鼻腔に伝った。
「……ここは、どこなのでしょうか?」
 ようやく呼吸を落ち着けた深月は、鏡越しに見える朋代に尋ねた。
「ふふ、まだ完全にお目覚めではないようですわね。もちろん、ここは特命部隊本拠地、その別邸ですよ」
 朋代は微笑ましそうに、さも当然のように答える。
(特命部隊……それって、帝国軍の……)
 じわじわと、おぼろげにあった脳裏の光景が鮮明になっていく。
「それにしても、(あかつき)さまも隅におけないわぁ。嫁も縁談にも関心がない素振りだと思っていたら、こんなにも素敵な方をお連れになるなんて。それも大層な別嬪が好みだったのねぇ」
「あか、つき……?」
「朋代さん、一体なにをしているんだ?」
 深月のつぶやきに、もう一つ困惑混じりの声が重なった。
 横を向くと、扉の取っ手を掴んで立ち止まった青年の姿がある。
(この人は……)
 夜空に浮かぶ満月のような瞳。胡桃染の髪が、昼光に溶けてより皓々としている。
「まあ、暁さま。なにをと言われましても、ご指示のどおりお召し替えを」
「確かに着替えを頼んだはずだ。だが、着飾ってくれとはひと言も……」
「いやだわ、これでもまだ序の口ですのよ。これから御髪を結って、化粧をして差し上げて、さらに――」
「すまない、朋代さん。いまは少し席を外してくれないか」
 暁、と呼ばれた青年は、朋代の言葉を遮り軽く目配せをする。
「あら。とてもとても名残り惜しいですが、承知しました。お嬢さま、またお手伝いさせてくださいませ」
 深月の世話を楽しんでいた様子の朋代だったが、暁の指示を受け早々と退室した。
 扉が閉ざされ、ふたりきりになる。
 いきなりの状況に深月は化粧台の椅子から動けずにいた。
「……気分はどうだ」
 つかの間の沈黙を共有し、暁が口火を切る。
 忘れるはずもないその端正な面差しに、深月のなかで夢だと思っていた記憶がすべて繋がった。
 すらりと伸びた背丈に、細身ではあるがほどよく引き締まった筋肉。服の上からでも鍛えられた体躯だというのが素人目にもわかる。
 身にまとっているのは、金銀糸を惜しみなく施した刺繍が印象的な、黒に近い濃紺の軍服。肩には金の飾緒が揺れている。腰には刀が携えられており、漆黒に染まる柄には真紅の飾り紐が結ばれていた。
「私は朱凰(すおう)暁。帝国軍特命部隊隊長の任に着いている」
「……深月と申します」
 手短な自己紹介を告げられ、反射的に深月も頭をさげつつ名乗った。
「君は昨晩の騒動をどこまで覚えている?」
 次いで問われて、あの出来事からすでに半日近く経過していたことに深月は驚いた。
「一通りは……覚えているかと思います」
 もちろん、耳に残るあの意味深な発言も。
『この日がくるのを、待っていた』
『ずっと探していた、君を』
 あの言葉は一体なんだったのだろう。
 それだけじゃない。誠太郎の様子がおかしくなった原因も、どうやら彼は知っているようである。
「なにが起こっていたのでしょうか。どうしてわたしは軍の建物に? それに、旦那さまの様子も……あ、あの、旦那さまはご無事なのでしょうか?」
「……」
 深月の問いかけに、暁はわずかな疑心を眉宇に漂わせる。
 染みついた癖のせいで、深月はびくりと肩を跳ね上げた。彼の気分を害してしまったと勘違いしたのだ。
「申し訳ございません、長々と厚かましく聞いてしまって……」
「うつむくな。表情(かお)が見えない」
 目線をさげた深月のあごに暁は指をかけ、くいと掬い上げる。
 凪いだ瞳に見据えられ、深月はその体勢のまま固まってしまう。
 手袋越しに熱が伝わってくる。じっと探るような視線と絡まれば、わずかに鼓動が速まった。そらしたくてもうまく体が動かない。
「君のいう旦那とは、一ノ宮誠太郎だな。彼は無事だ。いまは容態も安定していると報告を受けている」
 それを聞いてひとまず深月は安堵の息を吐く。
「昨晩の事態や、君の身柄を預かっていることについてだが。順を追って説明する前に、まずは君の口から確認をとりたい」
(確認……?)
 続いて発せられた暁の問いに、背筋に冷たいものが走った。
「君は、稀血だな?」
 彼の瞳は、すべてを見透かすように真っ直ぐこちらを向いている。
 嘘は絶対に許さない、そう言われているようだった。
 だからこそ、深月は間を置かずに答える。
「……稀血、とは、なんですか」
「稀血を知らないだと?」
 下あごに触れたままの長い指に、ほんのり力が加わる。
 傍から見れば勘違いを生みそうな体勢だが、深月はその意を悟った。
 暁は見逃さずにいるのだ。深月の瞳の動きや、頬の筋肉の強張り、唇の動き、そして首の血管から拾える音を。虚偽の取りこぼしがないように。
「白々しい冗談に付き合う暇はなかったが、君は本当になにも知らないのか」
「わたしはなにかを、知っていなければならないのですか……?」
 しばらく室内を静寂が包む。
 長いようでいて本当のところ、それほど時間は経っていなかったのかもしれない。
「……これは、民に伏せられた事実だが」
 暁はそっと、深月から手を離した。そのまま三歩ほど距離をとり、腕を組む。
「数百年も昔、あやかしという異形の種がこの世にはいた。人の姿に化け、異型の化け物になり、命を食い荒らした畜生共が」
 作り話や街中の人形芝居、劇や創作のなかで描かれるような内容を、暁は淡々とした口調で並び立て始めた。しかしそれは冗談でも、おとぼけでもなかった。
「人々の命がけの攻防により大部分のあやかしは人の世から消えたが、禾月というあやかし一族だけは、それに反して人の世に居続けた。いまもこの帝都を根城にし、人の血を飲み、糧として生きる者たちだ」
(……血を、飲む?)
 禾月とは、あの夜にも問われた言葉。なぜだろう、心臓の音がうるさくて仕方がない。
 絵物語のような話に、妙な緊張が走る。
「禾月は、同種である禾月と交わり繁栄する。しかし帝国軍が代々編纂した文献には、人間と禾月の間に生まれた存在の記録がわずかに記されていた。両者の血を受け継ぎ生まれた者。それを示す言葉として使われるのが、〝稀血〟だ」
「稀、血……」
 暁によれば、特殊な混じりによって生まれた稀血には、独特の香りがあるのだという。
 なかでも〝血〟の匂いは、非力な者ほど嗅いだだけで気の昂りと狂暴性を誘発させ、血を求めて襲いかかってくる。その最たるものが悪鬼というあやかしの類いだった。
「人の世と妖界の間に生じる歪から現れる悪鬼は、実体を持たないため生き物に取り憑く。一ノ宮誠太郎の変貌もそのためだろう」
 誠太郎はさまよう悪鬼に取り憑かれてしまっていた。体内に潜伏していたが、深月の右腕の怪我から漏れた血の匂いによっておびき出され、あの事態を招いたのだ。つまり……。
「わたしが、その稀血だと?」
「ああ、そのとおりだ」
 確認したいと言っていたわりに、彼の曇りなき眼はもう確信していると告げているようだった。
 口の中が乾いていく。自身の体に巡る血の半分が人ならざるものだと伝えられてもも、いささか信じがたい。
(頭が、うまく働かない)
 無意識に身震いを起こした深月になにを思ったのか、暁の威圧感がかすかに薄れた気がした。しかし、それも一瞬。
「君は極めて危険な状況にある。なぜこれまで気配を嗅ぎつけられていなかったのかは調査中だが。このまま対策を講じずにいるのなら、稀血の香りに引き寄せられた悪鬼どもの餌食になり得るだろう」
 暁は淡々と事実だけを述べていた。
 これまでの話を素直に信じていいのか、深月はためらう。だが、帝都の軍人ともある人が一介の民に無意味な嘘をつくとも思えない。なにより昨晩の出来事を見たあとでは、納得せざるを得なかった。
「稀血について謎はまだ多いが、悪鬼、禾月のどちらにとってもその存在は魅力的に映るはずだ」
(だとすれば、わたしは本当に……また、襲われるかもしれない?)
 底が知れない畏怖に寒気がした。
 眼球の血管が浮き出た、あの恐ろしい形相が何度も去来する。
「このままでは一ノ宮家の方にもご迷惑がかかる、ということですか……?」
 まだ自覚はないけれど、深月は一ノ宮と祝言をあげた身である。ご厄介になる先に迷惑をかけるわけにはいかないと心配になった。
 そんな深月の発言に、暁は眉根を寄せていた。
「いま話すべきか、判断しかねていたが」
「……?」
「昨日の祝言に関して報告があがっている。一ノ宮現当主は、庵楽堂の店主に縁談のすべてを白紙にする旨を伝えたそうだ」
「白紙?」
 もともと今回の縁談は、当主不在の際に誠太郎が一ノ宮の名を使い取りつけたものだったらしい。誠太郎の甥にあたる当主は、昨晩帝都に戻ってその一連の流れを知り、今朝には白紙の報せを出したのだという。
当主も叔父の気随気ままな振る舞いには手を焼いていたらしく、今回の件で厳しい処遇を与えると決定したそうだ。
 普通は祝言が済んでしまった段階であるため、簡単に罷りとおるものではない。天子の遠い外戚という立場を盾にして無理にでも収められたのだろう。奉公先の主人として送り出した大旦那は、どう転んでも面目丸潰れだが。
(それなら、わたしは……)
 途方に暮れるとは、まさにこのような状況を当てはめて使うのだろう。
 縁談の白紙。だからといってそう都合よく庵楽堂に戻れるとも思えない。帰る場所をもたない深月が先の未来を想像したところで、待っているのは身動きがままならない行き止まりのような現実だけだった。
「そこで、提案だが――」
「すげーぞ、アキ! おまえの推測どおりだ!」
 暁の言葉を遮るように、扉が荒々しく開け放たれた。
(お、お医者さま?)
 ずかずかと大股で入ってきたのは、色とりどりの奇天烈な洋装をした医者である。少し癖のある黒髪をひと纏めに結び、黒茶色の瞳がはつらつと輝いていた。ほのかに垂れた目じりときりりとした短めの眉幅が印象的な青年で、年頃はいままさに眉間に皺を寄せた暁と同じ二十代半ばだろうか。
 西洋医学の知識が取り入れられる昨今、帝都の医者は洋装、または和洋折衷の服の上から白衣を着用する者が半数を占めていた。いきなり現れた白衣の青年も身なりは道を歩く医者に近しいが、いかんせん奇抜である。
「検査結果、大当たり。稀血だったぞ!」
 意気揚々と青年が声に出すと、暁は少しだけ目をすぼめた。
「話途中だ、静かにしろ」
「こんなときに静かにしていられるか。オレの滾る興奮を鎮めることは、いくら鬼の隊長と云われるおまえだろうと――」
「うるさい」
 暁はため息混じりに青年の頭部へ拳を下ろした。しかしそれは軽く小突く程度の強さで、ふたりの関係性が垣間見える。
「……って、おっと。もう目覚めていたんだな」
 呆然と成り行きを見ていた深月の視線を感じとり、青年は嬉々として近づいてきた。
「オレは不知火蘭士(しらぬいらんじ)、医者だ。あんたの腕に巻かれた手ぬぐいを拝借して、血液を調べさせてもらった。本当に稀血だったとはたまげたぜ」
 不知火の言葉に深月はすぐさま右腕を確認してみる。そこには祝言前に巻いていた布ではなく、代わりの包帯がしっかりと傷口を押さえていた。
童天丸(どうてんまる)から聞いたと言ってはいたが、オレに声は聞こえないから半信半疑だったんだ。ところがどっこい成分がはっきり合致ときた。これで騒がずにはいられないだろ! それで稀血ちゃん、さっそく色々聞きたいんだが――」
「やめろ、蘭士」
 不知火の首根っこを暁がずいと引っ張る。そのまま深月から離すと、現状説明をした。
「彼女に稀血だという自覚はなかった。それどころか禾月や悪鬼の名さえ知らない」
「自覚がなかったって……おいおい、そんなことあるのか?」
「そうなのだから仕方ない」
 暁が簡素な口ぶりに、不知火の視線が一瞬ちらりと深月のほうへ動いた。
「いや、それじゃあおまえ、いままでなにを話していたんだよ。てっきりオレはおまえの――」
「不知火」
 とたんに空気が張り詰めた。
 暁の一瞥によって不知火はすぐさま発言を止める。妙な雰囲気になり、それから暁は、気を取り直し、さきほどまでしていた会話の内容を大まかに話した。
「へえ、ふうん、そうか。なら、オレが言った童天丸がなんなのかもわかってないわけだ」
 あごに軽く添えた手を撫でるように動かし、不知火は把握した様子でうなずいている。
 童天丸と、またも聞いたことがない名前が出てきて、それは人の名前なのだろうかと深月は密かに考えていた。部屋に入ってきたときの発言といい、不知火も暁と同じで色々と理由を知っているようだが。
「その説明は必要なのか?」
「そりゃあ、このあとの流れをを考えれば、おまえがどれだけ優れて頼りになる人間かをひっくるめて詳しく教えるべきだろ。なあ、稀血のお嬢ちゃん、そっちのほうが判断材料になるだろ?」
 同意を求められたが、深月は言葉に詰まってしまった。明かされる情報量が多すぎて、暁については気が回らなかったのである。
 そもそも判断材料とは、具体的になにに対しての材料なのだろう。
「こいつが隊長をやっている特命部隊ってのは、警吏と連帯を取りながら帝都治安維持に励む部隊だが、これはあくまで表向きのもんだ。本来は帝都民を襲う禾月の捕縛、悪鬼討伐が主たる任務ってところだな」
 先刻、暁によって存在を教えられた禾月と、悪鬼の名前。
 これらと日夜、戦い対処しているのが特命部隊。そして隊員は生身の肉体で互角に戦うための戦闘具として、必ずあるものが付与される。
 それが、あやかしを妖界から降ろし宿らせた『妖刀』という刀剣であると、不知火は饒舌に語った。
 そして隊長の暁は上位種の鬼、童天丸を宿らせた逸材であり、歴代最強とうたわれる妖刀の使い手として、鬼使いの異名まである人物だったのだ。
(……空想のような話ばかりだわ)
 けれども、これでやっと深月は腑に落ちる。
 出会い頭に暁が刃先を向けてきた理由、問いかけた言葉。
 あれは、刀に宿した鬼のあやかし・童天丸が、深月が稀血だと気づいて伝えたからなのだろう。刀に宿したあやかしと意思疎通が可能というのもなかなかに信じがたい話だけれど。
(もう、なにがなんだか……)
 どこから受け入れたらいいのだろう。自分が稀血という特殊な存在で、命を狙われる可能性がある、だなんて。
 理解して受け入れたとして、その先は?
 こんなこと、自分ひとりの手には負えない問題だとわかりきっている。
(本当に、なんて情けないの……)
 退路を絶たれた気分になる。困惑してばかりで、ひとつも意思ある声が出せない。悶々とすればするだけ、深月の視線は床に落ちていった。
「……蘭士、外に出ろ」
 深月を横目にした暁が、不知火に告げる。
「は? 急になに言って」
「もともと話していたところにおまえが入ってきたんだろう。こっちはまだ彼女に伝えたいことがあるんだ」
「それならオレがいたところでなんの問題もないだろ」
 依然として動かない不知火だったが、そんな彼を暁は問答無用で扉へと押しやった。
「さきに執務室で待っていろ」
「押すな押すな! せめて人の言葉は最後まで――」
ぱたんと扉が閉められる。同時に革靴の足音が響き、深月のすぐ近くで止まった。
「一つ、提案がある」
 見上げると、思いのほか暁との間合いが縮まっていて驚いた。しなやかな腕が体のすぐ横をすり抜け、椅子の背もたれに置かれる。さらに距離は近くなった。
しばたく深月に、暁は言った。
「契約をしないか」
「契、約?」
「このまま君を野放しにすれば、民の安寧を脅かしかねない。そして、君の身も」
命の危険が纏わりつき、周りの人を巻き込むかもしれない。深月にとっても不本意で、できるのなら避けたい。
「人として、むやみな混乱を望まないというなら……」
 一流芸者もうっとりしそうな、凛々しい花の(かんばせ)に垂れた前髪。そこから覗く淡い月色の瞳には、一点の曇も迷いもない。
「君は、俺のそばにいるべきだ」
 そして告げられた提案に、深月は耳を疑った。
「花嫁として、ここに」
「花嫁……?」
(どうして、そんな話になるの?)
 そう思うも選択の余地はなかった。
 稀血、禾月、悪鬼。なにひとつ深月は知らなかった。だから、なにか考えがある彼から差し出された手を取ることが、唯一いまの深月にできる最善だったのだ。
(花嫁、契約の花嫁)
 言い聞かせるように、何度も胸のうちで噛みしめる。
「衣食住についても保証する。安全保護も同様に」
「……はい」
 まるで他人事のような返事をしてしまった。
 深月にそんな意図はなかった。ただ、それ以外を咄嗟に口にできなかった。
「それでも、滅多なことは考えないでくれ。たとえいままでなにも知らなかったとはいえ、君が稀血であることには変わらない。逃亡、反逆の意思があればこの刀で斬る。だが……」
 腰の妖刀に手を添えたまま、暁は断言した。
「俺がそばにいる以上、君に傷はつけさせない」
状況は違う、でもけっきょくは同じだ。もとから自分に選択の意思などゆだねられてはいない。
「……どうか、よろしくお願いします」
 心はどこかに置き去りのまま深月はうなずき、そして深々と頭をさげる。
 着物の袖がふわりと揺れた。
 なんとも皮肉な、自由に飛び交う鶴の模様。

 なにもないわたしが、特別ななにかに変わる日は、くるのだろうか。
 そんな日が、いつか――。