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翌日、朝食からしばらく時間が経ったあとで深月は執務室に呼ばれた。
入室すると、本棚の前で書物を開いている暁の姿が目に飛び込んできた。
「暁さま……?」
執務室に呼び出されたので、もしやと少しは考えていたけれど、目覚めた昨日の今日で平然と立っている彼に疑いの目が向く。
「もう起きて大丈夫ですか? お体はよろしいのですか……?」
「ああ、問題ない」
暁に無理をしている様子はない。治癒をした日よりも数段に顔色がよくなっており、本当に体調が回復したのだとほっとした。
「君が治癒の力を使ってくれたんだろう? おかげで助かった、ありがとう」
こちらを窺う暁の視線に、深月の肩が震えた。お礼をされるとは夢にも思わなかったのだ。
「どうして、ですか。わたしのせいで、怪我をさせてしまったのに」
「それはこちらの落ち度だ。君のせいではないし、俺の怪我を治してくれた君に礼を伝えるのは当然だろう」
柔和な目がこちらを見ている。
助けてくれたときと同じように、彼は深月を咎めなかった。ただ、穏やかに諭すだけ。
「今回は極めて稀だが、夜中にひとりで外に出るのは控えてくれ。いざというとき、君を守るのが遅れてしまう」
「……っ、申し訳、ございませんでした」
深月は腰を折って深々と頭を下げた。もうこんな事態を起こさないように、けじめの意味も込めて謝罪をする。
深月の気持ちを受け入れた暁は、もうそのぐらいで大丈夫だと言うように深月の肩に触れた。
見上げて、いまさらだけど目を合わせづらくなってしまう。暁と稀血の関係性を聞いてしまったことが、尾を引いているのだ。
「それと、君には治癒の件でひとつ聞きたかったんだが」
「なんでしょうか……?」
気まずさは常にあったが、深月は内容を確かめる。
「君がしてくれたという治癒の方法を教えてくれないか」
「わたしがした、治癒の方法ですか……?」
「ああ」
うなずいた暁に、深月はしばし沈黙してから聞き返した。
「……不知火さんか、羽鳥さまからお聞きになったのでは?」
「そのあたりに関してはまだだ」
治癒の細かい詳細は本人の証言が一番確実だと考え、暁は深月に説明を求めた。
ふたりともあえて自分たちの口からは言わなかったのか、偶然なのかは定かではないけれど、言葉にしようとすると妙な気恥ずかしさを覚えた。
唾液を介して妖力を流し、治癒を促す。簡単にまとめると早いのだが、そこには深月の動作も加わるわけで……。
いま思うと、男の人の肌に口をつけるとは、なんて大胆な真似をしてしまったのだろう。
(それしか方法はなかったもの。考えている暇もなくて……)
そうわかってはいても、いざ口にしようとすると、耳のつけ根辺りが熱くなる。
だが、暁は報告を求めているだけにすぎない。遅れてやってきた自分の羞恥心などは無視してありのままを伝えるべきだ。
覚悟を決めた深月は、その澄んだ満月のような瞳を見返した。
「唾液をつけることが必要だと教えてもらいましたので、傷に口づけました」
「傷に口を……?」
深月の目線が暁の首もと辺りに注がれた。
ちょうどあの辺りだっただろうかと、自分の首もとに触れて暁に見せる。
「だいたいこのへんでした。しばらく触れていたら、するすると肌がもとに戻り始めて……暁さま?」
深月は説明を中断して暁に呼びかけた。先ほど自分の指で示した口づけ場所を、暁が自分の手で確認するように触れて固まってしまったからである。
「暁さま、大丈夫ですか……?」
体調が優れないのかと様子を窺っていると、暁は珍しく動揺を含んだ声で言った。
「こんなところに口づけて、問題なかったのか」
「は、はい。なにも」
「……そうか。そのような真似をさせてすまない」
長い溜めのあとで、暁はぽつりとつぶやく。ふいっとそらした横顔が新鮮で、つい魅入ってしまった。
(……暁さま、もしかして照れている?)
頬が朱に染まっているのはなにかの勘違いだろうか。
しかしずっと観察しても色味は引かずにそこにある。
(わ、わたしまで恥ずかしくなってきた)
あれは必要な過程だった。だけど肌に口づけるというのは、したほうもされたほうも恥ずかしさが伴うもので。
状況を伝えるただの報告だったはずが、面映ゆい空気になってしまった。
それから、妙な空気を払拭するように暁が話題を変えた。
「……三日間、非番になったんだ」
「あ、お休みをいただいたんですね」
傷は治ったが安静にさせるため不知火が休ませたという話をされる。
いきなりなにを言い始めるのかと思えば、暁が本題を口にした。
「街に、出かけないか」
「……街、ですか?」
「ああ、気分転換に。ここ数日、塞ぎがちになっていると聞いた」
暁からそんな発言が出るのが意外だったが、朋代から様子を聞いたのなら納得だ。
暁の負傷から久しぶりに日中を部屋で過ごしていた深月は、確かになにをするでもなく物思いにふけっていることが多くなっていた。
それを聞きつけ、暁はこんな提案をしてくれたのである。
律儀な人だ。こんときにも自分を花嫁候補として扱い、出かけようと提案してくれるのだから。
これもきっと彼の職務の一環なのだろうけど、彼の非番を使わせてしまっていいのだろうか。稀血との因果関係を知ったいまでは、遠慮のほかに負い目のようなものも感じてしまっていた。
「――だが、いまからでもかまわない」
「はい……」
「わかった。では、行こう」
「……はい?」
考え事をしているうちに、なにか話が進んでいたようだ。
無意識とは恐ろしい。まったく会話が耳に入っていなくても、しっかり深月は相槌を打っていた。
「この格好では目立つから、少し着替えてくる。朋代さんにもすぐに伝えよう」
深月が我に返ったときにはすでに暁は扉の前に移動し、取っ手を回しているところだった。