怪我をした三毛の子猫は、深月にやすらぎを与えてくれた。
世話をするようになって数日で傷は塞がり、用意されたエサもぺろりと平らげる元気いっぱいの女の子だった。
「その子のお世話をするようになって、前よりも表情が明るくなりましたわねぇ」
朝、深月の髪を梳かしていた朋代が嬉しそうに言った。
「みゃあ〜」
深月が応えるよりも先に、膝の上に座る子猫が返事をする。
この人懐っこい子猫はまたたく間に特命部隊内に知れ渡り、深月だけではなく日頃の訓練にへとへとな隊員たちの癒やしにもなっていた。
あくまで部隊内なので自由に遊ばせてあげることはできないが、子猫は深月と一緒にいるのを喜んでいるようだった。
「名前はお決めにならないのですか?」
「不知火さんが連れてきた子なので、わたしがつけるわけには……」
「あら、ではもうしばらくは『猫ちゃん』と呼ばなければいけませんね」
「にゃ」
またしても子猫が返事をする。
そんな子猫を見ている深月の口もとには、自然な笑みができあがっていた。
(この子、いい飼い主が見つかるといいけれど……)
ずっと特命部隊で飼うわけにはいかないだろうし、不知火が戻れば引き渡す手はずになっている。それを想像すると寂しくなるが、自分のもとにいるうちは精一杯お世話したい。
「でも、おかしいですね。人好きで自分から寄っていくのに、羽鳥さんにだけは毛を逆立てるだなんて」
「本当に、どうしてでしょう」
「羽鳥さんは生粋の猫好きなのですが……まあ、相性の善し悪しはありますものね」
「にゃ〜」
わかっているのかいないのか、子猫は無邪気に鳴くのだった。
昼食後、暁は席をはずしており、深月は子猫と静かにたわむれていた。
「猫ちゃん、すっかり元気になったね」
「みゃあ」
これまで動物の近くで過ごした経験はなかったけれど、今回の件でがらりと印象が変わった。こんなに可愛くてふわふわした生き物に好感を抱かないわけがない。深月はすっかり子猫の虜になっていた。
そして思っていたより頭がいい。人の表情を読み取り、話し声に耳をすませて、なにかしらの反応をいつも返してくれるのだ。
こんなにも無垢な生き物だからこそ、深月は不思議だった。
「猫ちゃん、どうして羽鳥さまには威嚇するの?」
「にゃ」
「暁さまのことは大好きみたいなのに」
深月の質問に、子猫はぷいっと顔をそらしてしまう。
あからさまな反応すら可愛らしくて笑みがこぼれる。
「でも、あなたが引っかこうとすると、羽鳥さまはすごく寂しそうにしていてね」
「みゃあ?」
「きっと悪い人ではないと思うの。あなたにも意地悪はしていないでしょう? だから、そんなに怖がらないで」
深月のほうを見上げた子猫の頭を、指で優しく撫でる。
子猫は気持ちよさそうに目を細め、深月は眉を下げてつぶやいた。
「なにもしていないはずなのに嫌われるのは、つらくて、悲しいから……」
それは子猫を諭した言葉なのか、それとも深月の本心だったのかと言えば、おそらく両方だった。
「待たせた」
深月が口を閉ざした直後、席をはずしていた暁が戻ってくる。背後には羽鳥の姿もあった。
「あ、お、おかえりなさいませ」
深月は平静を装いながらふたりを出迎えた。
(よ、よかった。聞かれてはいなかったみたい……)
彼らの表情を確かめ、普段と変わらない様子から聞かれていないだろうと安堵する。
羽鳥の敵意の目に、いままでになかった後ろめたさが孕んでいたことにも、深月は気づかなかった。
夜。眠っていた深月が目を覚ますと、部屋に子猫の姿はなかった。
(猫ちゃん……?)
朋代が用意してくれた木箱にも、寝台の足もとにもいない。
素早く視線をさまよわせ、扉に隙間ができているのが見えると、深月は寝台から飛び起きた。
(どこにいるの?)
冷たい床に素足を投げ出し、寝台横の洋燈をつけて部屋の中をもう一度念入りに確かめる。それでも子猫の姿は見つからない。
焦りに顔をゆがめたとき、格子窓の先から猫同士の威嚇する鳴き声が耳をかすめた。
(やっぱり、外に……っ)
猫同士で喧嘩をしているのだろうか。せっかく傷も治りかかっているというのに。
また新たに怪我を作ってしまう前に連れ戻したいところだが……。
いくら敷地内の行動範囲が広くなったとはいえ、夜中に無断で部屋の外に出るのは許されていない。
そう考えている瞬間にも鳴き声は届いてくる。
このまま放っておくことはできない。
「……っ」
扉を引くと、足もとを冷気が吹き抜ける。抗うように足を前に動かした深月は、薄い夜着のまま部屋を飛び出した。
二月下旬の真夜中は、肌を刺す冷気に包まれていた。
夢中になって板の間を駆け抜け、階段を降りて一階にたどり着く。近くのサンルームの施錠をはずし、深月は置かれた外履きを借りて別邸の外までやってきた。
外気に触れたとたん、肌がぶるりと粟立つ。口から出た白い吐息を視界の端に捉えながら、辺りを見渡した。
(あっちのほうから聞こえる)
北風に運ばれて、ほんのわずかに猫の声がする。
いまだに激しい威嚇が含まれた鳴き声なので、子猫のものか、はたまた別の猫のものかまでは判断が難しい。けれどその鳴き声を頼りに、深月は本邸に繋がる舗装路を進んだ。
やがて舗装路にぼんやりとした明かりが転がっているのが見えた。
曇った夜空が作り出す暗闇に、それは導のように輝いている。
深月はその場で一度動きを止め、目を凝らした。
(よかった、いた……っ)
道に転がる明かりの正体は、隊員たちが使用するカンテラだった。そのすぐ横で寄り添うように身をかがめた子猫の姿を発見し、ほっと胸を撫でおろす。
深月は子猫のもとに駆け寄るが、その様子に首をかしげた。
「猫ちゃん……?」
部屋からは猫同士の鳴き声が聞こえていたが、この場には子猫しかおらず、見る限り外傷もなさそうだった。
ただ、ひどく怯えている。深月がそばにいることにも気づいていないようで、小さくうなり続けていた。
「外、寒かったでしょう。おいで」
安心させるように声をかけながら、子猫に手を伸ばす。
しかし、子猫は「シャーッ」と錯乱して深月の手に爪を立てた。
(……痛っ。ここでいったい、なにがあったの?)
ほかの猫と喧嘩をして、その興奮が冷めきっていないだけならわかる。けれども、子猫は興奮していると言うには収まりきらないほど、なにかが妙だった。
「なんだぁ? この匂いは」
ぞわりと、背筋に激しい悪寒が走る。声は深月のすぐ後ろからしていた。
(え……)
振り向くと、そこには見覚えのない着流し姿の男が立っていた。それからすぐ飛び込んできた異様な光景に、深月は瞠目する。
涼しい顔をした男の片手が掴んでいるのは、負傷した隊員だった。
(この人、暁さまに稽古をつけてもらっていた……)
見覚えのある隊員と、かたやまったく知らない男。
近づかれた気配どころか、音すらしなかったはずだ。なのに、その男は隊員の襟を後ろから鷲掴み、地面を引きずるようにして引っ張り上げている。
そんな状態でなにも聞こえなかっただなんて、おかしな話だった。
「その人……どう、して……?」
凍える寒さと恐怖が混じり合ってうまく声が出せない。それでもやっとの思いで絞り出した問いに、男は嘲笑った。
「ああ、こいつ? どうしてって、どうもしねーよ」
「あああああっ!!」
隊員の叫びにさっと血の気が引いていく。
あろうことかこの男は、反対の手に握っていた妖刀の先を、隊員の背中に突き刺したのである。
「や、やめ……っ」
「腹が立つだろ。脆弱な人間が一丁前に妖刀振り回して図に乗ってるんだぞ。まあ妖刀使ってもこのザマだけどなぁ!!」
この感じを深月は知っている。
強烈なまがまがしさの中に不気味さを含んだ、狂気そのもののような空気感。悪鬼に取り憑かれた誠太郎のときと似ていた。
けれど、決定的な違いがあった。
「それより、おまえはなんだ?」
興味のまなざしが深月を捉える。男には、誠太郎にはいっさいなかった会話をする意思と理性があったのだ。
(も、もしかして、この人……)
ふたたび子猫が威嚇の鳴き声をあげる。深月ではなく、目の前の男に。
「ここの女中か? ちょうどいい、女の血のほうが飲みたいところだったんだ。いや、待てよ」
男はすんと鼻を嗅ぐ。それからカンテラの淡い灯りに照らされた深月の手を一瞥し、にひるに笑みを浮かべた。
「この匂い……くっ、ははは!! まさかこんなところでお目にかかれるとは、今日はついてる!」
男は軽々と隊員を放り投げ、妖刀を手にして一歩前に出る。
風が吹き、ふいに深月の周囲に淡い光が注がれた。
ふたでかぶせたように空を覆っていた雲が、隠れた月の姿をゆっくり暴いていく。
今夜は、まぶしい偃月だった。
「おまえ、稀血だなぁ?」
そう言いながら、男は妖刀に付着した血を舌で舐める。
理性はありながらも高揚感を隠しきれずに呼吸は荒くなり、肩が上下に動く。血走った瞳が、妖光をたたえて不気味に細まった。
(悪鬼じゃない、この人は――)
「その血、よこせ!」
反応する間もなかった。一瞬にして深月との距離を縮めた男は、深月の腕を狙うように妖刀で斬り込み……。
「……ぁっ」
深月の夜着に薄い切れ目が入った瞬間、刀同士の交わる音が鳴り、妖刀は地面に払い落とされていた。
ハッと顔を上げると、そこには暁の姿があった。
男の前に立ち塞がった暁は、すんでのところで妖刀を落とし深月を助けたのである。
「ち、妖刀使いが!」
「あ、暁さ……っ」
言いかけた深月の声が中途半端に途切れる。
足もとに転がった妖刀、そして自分が履く外履きに、ぽたぽたと血がしたたっていた。それが暁の負傷によるものだとわかり深月の顔は青ざめた。
なにも動きが見えなかった。けれど、男はいつの間にか妖刀の代わりに短刀を携えていた。その短刀が暁の首筋から肩口にかけて怪我を負わせたのである。
しかし、負傷したにもかかわらず、暁は衰えのない機敏な動きを見せて男を拘束する。
「くそっ、離せ! 人間の分際で――ぐああ!!」
地面に突っ伏した男の肩を暁が童天丸で突くと、抵抗していた男は眠るように気を失った。
騒動から一変、辺りはしいんと静まり返る。
暁は童天丸を納刀すると、舗装路のわきに飛ばされた隊員の安否を確認した。そして座り込んでいた深月のもとまで歩いてきてじっと姿を見下ろす。
「暁さま、怪我が……」
「それより、これで傷を」
立ち上がろうとする深月を制して暁が差し出してきたのは手ぬぐいだった。
深月の手の甲にある一本の引っかき傷。少し前に子猫にやられたものだ。
「は、はい」
手ぬぐいを受け取った深月は、かじかんだ指先に力を込めた。
なんとか手ぬぐいを巻いていれば、暁は自分の外套を深月の肩にかける。彼の温度の名残を感じて、ようやく手に血が通い始めた。
「少し汚れているが、部屋に戻るまでの辛抱だ」
「そんな……わたしが部屋を出たから怪我を」
暁は片膝をつくと、おとなしやかに言葉を重ねる。
「傷は、その引っかき傷だけか」
「……だけ、です。猫ちゃんを怖がらせてしまって、それで」
「あの男には、なにもされていないか」
「されていない、です」
駆けつけてくれた暁もわかっているはずだ。それでもあえて確認するのは、気が動転した深月の返答をあおぐことで呼吸を整えてくれたのだろう。
「君が無事でよかった」
情け深い声音に深月は唇を噛みしめた。
自分が部屋を出たから彼は怪我をしてしまったのに。咎める発言はいっさいせず、深月を心配し、安堵している。軍人とは、皆こんな人ばかりなのだろうか。
「……っ」
「暁さま……? 大丈夫ですか、暁さまっ」
暁の上体がわずかに傾き、深月はとっさに支えた。
距離が近くなると、いままで抑えていたであろう苦しげな吐息が耳にかかる。
「朱凰隊長!!」
ふたりのもとに遅れて羽鳥が到着した。そのすぐ後ろには本部にいるはずの不知火の姿があった。
「これは、そこの禾月に斬られたんだな?」
「俺よりも……先に、向こうにいる隊員を……」
「ああ、ちゃんと処置する。だがおまえの出血量も相当だぞ」
首から肩にかけてある傷はかなり深く、不知火の止血も追いつかない状態だった。
「不知火さん。こちらは刺し傷ひとつ、多くあるのは擦り傷と打撲痕です」
羽鳥はもうひとりの隊員の状態を口頭で知らせ、不知火の指示に従い処置を始める。
その後、暁の処置の続きは室内に移動してからおこなわれることになった。
羽鳥は負傷した隊員を、不知火は暁を抱えて近場の別邸に急ぐ。
「稀血ちゃん、ここを逃げ出すつもりがないなら、その治療箱を持ってきてくれないか」
「は、はい……」
両手が塞がった不知火に言われ、深月は強くうなずいた。
夜中に無断で部屋を出て、あげくには暁に怪我を負わせてしまった。この状況で現場にいた深月の逃亡を疑うのは当然の考えである。
ここまでの経緯や弁明はあとでいい。いまはいち早く治療するのが最優先だ。
深月は治療箱とカンテラ、すっかり警戒をといておとなしくなっていた子猫を抱える。それから足を止め、後ろを振り返った。
「そこにいる禾月は心配いりません。妖刀の力でしばらく意識は戻りませんから。本邸の隊員もそろそろ到着するのであとは彼らに任せます」
羽鳥の説明が飛んできて、深月は切り替えるようにかぶりを振った。
足取りがひどく重い。行きと違って随分と明るくなった道を進みながら、深月はいま起こったことを思い返す。
(あれが、禾月……)
見た瞬間から悪鬼とは違った空気を感じていた。
その理由は、男が禾月だからだった。
人と同じ姿、意思疎通も可能な知能、血に対する高揚と執着。それはまさしく、人ならざるもの。
「みゃあ〜」
深月の腕に収まった子猫が鳴き声をあげた。まるで外に出てしまった自分のおこないを悔いて謝罪するかのように、深月の胸にすり寄ってくる。
温かいのに、寒い。子猫の温度も、暁がかけてくれた外套も冷えた体を包み温めてくれているのに、どんどん芯が凍っていく。
自分が稀血と呼ばれる要因、自分の体の半分を占めるもの。
なかった実感がようやく深月のもとへ降りてくる。
人を傷つけ、血を前にして、笑いながら殺生もいとわない禾月の姿。
そうなる可能性が深月にはある。化け物だと言われる厄介な特性が出るかもしれない。
だからずっと、暁の花嫁候補を装ってまで特命部隊にいるのだ。
わかってはいたはずなのに、地面に射す偃月の輝きが背中に当たって妙に落ち着かない。動揺から喉の奥が干上がっていくのがわかる。
「……わたし」
深月はたまらなく、自分が怖くなった。
次の日、聴取は羽鳥によっておこなわれた。
ありのままの経緯を話す深月に、彼は堅苦しい表情を浮かべながら意外にも理解してくれた。
本気で逃げる気があったのなら暁を置いてさっさと敷地を出ていただろうし、禾月に斬られそうになったというのも、皮肉にも信じるに値するものになったのかもしれない。
あの着流しの男は特命部隊が拘束した禾月であり、本邸の留置場へ連行する際に隊員が誤って逃してしまったそうだ。
深月の体感では億劫になるほど長かったあの瞬間も、実際は禾月の男が現れて助けられるまでほんの数分しか経っていなかった。だからこそ、深月の動向を察知した暁がどれだけ早く駆けつけてくれたのかがわかる。
羽鳥が言うには、暁はまだ予断を許さない状態だという。
斬られた傷だけならまだ違ったのだろうが、禾月の男が仕込んでいた短刀には毒が塗られていた。それが傷口から侵入してしまい回復を妨げているのである。
「わたしの、せいです……本当に申し訳ありません」
「やめてください。原因がなんであれ僕に頭を下げるのはお門違いです」
慰めはしないが批難を向ける様子もなく、羽鳥は素っ気なく深月から視線をそらした。そしりを受けるのも覚悟していたのに、むしろいつもより彼は冷静だった。
「……あの、暁さまにお会いすることは、できますか」
「会ったところで話せる状態ではないかと」
「そう、なのですが……」
もっともな返答に深月はうつむいて押し黙る。
いま感情的になっているのは深月のほうだった。
自分のせいで誰かが大怪我をし、想像を絶する苦しみに耐えている。そんな状態でなにか役に立てることがあるとは思っていない。でも、ただひと目だけでも会いたい。
いつまでも消えない罪悪感が、差し出がましい頼みを口にしてしまった。
(……会わせてもらえるわけ、ない)
そう思いながら手首をぎゅっと握り込む。つけ直した組紐の感触が、深月の背を押してくれた気がした。
「どうか、お願いします」
羽鳥を見据えれば、彼はわずかに動揺を示した。
「いいじゃねーか、羽鳥。見舞いぐらい行かせてやれよ」
そのとき、部屋に不知火が入ってきた。
「……不知火さん、声かけもなく勝手に入らないでください」
羽鳥は会話を盗み聞いていた彼を横目で軽く睨んだ。
それをまったく意に介さず、不知火はふたたび口を開く。
「まあまあ。久しぶりだな、稀血ちゃん。その猫、あんたが世話してくれていたって聞いたぜ。なら、今回は俺にも責任がある。逃げ出したそいつを、あんたは探しに出てくれたんだ。つーわけで、ほら、アキの部屋に行くぞ」
「ちょ、不知火さん!」
不知火の援護もあり、深月は見舞いに行かせてもらえることになったのだった。
深月の部屋を出るとすぐ目の前には吹き抜けの階段がある。
暁の部屋があるのは、その吹き抜け階段の向こう側。手すりに沿ってぐるりと回った場所にあった。
(気づかなかった。ここが暁さまのお部屋だったのね……)
なにか問題が起きたときを考慮し、部屋が近いに越したことはなかったのだろうけれど。こんなに近い位置にあったとは知らず深月は密かに驚愕していた。
「アキ、入るぞ。つってもいまは聞こえないか……」
まずは先頭の不知火が声をかけながら扉を開け、そのあとを深月が続くようにして入る。深月の後ろには監視役の羽鳥もいた。暁が床に伏せているうちは、彼がお目付け役となっているのだ。
「……失礼します」
部屋の造りは深月が借りている一室とそこまで大差なかった。
深みのある色で統一された調度品の数々、寄木細工の床や大きな格子窓など。見慣れた洋室だが、置かれた私物でそこはかとなく和の空気が融合した空間になっている。客室用ではなく無駄なものを取り除いた簡素さと、きちんと整理が行き届いているのがなんだか彼らしくもあった。
(暁さま……)
彼が眠る寝台まで促された深月は、その姿を目にして胸が締めつけられる。
寝巻き姿で横たわる暁は、荒い呼吸を繰り返し苦悶の表情を浮かべていた。
額や頬ににじんだ汗、大量の出血で青くなった肌の色だけでも、怪我の程度がどれほどなのかわかる。
「……ごめんなさい」
心もとなくつぶやかれた声が届くことはない。羽鳥から聞いていたとおり、深くやられた短刀の傷と合わせて毒の効果がさらなる激痛を誘発させているようだった。
不知火ができる範囲の解毒を済ませてくれたので、あとは暁の気力と体力を信じるしかないようだが、この苦しむさまを前に不安な想像ばかりしてしまう。
『稀血の子か』
突然、ふわふわした音域の声がして、深月は弾かれたように視線を斜め前に動かした。そこには鞘に納まった刀――童天丸が壁に立てかけるようにして置いてある。
『人の世で生きながらえている稀血とは、何度見ても希少な』
「え、え……?」
話しかける声がしているのは、間違いなく童天丸からだった。
驚いて言葉を忘れていると、その声はよりはっきりと愉快そうに響く。
『禾月混じりのくせに本気で驚いてるぜ』
「あ、あなたは……どうして、話せて……?」
おそるおそると口を開いた。
そんな深月の様子を、少し後ろに立っていた不知火と羽鳥が奇妙な面持ちで見つめている。どうやらふたりには童天丸の声が届いていないようだった。
『なにを言ってやがんだ。いつもはこいつのせいで勝手ができないが、俺様はしゃべるのが大好きなんだぞ。それにおまえとも話してみたいと思っていたところだ。都合よくこいつがしくじったおかげで、いま自由にしゃべれるってわけだな』
刀に表情はない。けれど、童天丸が楽しそうなのは声の調子で丸わかりだった。
少し乱暴な口調で、主である暁がこんな状態でも我関せずとしている。
「稀血ちゃん、どうかしたのか?」
尋ねた不知火の視線が深月と童天丸のあいだを交互に動く。本当にこの声は自分にしか聞こえていないのだろう。
「……あの、暁さまの刀から、声がしていて」
「童天丸が? いま話してるってのか!?」
「そう、みたいです」
深月は曖昧にうなずき、再度童天丸を見た。
『こいつもまだまだ未熟だよなぁ。おまえを間一髪で助けたはいいけどよ、足もとの獣に気を取られ立ち位置を変えたくらいで遅れをとるとは。俺様を使っているってのになんて醜態だ』
一度、禾月の男の攻撃を捉えた暁がやられてしまったのは、子猫を踏みつけまいとした結果だったのだろう。童天丸は無遠慮に意見しているが、深月はさすがに聞き捨てならなかった。
「そんなふうに言わないでください。わたしがいけなかったんです。眠る前に扉の確認をしていなかったから、わたしなんかをかばったから……」
どんな理由があろうと、自分のせいであることには変わらない。後悔したところで時間が巻き戻るわけでもないのに、昨夜の出来事を考えると自責の念にさいなまれる。
童天丸は『ふうん』と軽い相槌を打って続けた。
『おまえは稀血なのに卑屈すぎるな。本来ならほかのやつらを屈服させるのも造作ないくせして。そら、いい情報を教えてやる。稀血の子、こいつの状態を治したくはないか?』
「どういう、意味ですか……?」
『なんだ、治したくはなかったか』
「……っ、治せるのなら、治したいです」
強く断言する深月だが、もちろん好都合に降ってくる奇跡などない。だからこそ最初の問いを訝しげに返したのに、童天丸はまるでなにか手があるのだと言いたげな口ぶりだった。
「本当に、治す方法が?」
『あるぞ』
童天丸はもったいぶらずにその方法を告げた。
『傷口におまえの唾液をつければいい。驚異的な回復力は禾月がもつ特性だが、稀血のおまえは妖力を使って治癒と浄化を他者にほどこせるってわけだ。どうだ、すごいだろ?』
「……本当にそんなことが?」
できると言われても、はいそうですかと素直に受け入れられない。稀血である自分の唾液で怪我が治るなんて、常識から逸脱している。
「よ、妖力が、わたしにあるんですか? それで本当に治るだなんて……」
『俺様の話が信じられないってか? 禾月の血が入ってるんだ、妖力くらいある。人間の枠組みで考えたら非常識なんだろうが、稀血のおまえには関係ないだろ』
「……っ」
まるで自分はもう人間じゃないと告げられている気分だった。
稀血だと教えられてはいても、だからといって深月は自分を人間ではないと思ったことはない。それなのに童天丸はたやすく曖昧だった境目に亀裂を入れてくる。
この刀にとって深月は稀血であり、もはや人間としては見ていないのだ。
(だけど本当に、怪我を治せるのなら……)
いまは思い煩うより、暁の怪我をどうにかしたい。
その想いが強くあった。
「……傷口に唾液って、つまり、舐めるということですか」
『いまにも死にそうってなら舐めてもいいが、舌で湿らせた口をつけるのでも効くだろ。要は唾液が触れりゃいいって話だよ。それを介しておまえの妖力がこいつの体に浸透し、浄化されて傷も塞がる』
「わかりました……」
深月は気持ちを固めるようにまぶたを閉じ、くるりと振り返った。蚊帳の外になっていた不知火と羽鳥に、これまでのやりとりの説明をするために。
「稀血ちゃん、童天丸の声が本当に聞こえているんだな? いったいなにを話していたんだ?」
童天丸を一瞥し、不知火は個人的な興味を抑えながら詳細を求めた。
「……わたしには、治癒と浄化の力があるといわれました。暁さまの怪我も、残った毒もそれで治せると」
「おいおい、なんだって!?」
「治癒に浄化……そんな力が稀血にあるとは記録にもありませんでしたが」
不知火同様に初めて聞く事実だったようで、羽鳥は眉根を寄せていた。
「それは本当に事実なのか、稀血ちゃん。童天丸は稀血について詳しくは知らなかったと、だいぶ前にアキが言っていたんだが……」
『俺様は知っているかと聞かれたから、さあどうだろうなと返しただけだ。知らないなんてひと言も口にしてない』
童天丸は屁理屈をこねている。
ありのままを不知火に伝えると、やはり「なんつー屁理屈だ、下衆妖刀!」と叫んだ。羽鳥も同意するように「これだからあやかしは油断できないんですよ!」と怒っている。
『ふん、なんとでも言え。そもそもあのとき知りたがっていたのは、稀血は稀血でも、こいつの仇のことだろ。どちらにせよ知らないってんだ』
「……仇?」
深月がぴくりと反応する。
声は思いのほか小さく、ほとんど口の中で発せられたため不知火と羽鳥には聞かれなかったが、童天丸はくつくつと笑っていた。
『その反応、おまえ知らなかったのか。ははは、傑作だ。まさか仇と同じ稀血に治されたって知ったら、こいつどんな顔すっかな』
心臓の動きが早くなる。
どこまでが本当で、どこからが嘘なのか。深月には区別がつかないけれど、とんでもない事情を耳にしたのは間違いない。
(稀血が、暁さまの仇……?)
思いもしない雑念が深月を取り巻いていく。しかしそんなこととは露ほどにも思っていない不知火が、気を取り直した様子で考え込む。
「にしても治癒能力か。それはどれほどのもんなのか、代わりに寿命を失うってからくりじゃないよな」
『そんなわけあるか阿呆め』
「あ……刀は、それはないと言っています」
「……代償もなくできるってのか」
不知火は判断を決めかねている。
妖刀――あやかしものの言葉を本当に鵜呑みにしていいのか。医者としては患者の体になにが起こるかわからないのだから当然の迷いだろう。
だが、こうしているうちにも暁の押し殺したうめきが聞こえてくる。
『君が無事でよかった』
その言葉がふいに頭をよぎり、深月は不知火に向き直った。
「わたしにやらせてはいただけないでしょうか」
「うん?」
「なにか手立てがあるなら、試したいです。暁さまは、わたしを助けてくれました。方法があるかもしれないのに苦しませたままでいるのは……嫌、です」
自分の意見を言葉にするのはとても難しい。
少し前の自分からは考えられない発言で、生意気と捉えられるかもしれない。だけど、取り消すつもりは毛頭なかった。
(稀血が仇。詳しくはわからないけれど、いまは全部あと回し。暁さまの命が先よ)
生死の境をさまよっている人を前にして、誠実に向き合う以外の思考はいったんしまわなければ。深月は動揺を振り切り、暁の怪我が治ることだけを考える。
半ば押し切る形で許可を得た深月は、暁に近づくと寝台に身を乗り出した。
(唇を湿らせて、傷口に触れる……)
彼の寝巻きの襟に触れ、ゆっくりとめくり上げる。血のにじんだ包帯があらわになり、深月は冷静に努めながらその包帯をずらして傷口を確認した。
それから短く呼吸を整えると、唇を傷に這わせた。
『ああ? そうか、忘れていた。世話がやけるな』
童天丸がなにか言っていた気がしたが、まったく耳には入らなかった。しかしこのときの深月には、体をなにかがすり抜けていくような不思議な感覚があった。
ぎゅっと目をつむって数秒間、そのままの状態で待つ。
深月の髪の毛先が暁の体に流れると、その些細な感触に肩が小さく跳ねた。
「……とんでもないな、稀血の力は」
不知火の唖然とした声がする。結果は火を見るよりもあきらかだった。
唇を離して立ち上がり確認すると、童天丸が言ったとおり暁の怪我の傷は綺麗に塞がっていた。呼吸も安定しはじめ、表情も幾分穏やかになってきている。
(……本当、だったんだ)
口もとに血がついているからと、不知火が渡してくれた手ぬぐいで唇を拭きながら深月はぼんやりと思う。なんだかどっと力が抜けたような疲労感があった。
「あ……っ」
「ちょっと!」
一瞬、足もとがおぼつかなくなり倒れそうになったところを、背後に控えていた羽鳥が支えてくれた。
治癒の力を目のあたりにした羽鳥は、なんとも言いがたい表情をしながら深月に言葉をかける。
「稀血に治癒と浄化の力があるというのは、本当だったみたいですね。ところで童天丸はまだなにか話していますか」
「いえ、じつはさっきから静かで……」
「そうですか。おそらく朱凰隊長が持ち直したので制御がかかったのでしょう」
「世の中なにが起きるかわからんな。まさかこの目で神の御業のような光景を見られるとは。恐れ入ったぜ」
不知火は起こった奇跡に肝を潰していたが、暁の容態を確認すると肩の力を抜いた。
「……暁さまは、どうですか」
「呼吸も脈も問題ない。とはいっても出血量は変わらない、しばらくは体がふらつくだろうし、絶対安静だ」
それでも命に別条はないようで、深月はほっと息を吐いた。
「で、あんたのほうはどうだ」
「わたし、ですか?」
「いまも足もとがふらついていただろ? おそらくそれは妖力が体から抜けた影響だ。あまり激しく動かないほうがいい」
「……そうですか、わかりました」
暁の怪我が治ったのは、心の底からよかったと思う。その気持ちに偽りはない。だけど……。
(わたしには……妖力が、あるのね)
複雑な心地だった。発揮された治癒の力は、裏を返すと自分がただの人間ではないことを決定づけるものになってしまったから。
一難去ったいまならばと、暁を流し見たあとに深月はそっとふたりを窺う。
「……あの。童天丸が言っていました。稀血は、暁さまの仇であると」
そう言った瞬間、ふたりの顔色が変わった。特に羽鳥はわかりやすく、童天丸のほうに鋭い視線を向けている。
「暁さまは、稀血に誰かを殺されたのですか?」
「……そうだな」
「不知火さん、言うんですか?」
半ばあきらめたように肯定の意を見せた不知火の横で、羽鳥が難色を示した。
「その下衆妖刀が稀血は仇だって言っちまったんだ。もうほとんど知ったも同然だろ」
「それでは、本当に誰かを亡くして……?」
出会い頭のひどく冷酷な面差しと、ここで過ごすようになり始めて感じた些細な気遣い。どうしてだろうと不思議で、暁のことを知りたいと思った。軍人としてではなく、生真面目で真っすぐな言葉をかけてくれる、この人自身を。
そうして、不知火が続ける。
「家族、親しかった存在。殺されたのは、大切な人間すべて」
「すべて……」
深月の肩に見えない重りがのしかかる。正体不明のそれは深月の内側に流れる血を思い出させ、動揺を誘った。
「だからいまも、アキは仇を探してる」
すとん、と曖昧にあったものがようやく腑に落ちた。
『ようやく、見つけた』
『この日が来るのを、待っていた』
月に照らされた暁の冷ややかな様相と、焦がれつぶやかれた言葉。
どうしてあんなことを言ったのか。その言葉の奥にあった根本的な部分は不鮮明なままだった。
それが、やっと知れた。
彼はずっと、稀血を探していた。
そして唯一の手がかりになるかもしれない、同じ稀血の存在を見つけた。
仇と同じ自分を前にしながら、あのときの彼は、これまでの彼は、どんな気持ちでいたのだろう。
「一ノ宮の小僧め。下手に出ているからといって、あれほど図に乗るとは何事だ!」
湯呑が居間の畳に投げつけられ、中身がすべて引っくり返る。
それでも気が収まらず、庵楽堂の大旦那は湯呑を蹴飛ばす。庭先でガシャンと割れる音が響いた。
「ちょっとあんた、落ち着いてくださいよ」
「これが落ち着いていられるか!!」
なだめる女将の肩を押しのけ、大旦那はずんずんと大股で歩いていく。
掃除中の女中の手を踏みつけ、洗濯物を抱えた女中とぶつかろうがかまいもせず、大旦那は屋敷を出ていった。
(ちくしょう、こんなはずではなかったのに!!)
一ノ宮誠太郎と深月の縁談が白紙となってからというもの、大旦那の苛立ちは収まるところを知らなかった。
ひと月半以上も前。誠太郎が麗子に惚れ込んで縁談の申し入れをしてきたとき、大旦那は『天はまたこちらに微笑んだ』と感激した。
一ノ宮家から出るであろう支度金で、借金をすべて返せると踏んだからである。
庵楽堂は何代も前の当主が宮廷に菓子を献上し、栄誉称号を賜った由緒ある商家。大旦那は生まれた頃から甘やかされて育ち、若い頃はまだ余裕があった私財を投じて賭博や豪遊ばかりしていた。
しかし残念ながら大旦那には、商才や職人としての腕が皆無だった。
庵楽堂という先人たちが残してきた過去の栄光に胡座をかき、結婚して麗子が生まれてからも同じ生活を送っていたため、ついに庵楽堂も傾き始めたのである。
帝都民をいくらごまかせても、権利を振りかざして豪奢を極め、質も味も落ちた庵楽堂は徐々に宮廷からも忘れられていった。
それでも味をしめてしまった贅沢な暮らし、賭博や豪遊をやめられるはずもなく、大旦那はあっという間に借金まみれになってしまったのである。
数年前にも破産の危機はあった。しかしあのときは運を味方につけてなんとか免れることができた。
……だが、今回は本当にまずい。
そう思っていたときに舞い込んできた縁談だった。
大旦那は一ノ宮家と縁を結ぶことで、金子と体面の両方を手に入れる算段だったのだ。
(麗子ではなく深月はどうかと交渉して、あの男も納得していたというのに!!)
娘ほどではないが、深月はほかの女中に比べて見目がいいのは知っていた。
容姿に関して自信があり、そのうえ他人の風貌に敏感だった麗子は、女の勘でなにか察したのか最初から深月を嫌っていた。
借金の肩代わりをしたと説明して深月を奉公女中にしたため、妻には不貞を疑われてしまったことがある。誤解はといたが、それからというもの麗子と女将はさらに深月に厳しく当たるようになった。
麗子の言いつけで常に目線を低くし歩き、顔が不快だからという理由で髪や格好にも制限をつけていたようだが、大旦那はいっさいの口を挟まなかった。
そういった環境下にいたため、深月は本来の姿を誰にも見せず、雑務を押しつけられる毎日を送っていたのだった。
『うちの麗子は父親の私も手を焼くわがまま娘です。それに引き換え、深月という女中はおとなしく命令を聞き、そして隠された華があります。あなたさまの手でよりいっそう美しく咲かせてみてはいかがですか』
『ほう、それもまた一興だな』
変態め。麗子が嫁がなくて本当によかった。
祝言が終われば約束の支度金も誠太郎によって色がつけられた状態で庵楽堂に届き、借金も無事に返せる。
大旦那の目論見は完璧だった……はずなのに。
『今後、我が一ノ宮が庵楽堂と縁深い関係になることはありません』
縁談はすべてなかったものとして処理され、一ノ宮現当主からは遠回しに金輪際関わるなと告げられた。
小耳に挟んだ話では、なぜか誠太郎は初夜のあと帝国軍に引き渡されており、深月がどうなったのかは大旦那もわからないままだった。
『まさか深月がなにかしくじったのか? あの娘、置いてやっただけでも大恩だというのに、仇で返すとは……!』
こうして今日も大旦那の心中は穏やかではなく、庵楽堂には不穏が立ち込めるのだった。
***
「本当に、嫌になるわ」
居間のほうで湯呑が割れる音と、父の怒号が聞こえた。
麗子は私室の鏡台に座って髪を梳き、ため息をつく。
ここ半月以上、父は機嫌が悪い。家中の空気も最悪で、庵楽堂の従業員にまで当たり散らしている始末だ。
「れ、麗子さま、失礼いたします」
「入ってちょうだい」
髪を梳き終わると、麗子付きの女中が襖の外から声をかけてきた。
許可を出せば、おさげの女中が頭を下げながら部屋に入ってくる。
父親の醜態を耳にして少し苛々した様子の麗子を前に、おさげの女中は震える手であるものを差し出した。
とたんに麗子の瞳がかっと開かれる。
「ちょっと、なにこれ!!」
麗子が女中の手から奪い取ったのは、つたない花柄の刺繍が施された手巾だった。
西洋の文化が次々と帝都に流れ込んでくる昨今、華族や豪商の令嬢たちのあいだでは、意中の男性に刺繍入りの手巾を贈るのが流行っている。
そして和柄から洋柄まで幅広い柄を取り入れて縫われた完成品を、友人同士で披露するのも楽しみのひとつとして広まっていた。
麗子も例に漏れず、女学校時代の友人たちとカフェで待ち合わせて刺繍を見せ合うという交流を月に一度くらいの頻度でおこなっていた。
今日は久しぶりの集まり。毎回素晴らしい出来栄えの刺繍を披露する麗子なので、友人たちも期待しているはずだ。……それなのに。
「こんな不格好なもの、見せられるわけないじゃない!」
おさげの女中から渡された手巾を、麗子は怒り狂って畳に投げつけた。
「も、申し訳ございません麗子さま!」
「謝って済む問題じゃないわ。ねえ、あたしに恥をかかせたいわけ? 時間はたっぷりあげたはずなのに、どうしてこんなみみずがのたうち回っているような縫いしかできていないのよ!?」
麗子は落ちた手巾を踏みつけ、おさげ女中にまくし立てた。
「こ、これが精一杯で……っ」
「はあ? なに言ってるの、あんたこれまで刺繍だけは得意だったじゃない」
「深月にやらせていました……!!」
畳に額をこすりつけ放たれたおさげ女中の発言に、ぴたりと麗子の動きが止まる。
「ずっと深月にやらせていたんです。あの子、生意気にも洋ものの柄をよく知っていて……だから深月に作らせていましたっ」
「深月ですって?」
麗子は思った。またあの子なの、と。
あの女の名前を女中たちの懺悔から聞かされるのは、もうこれで何度目だろう。
女中たちの仕事の質が落ちているのには勘づいていた。
掃除、洗濯、食事の用意。いつからか麗子が気に入っていたお茶の味を出せる女中がいなくなり、お気に入りの着物の管理がいい加減になった。すべての仕事がずさんになっていたのだ。
少し前までは、深月の存在に苛立たしく思う以外は平和だった。
なのに深月が一ノ宮家に嫁いでいなくなったとたん、積み木の城が崩れ落ちるように、女中たちの仕事ぶりが激変したのである。
理由は明白だった。女中たちは深月に自分たちの仕事を押しつけ、その手柄だけを横取りしていたのだ。
『深月に頼まれた雑用をやらせていた』
『深月にお茶を淹れさせていた』
『深月に掃除をさせていた』
『深月に管理をやらせていた』
断りきれなかった深月は、自分の睡眠時間を削ってなんとか押しつけられた雑務を終わらせていたのだ。このほかにも麗子や女将から言いつけられていた仕事があったにもかかわらず。
(深月……っ)
麗子はぎりと奥歯を噛んだ。
出会ったときから気に入らなかった。父がどこからか連れてきて、なぜか借金の肩代わりをしたというあの女が。
なによりも麗子が疎んだのは、本人すら無自覚だったあの不思議なまでに視線を惹きつける容姿である。
気にする必要はないと高をくくっていた。けれど、店の男性従業員の目が深月を追うようになり、麗子の嫌な予感は的中した。
この庵楽堂で自分以外が特別だということが許せなかった。
おまけに戸籍もない下賤の身だというのに、女学校に通う麗子よりも外来語を理解している堪能さがひどく嫌味に映った。
これまでの人生、自分はなんでも与えられてきた。
それは事実であり、矜持であり、当然の結果だった。
だから、深月に劣るかもしれないという現実を麗子は許容できなかったのである。
罵声を浴びせ痛みを与えていくうちに、深月は面白いくらい従順になった。
いつしか麗子が感じていた深月の不思議な魅力は見る影もなくなり、その冬枯れのような姿をあざ笑う毎日だった。
そして、ついに深月は一ノ宮誠太郎と縁談を結び、この庵楽堂からいなくなった。借金が帳消しになったのは癪だったけれど、自分の代わりとして醜男の妾になった深月のことが心の底から愉快だった。
……全部、全部、うまくいっていたはずなのに。
(ああ、腹が立つ。一ノ宮家との関係もなくなって父さまはずっとあの調子だし。きっと深月が下手を打ったに違いないわ、見つけたらただじゃ置かない!!)
すべての怒りの矛先を深月に向けた麗子は、いまだ女々しく畳にうずくまっているおさげ女中の体を蹴飛ばした。
「いい加減邪魔よ。刺繍もろくに完成できないんだから、買い出しくらいはしっかりやって」
「は、はい」
「お友達にお渡しする手土産を買ってきて。中央区画のキャラメルとチョコレートよ」
「かしこまりました!」
逃げるように出ていったおさげ女中を、麗子は忌々しげに見送るのだった。
***
昼頃、深月は部屋の椅子に腰かけ、窓外の景色を眺めていた。
膝の上には子猫が寝息を立てて眠っている。その柔らかい毛並みを撫でながら、深月はぼんやりと昨日のことを思い出していた。
(暁さまの大切な人たちが、稀血に殺されていただなんて)
自分以外にも稀血がいるのだという驚きと、次にどんな顔をして暁に会えばいいのかという悩みが両方ともやってくる。
(……怖い)
一昨日の夜に暴れた禾月のように、血を求めてしまう日が来るのだろうか。暁の大切な人を殺した稀血のように、誰かに手をかけてしまう日が来るのだろうか。
どれもまったくない話じゃない。
深月は体の中に漂っているという妖力を使って、暁の怪我を治癒した。妖力があるのなら、いつ禾月の特性が色濃く出たとしても不思議ではないのだ。
「失礼します」
そのとき、部屋に羽鳥が入ってきた。
昼食の時間にはまだ早い。
暁が全快するまで執務室には行けないので、深月は日中を部屋で過ごしている。食事も部屋でとるようになり、朋代か羽鳥が運んでくれることになっていた。
羽鳥の入室に、最初は昼食を持ってきてくれたのかと深月は思ったけれど、その手には盆がない。
「どうしましたか、まだ体調がすぐれませんか?」
羽鳥はうなだれた様子の深月を目にすると、少し心配したように近寄ってくる。
「あ、いえ。ちょっと考え事をしていただけで……」
そう話すと、羽鳥はほっと息をつく。
暁を治癒したあと、妖力が抜けた影響でなかなか疲労感が取れなかった。
ひと晩眠ってやっと疲れがとれてきたが、暁の部屋から自分の部屋に戻るまでの短い距離でも、羽鳥に補助してもらわないと歩けないほどだった。
不知火が言うには、反動が来たのではという話である。
要するに体の使っていなかった部位を酷使するとだるくなるように、これまで妖力を使ったことがない深月にも同じような症状が起こっているのかもしれない、という推測だった。
多少の発熱もあったのだが、こちらも眠って起きるとすっかり下がっており、深月も反動の収まりを感じていた。
「体はもう大丈夫です。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
「いえ……あの、こちらをお持ちしました」
羽鳥はいそいそと深月の前に小冊子を差し出した。
表紙に【第五章】と記されたそれに、深月は目を見開く。
「朱凰隊長からです。先ほど目を覚まされて、あなたが部屋にいるのなら、こちらを渡してほしいと」
「暁さま、お目覚めになったのですね……本当によかった」
容態は安定していても意識は戻らなかったので心配していたけれど、目が覚めたのならひと安心である。
「こちらも、ありがとうございます。よければ、暁さまにもお伝えください」
暁の気遣いに戸惑いを覚えながら、深月は小冊子を受け取った。
暁と稀血の因縁を知ってしまったからか、落ち着いて羽鳥と顔を合わせるのもなんだか気まずい。
彼が初対面から向けてきた敵意の理由も、暁の事情を知っていたからこそのものだったのだろう。違う稀血が起こした問題とはいえ、彼が警戒を強めるのも納得である。
(羽鳥さまが信じられないのも当然よ。わたしだって、自分自身を信じきれていないもの……)
手にした小冊子にぎゅっと力を込める。
黙思する深月に、羽鳥はためらいながら言った。
「僕は、あやかし全般が大嫌いです。卑劣で、狂暴で、罪のない人々を傷つけるから。いままでの僕にとって稀血は尊敬してやまない人の憎き仇でした。でも、あなたのような人もいるのだと初めて知った。隊長の怪我を治してくださってありがとうございます」
「だけど、もともとはわたしが……」
「そうだとしても、ご自分のことは顧みず行動を起こしてくださったじゃないですか。あんなにふらふらしてまで。だから、すみませんでした」
羽鳥の謝罪に耳を疑った。角が取れたように丁寧な物腰になった彼に、深月は目をぱちぱちさせる。
「稀血だからといってひとくくりにするのは浅はかでした。これからは自分で見極めますので、よろしくお願いします」
羽鳥は深くお辞儀をすると、そのまま部屋を出ていった。
残された深月は、小冊子を胸に抱えてうつむく。
「わたしもどうなるのか、わかりません……」
あの夜の禾月のように、自分がこの先々で誰かを傷つけてしまうかもしれないという可能性が消えたわけではない。だから、いつ理性を失って羽鳥が嫌悪する存在になるともわからないのに。
妖力を使って人ならざる力を発揮したいまの深月には、絶対に狂暴にならないと断言できるだけの確証がなかった。
人間と禾月のあいだにさいなまれながら、この日も時間があっという間に過ぎていく。置いてけぼりをくらったような、心細さが胸に募った。
***
夜の帳が下りる頃、洋燈の明かりが暁の部屋をほんのりと照らしていた。
「明日には職務に復帰する。心配をかけたな、蘭士」
「明日からって、あれだけ血を流して倒れたっていうのに、元気になるのが早すぎだろ。本当に人間か?」
昼間に目が覚めたばかりのはずだが、すでに暁は明日から職務に就くつもりだった。それを医者として見過ごすわけにはいかず、不知火は首を横に振った。
「却下だ。あと三日は休め」
「三日もだと?」
「も、じゃない。だけ、だ」
「しかし、俺が休んでいては隊員たちに示しが……」
渋る様子の暁に、不知火はその心配はないと笑った。
「むしろあいつらは大歓迎だと言うさ。そもそもおまえは休みが少なすぎるんだ。いい機会だからこの三日ぐらいは非番にしとけ。本部にもそう報告済みだ」
本人がどんなにごねても、医者の権限で隊員の非番申請を通すことができる。
不知火は目覚めたあとの暁の考えを予想し、先に申請を入れていたようだ。
「わかった、三日だ」
すでに報告されていては撤回するのも手間だと考え、暁は早々に折れた。
それから傷が綺麗に消えた自分の体に目をやる。
「羽鳥から聞いた。俺の怪我は、彼女が治してくれたんだろう」
「ああ、世にも不思議な……いや、見事な稀血の力だったぜ」
不知火の反応を確認し、暁の視線が壁に立てかけられた童天丸に移った。
「少し童天丸と話がしたい」
「……了解。そのあいだにおまえの薬湯を煎じてくる」
「ああ、頼む」
部屋を出ていく不知火の背を見送ったあと、暁は改めて童天丸を見捉えた。
「童天丸」
『よう、生きながらえてよかったな』
暁の呼び声に、刀を軽く振動させて童天丸が応えた。
「おまえは、なにを考えている」
『藪から棒になんだよ?』
「とぼけるな。治癒のことだ。稀血にそんな力があったと、おまえから聞いていない」
『当たり前だろ、言ってないんだからなぁ』
けらけらと刀の中で笑っている童天丸に悪びれる様子はいっさいない。
一瞬だけ暁の顔がぐっとゆがむ。しかし童天丸に腹を立てたところで気力の無駄だと知っている暁は、はあと嘆息を漏らした。
「おまえの声が聞こえたのは、彼女が稀血だからで間違いないか」
『ああ、そうだ。感謝しろよ、弱った宿主に見飽きた俺様のおかげで、おまえは稀血の子の治癒を受けられたんだ』
「おまえ、彼女になにをした」
暁は低く声を響かせて問うた。そこには隠しきれない怒りが感じられる。
『なにがだ?』
「治癒は妖力の消費によって引き出されるものだと聞いた。だが、俺はいままで彼女から妖力の気配を感じたことはない。だというのに、なぜ彼女は突然に力を使えた?」
妖刀を扱う暁には、あやかしものの妖力や邪気の気配がわかる。しかし、これまで深月からはその類いをまったく感じなかった。
治癒のために妖力が使われたというのはおかしな話なのである。
『決まっているだろ。俺様が促してやったんだよ。稀血の子に眠っていた妖力の核なる部分を』
それを聞き、暁の表情がさっと消えた。
「……なぜ、そんな真似をした」
『おまえを助けたいって健気に願ったからな』
間髪入れずに返答が来て、暁はしばし考えた。
童天丸には些末な問題なのだろうが、深月の妖力を引き出したというなら、すなわち禾月の本能にも敏感になる可能性があるということだ。
『言っとくけどな、俺様は妖力の巡りを正常に戻しただけだ。俺様が手を貸さなくたって、遅かれ早かれこうなっていただろ』
童天丸はさらに続けた。
『まあ、気をつけろよ。あの娘、相当追い込まれているみたいだからなぁ』
「どういう意味だ?」
聞き返した暁に、童天丸はない鼻を鳴らした。
『おまえにはわからねえよなぁ。人間でも禾月でもない、得体の知れないものになった気分なんざ。俺様にもわからん』
そんなことはない、と開きかけた口を、暁は引き結んだ。
言葉こそ適当だが、童天丸の言うとおりである。どんなに案じたところで、稀血ではない自分に深月の気持ちのすべてを理解しようだなんて傲慢であり、絶対に不可能なのだ。
それを歯がゆく感じるのは、情が芽生えてしまったからだろうか。
今回の件も、自分に至らないところがあったと感じても、深月をかばったゆえの負傷に後悔はない。それが自分の責務だと断言する反面、あのときなにか別の感情に駆り立てられたような気がした。
禾月の男に斬られそうになる姿に血が沸騰しそうになった。絶対に傷はつけさせないと思ったら、自分でも驚くほどの速さで童天丸を抜刀していた。
深月が無事だとわかって心の奥底から安堵した。肩が震えていたから、なにかかけてやりたいと外套で包んだ。
それからの記憶はあまりない。
起きてみると深月が自分の怪我を治癒したのだと知り驚いた。
あれだけ稀血である自分を憂虞していたのに、なにがどうなって能力を使う羽目になったのか疑問だったのだ。
それが自分を助けたいがための行動だと教えられ、暁は戸惑いを隠せなかった。
ふたつの種族の狭間で揺れる深月は、人ならざる治癒を発揮し、人ならざる妖力に触れ、その心でなにを考え巡らせていたのだろう。
なぜこんなことを考えるのか、その理由は暁自身もわからぬままだった。
「話し終わったのか?」
黙り込んでいる暁に、薬湯を手に戻ってきた不知火が声をかけた。
しかし暁は難しい表情のまま一点を集中している。
『あの娘、相当追い込まれているみたいだからなぁ』
童天丸の言葉が脳裏で繰り返される。
「……蘭士」
不知火が怪訝に思っていると、暁はぱっと顔を上げて尋ねた。
「なにか気晴らしをするとなったら、なにが一番いいだろうか」
「……は?」
「女性の気晴らしには、なにが有効だ」
さらに暁が大真面目に聞いてくるので、不知火はなおさら度肝を抜かれるのだった。
***
翌日、朝食からしばらく時間が経ったあとで深月は執務室に呼ばれた。
入室すると、本棚の前で書物を開いている暁の姿が目に飛び込んできた。
「暁さま……?」
執務室に呼び出されたので、もしやと少しは考えていたけれど、目覚めた昨日の今日で平然と立っている彼に疑いの目が向く。
「もう起きて大丈夫ですか? お体はよろしいのですか……?」
「ああ、問題ない」
暁に無理をしている様子はない。治癒をした日よりも数段に顔色がよくなっており、本当に体調が回復したのだとほっとした。
「君が治癒の力を使ってくれたんだろう? おかげで助かった、ありがとう」
こちらを窺う暁の視線に、深月の肩が震えた。お礼をされるとは夢にも思わなかったのだ。
「どうして、ですか。わたしのせいで、怪我をさせてしまったのに」
「それはこちらの落ち度だ。君のせいではないし、俺の怪我を治してくれた君に礼を伝えるのは当然だろう」
柔和な目がこちらを見ている。
助けてくれたときと同じように、彼は深月を咎めなかった。ただ、穏やかに諭すだけ。
「今回は極めて稀だが、夜中にひとりで外に出るのは控えてくれ。いざというとき、君を守るのが遅れてしまう」
「……っ、申し訳、ございませんでした」
深月は腰を折って深々と頭を下げた。もうこんな事態を起こさないように、けじめの意味も込めて謝罪をする。
深月の気持ちを受け入れた暁は、もうそのぐらいで大丈夫だと言うように深月の肩に触れた。
見上げて、いまさらだけど目を合わせづらくなってしまう。暁と稀血の関係性を聞いてしまったことが、尾を引いているのだ。
「それと、君には治癒の件でひとつ聞きたかったんだが」
「なんでしょうか……?」
気まずさは常にあったが、深月は内容を確かめる。
「君がしてくれたという治癒の方法を教えてくれないか」
「わたしがした、治癒の方法ですか……?」
「ああ」
うなずいた暁に、深月はしばし沈黙してから聞き返した。
「……不知火さんか、羽鳥さまからお聞きになったのでは?」
「そのあたりに関してはまだだ」
治癒の細かい詳細は本人の証言が一番確実だと考え、暁は深月に説明を求めた。
ふたりともあえて自分たちの口からは言わなかったのか、偶然なのかは定かではないけれど、言葉にしようとすると妙な気恥ずかしさを覚えた。
唾液を介して妖力を流し、治癒を促す。簡単にまとめると早いのだが、そこには深月の動作も加わるわけで……。
いま思うと、男の人の肌に口をつけるとは、なんて大胆な真似をしてしまったのだろう。
(それしか方法はなかったもの。考えている暇もなくて……)
そうわかってはいても、いざ口にしようとすると、耳のつけ根辺りが熱くなる。
だが、暁は報告を求めているだけにすぎない。遅れてやってきた自分の羞恥心などは無視してありのままを伝えるべきだ。
覚悟を決めた深月は、その澄んだ満月のような瞳を見返した。
「唾液をつけることが必要だと教えてもらいましたので、傷に口づけました」
「傷に口を……?」
深月の目線が暁の首もと辺りに注がれた。
ちょうどあの辺りだっただろうかと、自分の首もとに触れて暁に見せる。
「だいたいこのへんでした。しばらく触れていたら、するすると肌がもとに戻り始めて……暁さま?」
深月は説明を中断して暁に呼びかけた。先ほど自分の指で示した口づけ場所を、暁が自分の手で確認するように触れて固まってしまったからである。
「暁さま、大丈夫ですか……?」
体調が優れないのかと様子を窺っていると、暁は珍しく動揺を含んだ声で言った。
「こんなところに口づけて、問題なかったのか」
「は、はい。なにも」
「……そうか。そのような真似をさせてすまない」
長い溜めのあとで、暁はぽつりとつぶやく。ふいっとそらした横顔が新鮮で、つい魅入ってしまった。
(……暁さま、もしかして照れている?)
頬が朱に染まっているのはなにかの勘違いだろうか。
しかしずっと観察しても色味は引かずにそこにある。
(わ、わたしまで恥ずかしくなってきた)
あれは必要な過程だった。だけど肌に口づけるというのは、したほうもされたほうも恥ずかしさが伴うもので。
状況を伝えるただの報告だったはずが、面映ゆい空気になってしまった。
それから、妙な空気を払拭するように暁が話題を変えた。
「……三日間、非番になったんだ」
「あ、お休みをいただいたんですね」
傷は治ったが安静にさせるため不知火が休ませたという話をされる。
いきなりなにを言い始めるのかと思えば、暁が本題を口にした。
「街に、出かけないか」
「……街、ですか?」
「ああ、気分転換に。ここ数日、塞ぎがちになっていると聞いた」
暁からそんな発言が出るのが意外だったが、朋代から様子を聞いたのなら納得だ。
暁の負傷から久しぶりに日中を部屋で過ごしていた深月は、確かになにをするでもなく物思いにふけっていることが多くなっていた。
それを聞きつけ、暁はこんな提案をしてくれたのである。
律儀な人だ。こんときにも自分を花嫁候補として扱い、出かけようと提案してくれるのだから。
これもきっと彼の職務の一環なのだろうけど、彼の非番を使わせてしまっていいのだろうか。稀血との因果関係を知ったいまでは、遠慮のほかに負い目のようなものも感じてしまっていた。
「――だが、いまからでもかまわない」
「はい……」
「わかった。では、行こう」
「……はい?」
考え事をしているうちに、なにか話が進んでいたようだ。
無意識とは恐ろしい。まったく会話が耳に入っていなくても、しっかり深月は相槌を打っていた。
「この格好では目立つから、少し着替えてくる。朋代さんにもすぐに伝えよう」
深月が我に返ったときにはすでに暁は扉の前に移動し、取っ手を回しているところだった。
『散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする』
これに便乗するように、もうひとつ似たような文言が帝都にはある。
『華の一族来たれりは、文明開化の礎を築く』
意味合いとしては、帝都は華族によっていっそうに栄華する、という華族を称える一文として帝都人には馴染み深い。
そしてここ中央区画は、帝都の中でも一番に洋風建築が建ち並び、公共施設、銀行や企業が多く取り入れられている。政府、軍本部、華族の住居、夜会や社交界が頻繁に開かれる『華明館』など、帝都の中心部として賑わっていた。
特命部隊本拠地を出てから中央区画までそれほど時間はかからず、深月は華やかな街並みを呆然と見つめていた。
庵楽堂がある東区画はいまだ旧時代的な名残りが深く、反対に中央区画は常に先端を走っている。そんな印象があった。
「そこ、気をつけろ」
ふいに肩を引き寄せられ、深月の体は隣を歩いていた暁の胸に吸い込まれる。同時に真横を人力車が駆け抜け、衝突を未然に防いでくれたのだと理解した。
肩を引かれたまま、深月は上を向く。
「申し訳ありません、暁、さま……」
「かまわない。人通りが多いから、あまりそばを離れないほうがいい」
「あ、は……はい」
想像以上に暁の顔が近く、声が上ずる。そのまま目が合うと、深月は不自然にそらしてしまった。
「……外へ連れ出してくださって、ありがとうございます。怪我が治ったばかりでしたのに」
「室内にいてばかりでは気も滅入るだろうし、君には世話になった。だから、なにか礼ができればと考えていた」
「お礼……?」
深月は瞳を見開いた。てっきり義務的に外へ連れ出してくれたのだと思っていたのだが、暁の口ぶりにはそれ以外も含まれていたのだ。
自分は稀血なのに。そう考えては、この気遣いが嬉しくもあった。
(冷たい人ではないことは、もう十分に知ったわ)
口調や態度は職務を貫く軍人そのものだけれど、彼はいつも真摯に接してくれていたのだ。そして近くにいるからこそ、本質は優しい人なのだとわかる。
(……こんなわたしに、ありがとうございます)
深月はそっと目を伏せ、暁の隣を歩いた。
なんだか新鮮な心地だ。それは隣を歩く暁が和装に身を包んでいるからだろうか。
軍服では目立つのでこの格好にしたのだというが、普段見慣れていないからか、ふとしたときに魅入ってしまう。
(……男の人を綺麗だと思うのは、暁さまが初めてだわ)
それから行き先は特に決めず、とりあえずふたりは大通りを散策する。
途中、暁は深月の姿を見下ろして聞いてきた。
「ところで、君はなぜそのような格好を?」
「え? あの、外出中はいつもこうしていたので」
深月は屋敷を出たときから、手ぬぐいを頭に広げて吹き流しのように被っていた。それが暁には奇妙に見えたらしい。
そして深月も尋ねられてから、あっと口を開けた。
(庵楽堂ではなるべく顔を見せずに出歩けと指示されていたから、つい手ぬぐいを借りてしまったわ)
麗子は深月が周囲に認知されることをかたくなに許さなかった。使いのときは必ず顔を隠すようにと命じられていたため、その癖が出たのだ。
「……以前、君は言っていたな。だらしない顔をさらしてしまったと。その言葉は庵楽堂で日頃から浴びせられていたんだろう?」
「そう、ですね」
あまり深月が思い出したくなさそうだったので暁も聞かずにいてくれたようだが、だいたいは察していたようだ。
「あとは、なにを言われていた」
ここが街中で、人の気配が多くある場所で、屋敷よりは幾分気を張らずにいれる環境だからなのか、暁は直球で聞いてくる。
「……わたしの顔は、周囲を不快にさせると」
だが、すぐに発言を取り消したくなった。素直に話したところで相手にどれだけ自分が惨めだったかを知られるだけだというのに。
要らぬ不遇話を口にしまったと深月が様子を窺えば、見下ろす暁の視線と交差した。
「君の顔を不快だと、感じたことは一度もない」
歩みが止まり、じっくりと見据えられる。
もう半月以上一緒にいたというのに、改めてその顔を目にすれば鼓動が高鳴った。
「そもそも、人の顔の善し悪しを当人以外が決める行為自体、俺は好きじゃない」
それは軍人としてではなく、暁の本心なのだろう。
ここまでの道のりで多くの女性たちの視線を虜にするほど美貌に優れた人物だが、彼は気にした素振りを見せない。そういった意識が根底にあるからこそ出た言葉だったのだ。
「君を冷遇していたのは、庵楽堂のひとり娘だな」
「…………」
会話の流れでそうだと認めてしまいそうになるが、なんだか気が引けて途中で思い留まる。深月は開きかけた唇を結び、左右に小さく首を振ると、ふっと笑った。
「ありがとうございます、暁さま」
「なんの礼なんだ?」
「いえ、ただ……言いたくなってしまって」
麗子の目があるうちは、そのような考えを持てないでいた。
しかし、暁から『人の顔の善し悪し』を聞いたとき、確かにそうだと納得したのだ。それがなんだか尊く、貴重な瞬間のように感じた。
「……そうか」
ほんのり声色が明るくなった深月に、暁はなにも言わず目を細める。
「ただ、やっぱり街の外ではずすのに慣れていないので、もう少しだけこのままでもかまいませんか?」
「ああ」
理解を示す暁に感謝しながら、深月はふと人通りに目をやった。
この辺りは庵楽堂の女中が使いで出向く通い路がある。大勢の中で遭遇することはないと思うが、念のため深月は被りを深くした。
「よってらっしゃいみてらっしゃい!」
「……あれは」
通りの端から聞こえた呼び込みに、深月は首をかしげた。
「大道芸と、隣は人形劇のようだな……せっかくだ、見ていこう」
「あ、ありがとうございます」
深月が興味深そうにしているのに気づいた暁は、見やすい位置まで連れてくる。
(わあ、すごい……)
玉や輪を巧みに操る見事な曲芸に圧倒され、隣の人形劇ではひとりで何役も演じている芸達者な傀儡師を夢中になって楽しんだ。
やがてすべての芸が終了し、その場は拍手喝采に包まれる。
深月も同じように加わって手を叩き、横に立つ暁を見上げた。
「わたし、こういう芸を初めて見ました」
「楽しめたか?」
「はい……!」
いまだ興奮が冷めないまま深月は首を縦に振る。尋ねた暁の表情も柔らかく、自分と同じように彼も楽しんでいたのだろうと思った。
それから暁は、客足がまばらになる頃に投げ銭を木箱に入れる。
自分の分まで入れてもらい申し訳なくなるが、暁は穏やかな表情で「俺も十分楽しめた」と言い、少しだけ微笑んでいた。
その後、人の流れに沿うように歩いていると、ふと甘い香りがした。
(この匂い……)
なんだか懐かしいと感じていれば、突風が吹いて頭の手ぬぐいを容赦なく奪い取った。そのまま風に流され、手ぬぐいは反対側の店先まで飛んでいってしまう。
「ここで待っていろ」
「……あっ」
自分が動く隙も与えず、暁は素早く反応して人の間をすり抜けていった。せめてこの場を離れないように待機していようと、深月は背後にあった洋菓子店の置き看板の前でじっと佇んだ。
「深月っ!!」
そのとき、深月が歩いてきた通りの反対側の道から、発狂混じりの声が飛んできた。深月の体はびくりと跳ね上がり、慎重にそちらを確かめる。
先頭のおさげ髪の少女を含め、三人の娘たちが深月を睨むように立っていた。彼女たちは皆、庵楽堂の女中である。
「あ、の……」
深月が小さく反応すると、怒りに染めたおさげ女中が掴みかかってくる。
「やっぱりあんただったっ。こんなところでなにしてるわけ!? あんたのせいで麗子さまがどれだけあたしたちにやつあたりしてくると思ってるのよ!!」
「も、申し――」
怒りを爆発させて詰め寄ってくるおさげ女中に、深月の癖が出そうになる。しかし、すべてを声に出す前にぐっとこらえた。
「あんたのせいでこっちはとばっちりよ!」
「そうよ、いますぐ麗子さまの前に連れていってやるわ!」
理不尽な言葉による謝罪を止めることはできたが、寄ってたかって深月を追求する女中たちに言葉を返す余裕まではなかった。
「俺の連れにどんな要件が?」
深月に長身の影が覆う。そして女中から深月を引き離すように、目の前には広い背中があった。
「ちょっと! 邪魔しないで……よ……」
おさげ女中の声が、その姿を目にして萎んでいった。
胡桃染の透きとおる髪が揺れ、隙間から見据えた冷ややかな瞳に、女中たちの動きが止まる。同時に美しい顔の男にじっと見つめられると、三人とも乙女のように頬を染めた。
「聞くに耐えない」
暁の無感情な声音が響く。まるで針で肌を刺される錯覚に陥るほど刺々しい。
うっとり見惚れていた女中たちも、自分たちに向けられた言葉だとわかったとたん顔を青くさせた。
「怠惰を棚に上げ、彼女に当たり散らすな」
「……なっ!!」
図星を指され今度は茹で蛸のように真っ赤になる女中たちは、言い訳もできず暁に圧倒され、ばたばたと逃げるように去っていった。
「…………」
深月は女中たちの背を呆然としながら見ていた。無意識に握り込んだ両手はじっとりと汗をかき、それでいて氷のように冷え切っている。
「……深月」
しばらく続いた沈黙を、暁が静かに破る。
こちらを見ろと言わんばかりの声に目線を上げれば、暁は眉尻を下げていた。
「あれが、庵楽堂の同僚か」
こくりとうなずくと、暁の深いため息が聞こえてきた。
「お、お騒がせしてしまって、すみません」
どうしていつもこうなのだろう。せっかく暁が外出に誘ってくれたというのに、台無しにしてしまった。
「……こっちへ」
顔色がすぐれない深月の腕を引き、暁は目の前の洋菓子店に入った。
外の騒ぎは店内にも丸聞こえだったようで、ふたりが入店すると従業員は顔を引きつらせていた。
暁は「店先で騒いで申し訳ない」と謝意を入れると、店内に置かれた商品を購入し、入口横に立っていた深月を連れてふたたび店外に出る。
「君はこれを好きだったと言っていたな」
洋菓子店から離れたところで立ち止まった暁は、可愛らしい包装を深月に差し出す。それはまさしくキャラメルだった。
「これ……」
深月が受け取ると、説き聞かせるように暁が口を開いた。
「すぐに意識のすべてが変えられるとは思っていない。だが、その都度に伝えるぐらいは俺にもできる。あのような理不尽に、君が憂う必要はないんだ」
いつも凛々しい声が、このときばかりは悲しげに揺れていた。
それがいたたまれなくて、沈んでいるだけの自分が恥ずかしくなる。
(……こんなことばかりじゃだめ)
キャラメルの包装を胸に抱き、深月は足の裏に力を込める。
これほど気遣ってくれる人を差し置いて、自分だけが鬱々としているのは申し訳ないし、とんでもなく失礼だ。
「ありがとうございます、暁さま」
彼女たちに反論はできなかったけれど、感謝の言葉は何度でも伝えられる。気持ちを切り替えた深月は、今日何度目かわからない『ありがとう』を言うのだった。
「これは少し汚れてしまったな」
暁は風に吹き飛ばされ拾いに行っていた手ぬぐいを深月に渡した。地面に落ちてしまったので、ところどころ薄汚れている。
「このぐらいでしたら」
汚れを気にして被りをやめるより、また知り合いに遭遇したときのほうが厄介だ。
そんな深月の心の機微を見透かすような暁の瞳が、ふと通りの店に向けられた。
店先に置かれた台には、不用心にも多くの簪や髪飾りが並んでいる。
「君には、無地の手ぬぐいよりも、こちらのほうが似合いそうだ」
暁の声とともに、耳の裏を冷たい感触がかすった。
しゃらん、と耳障りのいい音がして、深月は台の上にあった鏡を覗き込む。
「……え」
鏡に映る深月の髪には、真っ白な鈴蘭の花を模した簪が挿さっていた。
「治癒の礼に、これはどうだ?」
「だけど、簪は……」
「簪が、どうかしたのか?」
古い言い伝えに、簪は生涯添い遂げたいと思う女性に男性が贈るという風習があったらしい。女性間では有名な話なのだが、暁は知らないのだろうか。
いくら花嫁候補とはいえ、簪をいただくのはどうなのだろう。
あくまでも表向きの立場で、正式に彼の隣に並ぶ女性も出てくるはず。だとすれば、問題を避けるためにも簪のもらうのは遠慮したい……と、上っ面の理由を考えてみるが、なんだか胸に大きなものが引っかかっている。
「暁さまは、いつか本当の花嫁さまを迎えるつもりはないのですか?」
深月の問いに、暁の目が震えた。
「いない、誰も。それ以前に、俺には覚悟がないんだ」
特別な人を作る覚悟が。
言葉にこそしないが、暁の表情はそう告げているようだった。
深月の問いに『なぜそんな質問を?』と言いたげにした暁は、ふと影を落として静かに切り替えた。
「……無駄な話をした。気にしないでくれ。それより中に入ろう、その簪は君によく似合っている」
鈴蘭の簪がそっと髪から抜かれ、暁は何事もなかったように店の中へ入っていく。形容しがたい感情が胸に広がっていく感覚に、深月は思わず足を止めてしまった。
「僕は、こっちのほうが似合うと思うけどなぁ」
そのとき、すぐ横で軽快な声が聞こえた。なにか甘い香りが鼻をかすめる。
深月の横には、いつの間にか樺茶色の背広をまとう二十代半ばほどの青年が立っていた。
中折れ帽子の下から覗いた蒼色の瞳が深月を見捉えると、にっこり笑みを浮かべる。
「君って肌が白いし、目鼻立ちもいい。大きな一輪花のほうが魅力的じゃない?」
そう言って青年が手にしたのは、真っ赤な色をした花の髪飾りだった。
「知ってる? これはね、薔薇という名前の花。ふふ、君にぴったりだ」
謎の青年は、暁が挿したところと同じ箇所に髪飾りを添える。
「ほら、似合っているね」
帽子で陰る青年の顔は、ひどく青白い。絵画の中から出てきたように美しく繊細な顔立ちは、まるでそこに実在するのかを疑いたくなる違和感があった。
「どなた、ですか」
距離を縮める青年から一歩退いた深月は、警戒をあらわにする。
「僕はただの通りすがりの、そのへんにいる一般人だよ」
なんとも胡散臭い発言だ。それが顔に出ていたのか、蒼眼の青年はくすくすと笑みをこぼす。
「会えてよかったよ。君は、唯一の光だから。またね、深月」
「どうしてわたしの名前をっ――」
深月の言葉を遮るように、陣風が吹き荒れる。
視界が奪われ、風がやむ頃には、青年の姿は忽然と消えていた。
(いったい、なんだったの……?)
そうして呆気に取られた深月のもとに、暁が素早い足取りで戻ってくる。
「誰か、ここにいなかったか」
妙な気配を感じ取ったという暁に、深月は謎の青年のことを告げ、外出はおかしな空気のまま終了となった。
屋敷に戻った深月は鈴蘭の簪を渡され、そのあと暁は急用ができたからと忙しなく部屋を出ていった。気分転換にはなったものの、深月は最後に現れた青年が気がかりで仕方がなかった。
どこか浮世離れした存在の青年は、なぜ自分の名前を知っていたのだろう。
よくわからない事態は、立て続けに起こるものだ。
「わ、わたしには不相応な場所です……っ」
深月が夜会への出席を聞かされたのは、暁と中央区画に出かけた日から数日が過ぎた頃だった。
しかし、告げた暁本人も納得がいっていない様子で、深月は決して彼の意向ではないのだと悟った。
「実は、君をある人物に会わせろという指令があった」
(指令……?)
仰々しい単語に、深月は聞き返した。
「……ひとつ、お聞かせください。それは、誰のご指示なのですか」
部隊長である暁を御せる人間など限られてくる。
神妙な面持ちで視線を伏せた暁は、いまでにないくらい不安定な声音でつぶやいた。
「帝国軍参謀総長。俺の養父だ」
こうして深月は、意図が掴めないまま夜会へ参加することになった。
開催場所である華明館には馬車で向かい、正装服を着こなした暁も同乗していた。
彼の装いは、真夜中の色のような漆黒に近い暗青の上着と中着、共地の下穿き。同色の拝絹はなめらかな光沢があり、胸もとを飾る留め具や落ち着いた黒無地の靴など、全体的に品がありよく似合っていた。
整髪料が塗られた胡桃染の髪は、額から横にふわりと流されている。毛流れの些細な変化だというのに、それだけで特別感が増し、美丈夫に拍車がかかっていた。
(……本当に夜会へ行くだなんて)
暁の言葉が嘘だとは思わなかったが、正直いまも信じられない。
肌にまとわりつく薄藍色の洋装に息が詰まる。髪も化粧も『腕によりをかけなければ!』と張り切った朋代に整えられ、格好だけでいえば深月は西洋人となんら変わりなかった。
暁の養父――参謀総長は、いったい深月を誰に会わせたがっているのだろう。
まったく検討がつかない。
「……すまない」
小刻みに揺れる馬車の中、謝罪を述べた暁を凝視する。
「なぜ、暁さまが謝るのですか?」
夜会への出席が暁の意向ではないとわかっている。そしてうまく隠してはいるが、深月と同様に戸惑っているのは彼も同じだった。
参謀総長に不信感を持っていたとしても、暁にそれを向けるのはお門違いだ。
「君が部隊に身を置いてひと月近くになる。禾月の衝動もなく、人間性も鑑みて近いうちに軍から解放できる道もあると踏んではいたんだが」
(わたしはあなたの仇と同じ稀血なのに、そんなことを考えてくれていたの……?)
暁の思いを知り、深月の目がみるみると見開かれる。
危険性がなくても、治癒が扱えて、稀血の手がかりとなる深月を軍が手放すと考えるだろうか。
やはり彼は、最初から無慈悲な人間ではなかった。
だからこそ、心地のよさを感じてしまう。そして解放された自分を想像して、嬉しさよりも暁と離れることに一抹の寂しさが募っている。
(……わたし、いつの間にか暁さまをこんなにも信頼していたのね)
くすぶっていた感情の正体をようやく察した深月だが、それでもまだ腑に落ちない部分がある。それがまだ深月にはわからなかった。
「これまで暁さまは十分なほど誠実に接してくださいました。契約や花嫁候補だと聞いて、初めはもっと牢獄のような生活を想像していたので、とても感謝しているんです」
奉公の末に沈んでいた自分の感情について気づきを与えてくれたのも、彼である。だからきっとこの契約は、無駄ではなかった。
「君は……」
そうして浮かべた深月の表情に、暁は魅入ったように瞳を揺らした。
馬車が華明館に到着し、暁が差し出した手に自分の手を乗せ、深月は不慣れな動きで降りる。スカートの裾をたくし上げた瞬間、ふわりと花が咲くようにフリルが揺れた。
「…………」
「どうした?」
暁はふいに無言になった深月に尋ねる。
「いえ……こんなに綺麗な洋装なので、わたしで釣り合いがとれているのかが心配で」
この美しいドレスを含め、誰が見ても惚けるほどの夜会仕様となった暁に引け目を感じてしまう。彼の隣に立っても恥をかかせないでいられるだろうか。
朋代の準備は完璧だと思っているので、要するに深月の自信の問題だった。
「本当に、自覚がないのか……?」
自分のドレス姿を見下ろす深月に、暁は驚き入る。そして、掌に乗せた深月の手を引き、「君は綺麗だ」と短く答えた。
一拍遅れて心臓が大きく鳴り、深月はどぎまぎしながら歩みを進める。
ふと夜空から射し込む月の光に、動きを止めた。
(今夜は、満月なのね)
満月になると、悪鬼や自我の弱い禾月が理性を失いやすくなる。暁に負傷を負わせた禾月は、偃月であってもあの調子だった。
それ以上の光が今夜は地上に降り注ぐ。ゆえに、胸騒ぎがするのだろうか。
「……大丈夫か?」
「はい」
我に返った深月は、暁とともに華明館の扉をくぐる。
(緊張、しているみたい。当たり前よね、まさかわたしがこんな場所に来るなんて)
きっとそのせいだ。無性に喉が渇いて、仕方がないのは。
目の前に広がる絢爛豪華な光景に、深月は圧倒されていた。
天井に吊るされた大きなシャンデリア、音色を奏でる楽器隊、洗礼された身のこなしの給仕に、輝く銀色のカトラリー。
煌びやかな正装に袖を通す招待客らは、楽しげな様子で社交ダンスに興じている。
「あら、あちらは……朱凰暁さまでは?」
「あの若さで特命部隊隊長を務めるお方だわ」
「噂は耳にしていましたが、なんて麗しいお姿なの……」
「ところで、隣にいらっしゃる素敵な女性はどこの名家のご令嬢かしら」
大広間に足を踏み入れた深月と暁は、一斉に好奇の視線にさらされた。
暁の姿に頬を染める淑女がいる一方で、誰もが深月の存在を気にしている。
「……そういうことか」
大広間に入った瞬間、横に立つ暁の顔色が険しいものに変化した。とたんに腰を引き寄せられ、互いの息づかいがわかるほどに体が密着する。
「この夜会は、半数以上が禾月だ」
断言する暁に耳を疑った。
普通の人間と変わらない姿をしている参加者。深月には見分けがつかない。
有名な実業家や貿易商、由緒正しい旧華族や、新進気鋭の新華族など。顔ぶれはさまざまだった。
「禾月が、ここまで集うというのは……そうか、主催は――」
確か、主催者は不明と聞いていた。けれど暁は誰なのかを突き止めたらしく、周囲をくまなく警戒している。
「ここは禾月が多い。少し移動しよう」
一度、人が多い大広間から距離を取り、深月は赤々とした仕切りカーテンが吊るされた窓際のほうに近づいた。
「暁さま、ここの主催者がわかったのですか?」
「ああ、おそらくは――」
「深、月?」
暁がその名を言おうとしたところで、背後の丸テーブルに立って雑談していた女性が話しかけてきた。
振り返ると、豪奢な洋装を身にまとう麗子がそこにいた。
「どうして深月がここに……!?」
「麗子さん、こちらのお嬢さまはお知り合いですか?」
「え、ああ……」
敵意の炎を瞳に燃やしていた麗子だが、男性陣と談笑していたため、猫を被ったような微笑を作っていた。
「うちの女中でしたの。噂では縁談が白紙になって身を売ったと聞いていたのですけど」
麗子は扇子で顔半分を覆いながらころころと笑う。
深月の姿に気を取られていた男たちだが、その説明を聞くとまなざしがほんのり下賤なものに変わる。
「身売りとはかわいそうに」
「そのような方も華明館の敷居をまたげるとは驚きです」
「いやはや、それにしても身を売った女性を夜会のパートナーにする奇特な方と、ぜひお会いしたいものですね」
男たちの言葉の端々から嘲弄する意思が感じられる。
麗子と彼らの興味が、深月の後ろに向けられた。
どうやら仕切りカーテンが垂れていたせいで、誰も暁の顔を確認できていなかったらしい。こつこつと革靴の音を響かせながら、暁はカーテンの影から出てくる。
「誰のパートナーが、身を売った女性だと?」
麗子はその圧倒的な佇まいにごくりと息を呑む。
とたんに男たちの反応ががらりと変わった。
「え……朱凰暁さま……?」
「わたしをご存知でしたか」
暁はよそ行きの対応をしながら男たちを順に確認する。
「す、朱凰家……参謀総長のご子息です、よね?」
「ええ。もしや、軍関係者でしたか。よければお名前を」
暁が唇に薄い笑みをたたえると、男性陣の顔がいっせいに引きつった。
「あはは、そ、そんな畏れ多いです! 麗子さん、僕は急用を思い出したのでこれで」
「わたしも!」
「僕もです!」
暁の指摘は図星だったようだ。男たちは蜘蛛の子を散らすようその場からいなくなり、ぽかんと口を開けた麗子だけが残った。
けれどすぐに猫撫で声で暁に近づき、どんと深月の肩を押しのける。
「朱凰暁さま……お噂はかねがね。特命部隊隊長として帝都の治安維持に貢献する素晴らしい人だと。それなのに、なぜあなたのような方がこの下劣な子と一緒にいるんですか? 知っていますか、この子はうちの父が借金の肩代わりをしたにもかかわらず、父が用意した縁談を白紙にさせ実家に泥を塗った、恩を仇で返すような子なんですよ」
麗子は嬉々として深月を貶める言葉を並べる。
「……不愉快極まりないな」
そんな戯言に暁が相手をするわけもなく、彼は深月の肩を引き寄せた。
「俺の花嫁を侮辱することは許さない」
「暁さま……」
驚愕した深月の消え入りそうな声がその場に溶けて消えていく。
胸が震え、全身が痺れるような心地がした。顔を険しくゆがめた暁からは、物静かな振る舞いの中に確かな怒りが感じられる。
「……、……は、なに? ええ? はな、よめ?」
あまりの仰天に声が出せない麗子を置き去りにし、暁は深月をこの場から連れ出した。
「すまない、候補だった。言い忘れた」
放心したように彼を見つめる深月に、暁は気まずそうにした。照れ隠しなのか、肩を抱いて歩みを進める深月の顔をかたくなに見ない。
「君がうつむく必要はないからな」
麗子に心ない言葉を浴びせられ、また落ち込んでいると心配してくれたのだろうか。
暁は自分の大胆発言に動揺している。だからきっと、気づいていないのだろう。うつむいてなんかいない、深月は彼を見上げているのだから。
(わたしは、何度この優しい手に救われたんだろう)
肩に伝わるぬくもりを感じながら、深月は密かに思うのだった。
ふたりは大広間のほうへ戻ってきた。
麗子のそばにいるよりはいいが、ワルツを嗜む男女によって広間は先ほどよりも人口密度が高くなっている。
(……っ、どうしてこんなときに、動悸が)
華明館の扉をくぐったときよりもあきらかに強くなっていく渇求。心音も激しく刻まれていく。全身を脈打つ感覚が気持ち悪かった。
麗子を前にした緊張感が遅れて出てしまったのだろうか。
それでも周囲に醜態は見せられないと、深月は気取られずに背筋を伸ばして優雅に佇んだ。
異変が起こったのは、弦楽器の音が消える刹那のこと。
「きゃあああ!」
前触れもなく大広間の照明がすべて落ち、辺りは暗闇に包まれた。
突然の事態に騒ぎはどんどん大きくなり、入口めがけて人が押し寄せていく。
その波に揉まれて深月はよろけてしまうが、力強く暁が腕を掴んでくれた。
「俺はここにいる」
「はい」
安心したときだった。
「おいで、君を待っていたんだよ」
そのささやきは、深月に向けられる。
どこかで聞いた青年の声だった。
「暁さっ――」
「強引で申し訳ないけど、僕と一緒に来てくれる?」
最悪の状況が背後に迫っていると予感したとき、深月の首裏に冷たい手が下ろされる。
自分の意思に反して体の力が抜けていくのを感じながら、深月の瞳は重く閉じられていった。
見知らぬ一室。暗がりの中、石油ランプの灯火が揺れている。
深月は柔らかなソファに深く体を沈めており、こちらを覗く影に気づいて意識を取り戻した。
「ああ、起きたんだね、深月」
「あなた、は……」
そこにいたのは、街中で出くわした蒼眼の青年だった。以前のように帽子は被っておらず、艶やかな白銀の髪が彼の動きに合わせて揺れている。
「手荒な真似をしてごめんね。ああでもしないと暁くんから君を離すのは難しかったから」
「誰、ですか……どうして、わたしを……」
深月はかすかに痛む首裏に手をやりながら尋ね、相手は柔らかく笑んで答えた。
「僕は、白夜乃蒼。禾月の現首領だよ」
「禾月の首領……あなたが?」
「ふふ、そうだ。君をここに連れてきたのは、ある人から頼まれたというのもあるけど、僕自身が興味あってね。稀血である、君に」
獲物を捕獲する獣の如く見据えた瞳が、うっすらと淡い輝きをまとう。
金縛りのように手足の自由がきかなくなった深月は、されるがまま乃蒼に下あごをすくわれた。
「稀血というのはね、無限の可能性を秘めているんだ。通常の禾月以上の潜在能力を持ち、人間も禾月も屈服させ支配できる。禾月寄りの肉体かと思えば、流れる血は人間とは比べ物にならないほど芳しく、甘美」
けれど、と一拍置き、乃蒼は続ける。
「稀血の生存は、本来不可能とされていた。たとえ生まれてきても寿命は短く、生まれてすぐに息絶えてしまう。なぜだと思う?」
「…………」
深月の体がさらにこわばっていく。
寿命が短いというのも、生きるのが困難だというのも、初めて耳にする事実ばかりだったからだ。
「それはね、お互いの本能が邪魔をし合うからだよ。人間の本能、禾月の本能。体内の中で衝突し合い、本能が混じり合う際には暴走を起こしてしまう。そして、周囲を巻き込みながら死に至る」
それが稀血だ、とはっきりと告げられ、深月は恐ろしくなった。
「……あの人も親なんだね。息子にその役目を与えていたのに、やっぱり心配だったんだ。それで僕に回ってきた」
「なんの話、ですか」
脈略のない発言に不安がよぎる。
乃蒼は「うーん」と小首をひねり、そして深月をここに連れてきた本来の目的を明かした。
「いまから君に血を飲ませる。覚醒したとき暴走を起こせば、君には死んでもらわないといけない」
「えっ!?」
とんでもない発言を軽い調子で言われ、深月は短く声をあげた。
「今夜は満月。一番血が昂揚する日だ。ねえ、君も感じていたんじゃない? 喉が干上がる感覚、どこからか流れ込んでくる蜜のように甘い香りを」
「ど、どうしてそれを」
「その反応を見れば十分だ。簡単な話、それが禾月の本能だからだよ」
以降は言葉にする暇もなかった。
乃蒼は背広の胸ポケットから赤い液体が入る小瓶を取り出す。ふたを開け、目にも留まらぬ早さで深月の口に流し込んだ。
「……ん、う……あっ、ああ……!」
喉を潤す不思議な蜜。体温は沸騰するように熱くなり、頭のてっぺんから足の爪先まで、まさぐられるような感覚が貫いた。
「やだっ、なに、これ……嫌ああっ!!」
拒絶の叫びがこだまする。
深月は、自分の意思ではない別のなにかに支配されていった。
***
いなくなった深月を捜すべく、暁は華明館の廊下を奔走していた。
(なにをやっていたんだ俺は)
一瞬の出来事だった。暗闇の中で不意を突かれ、深月の腕から手を離してしまった。
深月は何者かによって連れ去られ、残された暁はわずかな気配をたどって館の中を捜索していたのである。
そして三階に移動したとき。
一番奥の部屋から感じる妖力に暁は眉をひそめた。
(あの部屋か)
この気配には覚えがある。狂人化し暴走した禾月と対峙したときの空気感と似ているのだ。
しかし、これは桁違いである。
「失礼する!」
扉を開けた暁は言葉を失った。
室内にはふたり。ひとりは扉側に立ち、ひとりは窓際でうずくまっている。
月明かりに照らされ呻吟する者が深月だと気づき、暁はすぐさま駆け寄ろうと動く。
だが、青年によって制止された。
「人間の君が近づけばひとたまりもない。周りを見てみなよ、これはあの子が一瞬でやったことだ」
青年の言葉に目を配る。
壁際には家具や調度品が散乱しており、台風でも通ったような有りさまである。
「……白夜家当主。街で彼女に接触したのも貴殿だな」
「君のお父上に頼まれてね、暁くん。この小瓶、心あたりあるよね?」
白夜家当主、現禾月の首領である乃蒼は、空になった小瓶を掲げた。
「……!」
それは深月を特命部隊に置くと決めた際に、本部の参謀総長から届いていたものと同じだった。
血を飲ませれば無理やりにでも覚醒を促せるかもしれないというのは、最初からわかっていた。
しかしそれは強制的に自我を手放す行為であり、小瓶を使う日があるなら深月に見切りをつけたとき、またはいつまで経っても有益な情報を得られなかったときだと考えていた。
深月は治癒の力を発揮してみせた。それは軍にとって有益な情報になり得るだろう。
それに彼女は、稀血という未知の存在である自分に困惑していた。暁の大切な者たちを奪った殺戮者とは真逆の、悲しいくらいに自分の意思を封じられた人間だった。
禾月の特性も出ず、暴走や昂揚といった覚醒、狂人化する予兆もなかった。
だから、暁は渡された小瓶を使えずにいた。使う気もなかった。
その結果が、これである。
参謀総長――養父は、血を飲ませることで無理やり本能を引き出し、暴走する可能性がある深月の対処を禾月の首領に委ねたのだ。
「小瓶の血をすべて飲ませたんだな」
「ああ。そうしたらすぐに暴走してね。もともと無自覚だったけど求血衝動もあったようだし、これは手がつけられ――」
「退け」
暁は乃蒼の横をすり抜け、深月のそばへ向かう。
「いやいや、なにしてるの。その子は暴走しているんだよ。普通の禾月が狂人化するのとはわけが違う。ああなったら、もう正気には――」
「誰が暴走しているだと?」
暁は振り返り、乃蒼を一瞥した。
「暴走しているというなら、すでに俺は襲いかかられてもおかしくない」
そう言った暁は、ゆっくりと深月に近づいていく。
「彼女はいままさに、両者の狭間でもがいている。身を削って理性を保とうとしている。必死に抗っているんだ」
覚醒の影響だろうか。灰色に近い黒髪は星の粒を取り込んだように煌めき、鈍色の瞳が青紫に変わって淡く発光している。
その姿は狂おしくも、寒さに耐え抜く花のような儚い美しさがあった。
「あ、うう……あああっ」
肩を上下にしながら呼吸を繰り返し、床に爪を立てるさまは、怯えた猫のようにも見える。
「深月」
その名を呼ぶ。自我を失いかけた瞳に、わずかな反応が浮かんだ。
***
ひどく優しげな声だった。
深月は沈みいっていた沼の底から這い上がるように、意識を浮上させる。
(……わたしを、呼んでいる)
体が焼けるように熱い。
ぼんやりとした視界の先には、暁の姿があった。彼は片膝をつき、懸命に深月を呼びかけている。
応えたいのに体の自由がきかない。四肢がずたずたに引き裂かれるような激痛が繰り返し襲い、そこから逃れたくて深月は甘い芳香にすがろうとする。
(だめ、だめっ……!)
深月はすんでのところで抑える。このまますがってしまえば、なにかが壊れる気がした。ゆえに奥歯を食いしばり、懸命に耐え続ける。
そんな深月の耳に届くのは、暁の言葉だった。
「深月、君はどうしたい」
(どう……したい?)
「この先、なにになりたい」
(なに、に……?)
「なにを強く願いたい」
(願う?)
「ほかの誰でもない。選ぶんだ、君が」
これまで奪取され続けていた人生の選択。暁はまさにいま、深月にだけ取れる選択肢を委ねていた。
そのとき、深月が着用するドレスの胸もとから、鈴蘭の簪がぽろりと落ちる。
密かに御守りとしてもってきていたもの。そして養父の組紐も手首で輝いている。
大切なものが増えた。これらは深月の、手放したくない繋がりだ。
(わたし……)
しゃらん、と視界の端に簪が映れば、遠のいていた自我が徐々に戻っていく。
(わたし、は……)
自分にはなにもないと思っていた。人生を選べる権利はなく、いつの間にか麗子や大旦那に従うだけの日々だった。
深月は、いつも考えていた。
なにもない自分が、特別ななにかになる日は来るのだろうか。未来の指針もなく無気力な自分が、生きたいと思える〝なにか〟に出逢える日は来るのだろうか、と。
(違う。決めるのは、わたしだ)
受け身になるのではなく、それらを選ぶのは深月だ。
忘れかけていた人生の重要な岐路と、意思の選択。それを思い出させてくれたのは、暁と過ごした短くとも穏やかな時間だった。
(わたしは、ほかの誰でもない、わたしになりたい)
人間、禾月、稀血。
そんな言葉でくくるのではなく、わたしは、ただわたしでいたい。そして、あわよくば……。
「わたしは、あなたの特別になりたい」
彼を信頼している。そう思った自分の心に嘘はなかった。
けれど、それだけではなかったのだ。
恋なのか、憧れなのか。初めての感情ばかりで強く断言はできないけれど。
気づけば、惹かれていた、焦がれていた。
いつだって自分を貫く、いままで出逢ったことがない、彼に。
「……暁、さま」
ぼやけていた視界の先で、今度こそはっきりとその顔が映る。
澄み渡る淡黄の瞳、真っすぐなまなざし。彼の気配を身近に感じて、深月はほっとしながらまぶたを下ろした。
***
「……深月?」
声をあげて気持ちを打ち明けた深月は、暁と目が合ったとたん糸が切れたように前に倒れ込んだ。
抱きとめた暁はそっと背中に手を回し、深月の上体を仰向けにして様子を確かめる。
暴走の影響による疲労が一気に出たのか、深月は気を失っていた。
手にはしっかりと鈴蘭の簪を握りしめ、眠るように規則的な呼吸を繰り返す様子に、ひとまず心配はいらなそうだと安堵する。
「よく、戻ってきたな」
ささやくように言った暁は、涙に濡れた深月の目もとを優しく拭う。
気を失う前に放ったあの言葉は、確実に本人のものだった。
深月は自分の心のままに、強い意思によって正気を取り戻せたのである。
「まさか、君の声だけでおさまったっていうのかい……?」
事の顛末を見守っていた乃蒼は瞠目してつぶやいた。
稀血の暴走……しかも生まれて初めてあれだけの血を摂取したなら、拒絶反応や衝動も凄まじいはずなのに重傷者を出さず済んでしまった。
「白夜家当主、今日のところはこれで失礼する」
深月を抱きかかえた暁は、乃蒼を一瞥して静かに告げた。
「禾月も肝を冷やす鬼の軍人さんが、責務とはいえ随分その子を大切にしているんだね。いや、さっきの言葉を借りるなら、特別なのかな?」
まるで壊れ物にでも触れるように恭しく深月を運んでいる暁の様子に、意外そうな面持ちで乃蒼が言った。
その問いに暁が答えることはなかったが、去り際にもう一度深月をしっかり抱え直した。
***
華明館での一夜から七日が経過し、深月は自分の出生について諜報部隊の報告書をもとに暁から順序立てて聞かされた。
【諜報部隊による『稀血』の追加調査結果。
出生地は帝都南西の廃村。
母親を禾月、父親を人間に持つ〝白夜深月〟は、禾月本家である白夜家の内乱に巻き込まれ、十九年前に消息を絶つ。
養父は元帝国軍諜報部隊所属の東貴一。
東は名を貴一と改めたのち、白夜深月に生活援助をおこなっていた。また白夜深月の両親とは旧知の仲で、帝国軍を辞職後に幼児期の白夜深月を引き取ったものと推測される。
禾月現首領、白夜乃蒼と白夜深月は従兄妹関係にある。白夜乃蒼の華明館一件への加担は、暴走時の処理を目的としたものではなく、救済であった。
稀血による暴走は一度自我を失えば正気に戻すことは不可能とされていたが、白夜深月は例外である。
一名の軽傷者が出たものの、現在は極めて平静。白夜家の血筋であることを考慮し、要監視対象から特命部隊預かりとし、引き続き身柄の保護を継続する。
また、奉公先であった庵楽堂店主の借金肩代わりの件だが――】
(まさか、借金の肩代わりが嘘だったなんて……)
大旦那は深月に、養父の借金を肩代わりしたのは自分だと主張していた。しかしそれはすべて虚偽であり、実際のところは養父が、庵楽堂が抱えていた負債を私財を用いて援助していたという。
ふたりの関係性はいまのところ不明な点が多いが、お人好しである貴一の温情につけ込み、本来深月にあてていた私財も窃取したとされている。
養父である貴一の死の原因は、狂人化した禾月により重傷を負ったものと考えられ、いまのところ諜報時代の恨みを買った可能性が高いという。
信じられないような事実ばかりだが、両親について知れたのは思いがけない幸運だった。
「大変だったね。僕が早くに見つけていたら、深月に苦労を強いることもなかったのに」
特命部隊本拠地。別邸の執務室には、深月と暁、そしてなぜか乃蒼がいる。
「白夜さんは、わたしの従兄なんですよね?」
「そうだよ。白夜さんだなんて他人行儀だな。一応、血筋でいえば君も白夜の者なんだから、気軽に乃蒼って呼んでよ」
母親が白夜家の者だと知ったばかりで、さすがの深月もすぐには順応できない。乃蒼が従兄妹だとしても、気軽に呼ぶのは抵抗があった。
「それで、あなたはどんな要件があってここまで来たんだ」
深月の隣に座る仏頂面の暁が、乃蒼をじっと見る。
「嫌だな、暁くん。僕は深月の様子が気になっただけで、決して喧嘩を売りに来たわけじゃないんだ。だから、その野良禾月に向けるような目はやめておくれよ」
禾月は、二種類に分かれるのだという。白夜家に服従する禾月と、そうではない野良禾月。特命部隊が日々討伐しているのは、この野良禾月であり、乃蒼はそいつらと一緒にされるのは心外だと抗議した。
「僕だってね、困っているんだよ。従属外の禾月が好き勝手に人間を襲うたび、立場は悪くなる一方でさ」
白夜家の支配下にない禾月が暴走すれば特命部隊が討伐し、それは禾月首領により容認されている。
聞けば聞くほどなんともおかしな関係性だが、それにより今もふたつの種族は均衡を保ち帝都にて共存ができているのだ。
「まあ、だから……稀血である深月が持つ支配力は、僕らにとっても唯一の光だと考えていたわけだけど。覚醒はしても、能力は治癒しか発現していないようだし、ひとまずそれに頼るのはやめるとするよ」
乃蒼の目的は、血によって覚醒し暴走した深月を表向きは屠ったようにごまかして、白夜家に連れ帰ることだった。
しかし暁が言葉だけで深月を正気に戻したため、いまもこうして特命部隊の本拠地に身を置く状況が続いていた。
深月が暴走時に暁の声を聞けたのも、彼と過ごした時間と信頼によって成り立ったものであり、彼がそばにいたからこそうまく自我を取り戻し、深月は自分を律することに成功した。意思ある選択をとれたのだった。
「暁くんのお父上に睨まれるのも厄介だからね、しばらく深月は特命部隊でお願いするけど……深月、なにかあればすぐに連絡をおくれ。そのときは禾月首領の名を行使して、君を正式に白夜家に迎え入れるから」
飄々とした口調で掴みどころがない印象の乃蒼だが、その目は真剣に深月を見捉える。このときばかりは禾月の首領としての威厳と器が垣間見えたような気がした。
「……乃蒼さん、ありがとうございます」
乃蒼の言葉は、あくまでも自分を尊重してくれているのが伝わってくる。白夜家に行くという考えはないけれど、その気持ちが嬉しくて深月は素直に感謝を述べた。
ほどなくして、乃蒼は「また来るよ」と言い残し、中折れ帽子を深く被って邸を去っていった。
稀血と違って、通常の禾月は陽の光に弱い。それは禾月の始祖であり、闇夜を生きるあやかしの性質が色濃く反映されているせいだというが、にもかかわらず深月に会いに来てくれた。彼もまた、深月を案じるひとりなのだろう。
乃蒼が帰ったあと、深月は暁と一緒に東区画の庵楽堂を訪ねた。
店の前は人だかりができており、そのほとんどが野次馬だった。
深月が庵楽堂にきた理由。それはこれから取り潰しになるという話を聞きつけ、家屋の物置小屋に置いていた数少ない深月の私物を取りに来たからである。
突然の話に深月も驚いたが、庵楽堂は大旦那のこれまでの違法な金策や詐欺行為が明るみになり、権利と名誉、土地のすべても没収されることになったのだ。
店の裏手から家屋を繋ぐ表門をくぐると、ほとんど人の気配はなく静まり返っていた。
大旦那と女将は違法賭博の件で事情聴取のため警吏に連行されたと聞いていたので、人がいなくてもあまり驚きはしなかった。
物置小屋に向かっていれば、少しくたびれた顔をした麗子と、それに付き添う女中たちと鉢合わせた。
「深月、あんた……!! ……暁さま!」
深月を鋭い目つきで射抜いた麗子は、すぐに向きを変え、隣に立つ暁に駆け寄っていった。
「暁さま! この女もそう呼んでいたでしょう?」
暁は馴れ馴れしく触れてこようとする麗子を一瞥すると、わかりやすく顔をしかめた。
「あたしは女学校も出ています。深月なんかより社交性はありますし、茶道、華道、舞に琴も嗜みました」
「……なんの話だ?」
「この女よりもあなたの花嫁にふさわしいのは、あたしだと申し上げているんです!」
そういえば、暁は夜会のとき深月を『俺の花嫁』と断言していた。
たんに『候補』を言い忘れていただけなのだが、こうしてふたり並んだ姿をふたたび目にして、真実だと勘違いしたようだ。
「深月よりも軍人の妻として、華族の伴侶として振る舞える自信があります! なによりもあたしのほうが美しくて、そばに置くなら絶対に――」
「少しは静かにできないのか」
とうとう我慢ならなくなった暁は、言葉を遮り射殺すようなまなざしで麗子を見下ろした。その苛立った感情が向けられていない深月も底冷えするような威圧感に、麗子とそばにいた女中が「ひっ」と短い悲鳴をあげる。
「どれだけ愚行をさらしてうぬぼれようが、傲ろうが、勝手にすればいい。おまえの言葉などひとつも耳には残らない。心底どうでもいい。だが」
一歩前に動いた暁は、腹の底から響かせた声で、静かに告げた。
「彼女の侮辱をひとつでもこの先口にしてみろ、そのときは――」
暁は腰に携えた童天丸に触れ、なにかをした。
なにかをした、と曖昧になってしまったのは、彼が童天丸に触れた瞬間にかすかな妖力を感じ、麗子や女中らが揃って腰を抜かし怯えたからだ。
深月にはぼんやりとしか見えなかったけれど、おそらく暁は軽い幻覚を生み出して脅かしたのだろう。そうとは知らない麗子や女中たちは、彼を見上げたまま立ち上がれなくなっていた。
そんな麗子の前に佇んだ深月は、冷静な面持ちで告げた。
「……長年置いてくださって心から感謝しています。どうかお元気で。さようなら、麗子さん」
一ノ宮家の別邸では、堂々と別れを告げられなかった。だけどもう、深月が恐れることはない。
深月の中にあった安楽堂での日々や思いは、すでに昇華されていたのだった。
「暁さま。付き添い、ありがとうございました」
「かまわない。それより、あの場所で寝起きしていたとは……」
特命部隊本部に戻ってきた深月と暁は、執務室でひと息つく。
暁は深月が使っていた物置小屋のボロさに驚愕しており、帰ってきても余韻が抜けないのか悔しそうな表情をしていた。
「雨風はしのげていたので……」
「隙間は多いし雨漏りしていただろう」
納得がいかない暁の横顔に、深月の心がふわりと温かくなる。
「暁さま……」
それから深月は、彼が座るソファの隣に腰を下ろし、改めて謝意を述べた。
「このたびは本当にありがとうございました。そして、お怪我を負わせてしまい、申し訳ございません」
「もう何度も聞いた。これぐらいかまわない」
暁は「耳にたこだ」と口角を上げる。
彼の頬や首、腕には引っかき傷が多くある。記憶にないのだが、暴走した深月がつけたものらしい。
「それと、あのとき……わたし、特別になりたいと言っていたと思うんですが」
「…………」
恥じらって膝に視線を落とした深月を、暁は無言であごを引きながら見つめた。
「自分でも夢中で……すみません」
「なぜ謝るんだ?」
暁は肩をすぼめ、横から顔を覗き込んでくる。
反射的に仰け反ってしまう深月だが、暁は気にせず答えを待っていた。
「暁さまを治癒したとき、聞いてしまったんです。暁さまのご家族や近しい方々が稀血によって殺されてしまったと」
「……ああ、そうだな。蘭士から聞いたのか。それで?」
「わたしも稀血です。暁さまにとってはいろいろと複雑でしょうから。と、特別になりたいだなんて突然そんなこと言われてもご迷惑でしょうし。だから、わたしの発言は気にしないでいただけると……」
言葉がまとまらないまま口にしてしまい、深月はいますぐにでも穴を掘って隠れたい衝動に駆られた。
「もしや、朋代さんから聞いていた、君が部屋で考え込んでいたという理由はそれだったのか?」
「そうですね。あのときは初めて見た禾月に動揺してしまい、同時に暁さまの仇が稀血だと知って、負い目を感じていました」
「確かに身内は稀血に殺された。いまでも許せないし、行方を探している。だから君と初めて会ったときも私情がかなり入っていた。だが……君は違う。迷惑だとも俺は思わなかった」
感情の戸惑いが、口調から伝わってくる。特命部隊隊長としてではなく、女性を前にして不慣れな彼の仕草に、深月はそっと顔を上げた。
「いや……その前に、確認させてほしい」
また、きりっと眉とまぶたを近くして、軍人らしい凛々しい顔つきになる。
なんだか出会った当初にもそんなふうに言われたような。
深月がうなずくと、暁は居住まいを正した。
「帝国軍は君の身柄を引き続き特命部隊預かりにすると決めている。君の身柄の保護は軍にとって好都合だということだ。だが、そこに君の意思は含まれていない。君は以前と違って自分の意思でこの先を選べる。暴走にも打ち勝った。どんな存在だろうと、君の未来は君が選択して取るべきだ。だから確認させてほしい。特命部隊に身を置くか、それともほかに場所が――」
「わたしはここがいいです。この先もここに。猫ちゃんも特命部隊で飼うことになって、名付けを任されました。朋代さん、不知火さん、羽鳥さんとも、少しずつ仲良くさせていただいて、なにより暁さまがいてくれます。ここがわたしの、いたいと願う居場所です」
暁が最後まで話すよりも先に、深月は答えていた。
彼は食い気味に声を出した深月をおかしそうに見つめている。
「なら、改めて俺個人として言わせてくれ」
暁の表情が和らぐ。
深月を見つめて、彼らしく真摯に告げてくる。
「ここにいてくれないか。これまでと変わらず花嫁として」
「……契約ですか?」
聞き返すと、暁はほんのり眉を下げた。
稀血の情報は相変わらず秘匿にされている。これからも特命部隊で過ごすなら、表向きの立場が必要だ。
「そうだな……君以外にはしない、契約だ」
少しばかり緊張した様子で、それでも暁は一心に告げる。
出会ってすぐの頃は恐ろしくもあった彼が、信頼を置ける人になった。
あのときは深月に選べる余地がなかった。けれどいまはすべてが違う。深月自身も、お互いが抱いている心象と、ふたりの関係も。
「……はい、よろしくお願いします」
丹精込めて咲いた花のように、深月は微笑んだ。
互いに不慣れな感情に翻弄され、しかし本当の意味ではまだ、気がついていない。
それでも深月は思う。
彼の美しい顔がいままでにない新たな表情を作るたび、胸が躍る。
あの夜の暴走で、この体は稀血として覚醒した。だけど禾月の特性を思い出し、月の光が怖いと感じるようになっても、同様の色をした彼の瞳を見れば心が穏やかになっていく。
そしてこの時間も、特別になっている。
深月が無言のまま頬を緩めると、暁は不思議そうにしながらも笑みを返した。
「君の笑顔は、何度でも見たくなる」
なにもない自分が見つけた導。
暁の優しい満月のような瞳に、深月は愛おしさを感じるのだった。
このときは、まだ想像もつかない未来。
いつか最愛になるふたりが、初めての恋を自覚した。
淡い想いをまとわせる貴重なひととき。
窓辺に落ちたうららかな日差しは、次の季節を予感させる。
耐えるばかりだった寒い冬は終わりを告げ、彼らに訪れようとしているのは、これまでとはあきらかに違った新しい日々。
春は、もうすぐそこまで来ていた。
完