「私がどれほどおまえに目をかけてやったかわかっているな? 肩代わりした借金もこれで帳消しにしてやる。いいか、この縁談を受けるんだ」
 深月が奉公先の大旦那から命じられたのは、いまだ厳しい冷気が漂う小寒のことだった――。

 ここは多くの文明・文化が入り乱れる天下の大帝都。
 深月が奉公女中として身を置く東区画の『庵楽堂(あんらくどう)』は、揚げ饅頭が売りの老舗和菓子屋である。
 何代か前には宮廷に菓子を献上し、名誉称号を賜るまでになった商家だ。
 誰もが納得の栄誉ある名店。それを継ぐ今代の庵楽堂の大旦那には、大切な愛娘の麗子(れいこ)がいる。
 彼女は贅沢三昧させる両親や、おべっかを使う店の者たちから蝶よ花よと大切に育てられたせいか、超がつくほどのわがまま娘だった。
「信じられない、この愚図!」
 左頬に集まる熱。
 遅れて深月は、自分が平手打ちをくらったことに気づいた。
 目の前には、こちらをきつく睨みつけた麗子が立っている。
「あんたの汚したこの着物、どれだけの価値があると思っているのよ! あんたの給金を一年まとめて出したところで買えない代物なのよ!?」
「……申し訳ありませんでした」
 また、と思いながら深月は頭をさげる。たとえ、心あたりがまったくなかったとしても。
 今回は、麗子お気に入りの牡丹の着物についたシミが原因だった。それを深月の失態だとして、麗子の罵倒を浴びているのだ。
(……どうりで、あの反応だったのね)
 さきほど廊下ですれ違った若い女中の顔を思い出す。
 麗子の側仕え。確か彼女は昼間に着物の整理をしていたはず。
 深月が麗子の私物に触れるのはもちろん許可されていないのだが、なにか理由をつけて深月に自分の失敗をなすりつけたのだろう。
「ああ、助かったわ。正直に話したら、麗子さまに大目玉をくらうところだったもの」
「あの子がいると矛先がこっちに向かなくて済むものね」
「でも、さすがに深月の仕業じゃないって麗子さまも気がつかない?」
「事実なんてどうでもいいのよ。麗子さまはただ深月に難くせをつけたいだけだもの。だってあの子、嫌われているから」
 ひそひそと、遠巻きに様子を見ている女中たちの声がする。
 人より少し耳がいいのも困りものだ。いつも余計な言葉を拾ってしまうから。
(もう、何度目だろう)
 ほかの女中が保身に走って責任転嫁するのは、いまに始まったことじゃない。でも、さすがに気が滅入ってくる。深月の心に鬱蒼とした影が落ちた。
 けれど、ひとまずは麗子に怒りを鎮めてもらうのが最優先だ。
 そう考え、低くした頭をほんの少し傾ける。
(あっ)
 様子を窺おうとしたところで麗子と目が合う。
 いけない、と思ったときには遅かった。
「あんたのその顔、その目つき……いつ見ても本当に腹が立つわね!」
 次は右頬に痛みが走った。
 あまりにも理不尽な仕打ちだ。それでも、雇い主の娘である麗子に反抗は許されない。
(麗子さま、いつもより一段と機嫌が悪い。おそらく今日は、折檻部屋行きだわ)
 あとの処遇を想像し、早くもこれまでに与えられた痛みが幻痛となって蘇ってきそうになる。
(……この生活にも、いつのまにか慣れてしまった)
 深月が庵楽堂で女中奉公をするようになったのは、十四の年の頃だった。
 同じ年の麗子とは五年の付き合いになるが、最初から深月を嫌っていたように思う。
 麗子は身分上、華族ではない。けれど実家の庵楽堂が残した功績により、幼い頃から上級富裕層の扱いを受けてきた。女学校でも注目され、最近では欧化政策の一環として華族が主催する夜会にも招待されるほど。
 さらにその容貌は、巷でも一等美人と評判の器量良しである。
 その恵まれた生まれは麗子の自尊心を育てるには十分だった。
 だからこそ、もっとも相容れない自分の存在が気に入らないのかもしれない。立場を誇示していたいのかもしれない。
 それ以外の理由があったとしても、深月には理解できるはずもなかった。

 それから数日後。大旦那に呼び出された深月が母屋に向かったのは、すっかり日が傾いた時間帯だった。
「失礼します、大旦那さま」
「入れ」
 襖を開けると、畳の香りが鼻につく。
 すぐに下座に移動し三つ指をついて礼をとる深月に、大旦那は前置きもなく告げた。
「おまえに縁談を用意した。相手は一ノ宮(いちのみや)家、天子の遠い外戚筋の人間だ」
(……え?)
 鈍色の瞳が動揺に揺れる。
 一瞬、言われた意味がわからなかった。丸めたままの背中が、先日の折檻のせいでじくりと疼く。
 どくり、どくり。
 痛みと耳鳴りに混じって鼓動の音がいやに響いた。
「わたしに、縁談……ですか?」
「もとは麗子にきていたものだがな。先方にはすでに代わりのおまえを行かせると話しを通してある」
 麗子の縁談をどうして自分が? 女中奉公の身であるのに? 大旦那は本気で言っているのだろうか。
 まだうまく状況についていけない深月の頭には、疑問ばかりが募った。
 深月の年齢は、十九歳。
 多少行き遅れの部類だけれど、近年、国は適齢期に寛容になりつつある。
 深月も結婚など遠い先の話しだと考えており、そもそも自分が誰かと夫婦になれるのか疑問すら抱いていた。
 いちばんの理由は、亡き養父が背負っていた借金にある。
 養父とは深月が十四の頃に死別したが、その際に大旦那から養父が金貸しと繋がりがあったことを教えられた。
 深月に返せるわけもなく困り果てていたとき、借金の肩代わりを申し出たのがほかでもない大旦那だった。
 そういった恩と経緯があり、身寄りのない深月は養父と暮らしていた借家を離れ、庵楽堂の奉公人として居候する羽目になったのである。
 それからというもの毎月の給金は大旦那に渡し、深月は肩代わりをしてもらった借金の返済だけに年月を費やした。
 だからこそ、こんな自分が婚姻を結べるはずがない。
 これといった取り柄もなく、麗子のように他者を惹きつける器量もない。
 灰色がかった黒髪は一見すると老婆のようで、手櫛だけで整えているので艶もない。顔つきも麗子にはよく『無意識に他人を不快にする顔』と嫌味を言われている。
 そもそも、借金という問題が深月の人生の根底にある以上、誰かと一緒になるのは難しい話だったのだ。
(……なのに、縁談だなんて)
 言葉にできない深月の心情などお構いなしなのか、大旦那はさらに続けた。
「おまえにとっても悪い話じゃないだろう。本来の身元も不確かな娘が、本妻でなくても一ノ宮家の者になれるんだ」
「……本妻では、ない? その方は、すでに奥方を娶られているのですか?」
 縁談を受け入れているわけではない。けれど、さすがに聞き捨てならなかった。
「ああ、伝え忘れていたか。おまえの縁談相手は、一ノ宮誠太郎(せいたろう)。一ノ宮現当主の叔父にあたる方だ」
(その人って……)
 縁談相手の名には、悪い意味で聞き覚えがある。東区画では色々と有名な人だ。
 一ノ宮誠太郎は、一ノ宮前当主の次男。繁華街の料亭では毎度芸者に手を出し、すでに妾を幾人も囲い込んでいる女好きで名が通っている。
「さて、これで話は終わりだ。早く下がれ」
 大旦那はさっさと出ていけと手で払う仕草をする。
 深月は唖然とするしかなかった。
 縁談話を告げられて、相手を教えられ、それでもう終わりなのか。
「お待ちください大旦那さま。わたしには、まだ借金が……っ」
「深月、なにを勘違いしているんだ」
 間髪入れず面倒な表情をした大旦那は、深月の声を遮る。
 そしてさも当然のように言った。
「もとからおまえの意見は聞いていない。ここに呼んだのは、決定を伝えるためだ。肩代わりした借金もこれで帳消しにしてやる」
「……っ」
「いいか、この縁談を受けるんだ」
 徐々に力が抜けていく。
 どうして意見を言えると思ったのだろう。答えはもう、決まっているのに。
「……かしこまりました」
 もとより選択の意思などゆだねられていないと、深月は十分にわかっていた。

 話が終わり、深月は私室として使用する物置小屋に戻ってきた。
(縁談……)
 深月は閉めた戸に背を向けその場にずるずると座り込む。
 膝を抱えると、薄い小袖のすれる音がやけに響いて聞こえた。
(わたしが、麗子さまの代わりに?)
 もとはこの縁談、麗子にきたものだったという。しかし誠太郎の評判を知っていた麗子がうなずくはずもなかった。
(それでここ最近、あんなに機嫌が悪かったんだ)
 相手は華族で、公侯伯子男の五爵位のうち第二位を賜る旧国主。尊い血族と縁のある、侯爵家だ。
 いくら庵楽堂が宮廷と面識があり実績と権力を握っていても、さすがに相手が悪かった。だから失っても構わない同じ年頃の深月を差し出そうと考えたのだろう。
(……麗子さまの代わりに、なれるはずもないのに)
 どんな理不尽な叱りを受けようと、寝る間も惜しんで働き詰めの日々になろうとも、大旦那には大きな恩がある。
 借金返済のため、つらい折檻にも耐えられた。
 麗子に便乗して仕事を押しつける女中たちにも耐えられた。
 不自由な暮らしも、空腹にだって耐えられた。
 耐えるばかりだったそれらは、いつの間にか深月のあたり前になっていった。
 全部、全部、受け入れられた。けれど。
「…………」
 深月は重いため息を落とし、虫籠窓から暗い夜空を見つめる。
 いまの心情を映し出す鏡のように、今宵は月のない曇天だ。
 蝋燭一つない四畳半ほどの場所が、この瞬間だけは牢獄のように感じてならない。
「……いや。縁談なんて、いや」
 明かりのない空間に、消え入りそうな声が何度も響いた。
「いやだ……いや、なのに」
 誰にも言えないからこそ、繰り返しつぶやくことしかできなかった。
 合間に、深月はいつもの癖で右手首の組紐に触れる。
 それは養父から授かり、唯一深月の手もとに残ったもの。硝子石が嵌め込まれた組紐は、こうして触れるたびに深月の精神を安定させてくれた。
 動揺や不安、恐怖や苦しみ。そういった負の感情が、組紐に触ると消えるような気がして。
 最初から逃げ場などないこの状況に、本心を覆い隠すよう縋り続ける。
 本当に効果があるのか定かではないものの、次第に渦巻いていた葛藤がゆっくりと薄れていく感覚があった。
(……本当に、わたしにはなにもない)
 深月はもともと孤児だった。実の両親は赤子の深月を置いてどこかへ行ってしまったらしい。
 そんな深月を引き取ったのが、血の繋がらない養父である。けれど身の回りのことを自分でできるようになってからは、一緒にいる機会も減っていった。
 それでも、多くて週に二、三回。少なくても週に一度は物資を届けるため深月に会いに来てくれた。
 だが、ある日突然、養父は見るにも無惨な傷だらけの状態で帰ってきた。
 最期の言葉もろくに交わせないまま、養父は深月に看取られ命を落とした。彼がどんな仕事に就いていたのか、いまとなってはわからない。
(……いつも、こうだわ)
 顔も知らない、思い出の一つもない親に捨てられた。
 自分を育ててくれた人と死に別れ、嘆く暇もなく庵楽堂のご厄介になり。転々と生きる深月には、本当の居場所というものがなかった。
 自分にはなにもない。ないからこそ、養父の借金を返すという名目が深月の生きる意義だった。
 でも、それがなくなるのなら、深月に残るものはない。
 なにもない人生ほど虚しい生きざまはないと思う。もはやそれは、人の本質すら見失いかねないから。
(これから先、わたしは……どう、なるんだろう)
 縁談を受け入れ、借金返済から解放され、妾だらけの男に嫁いだとして。
 深月はいつも、考えていた。なにもない自分が、特別ななにかに変わる日はくるのだろうか、と。
 決して贅沢は望まない。
 ただ、明日も生きていきたいと思えるだけの〝なにか〟にめぐり逢える日がくるのだとしたら。いつか、どうか自分のところへきてほしい。
 叶いもしないとわかりきった、出過ぎた願いだとしても。