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 順調そのものだった受験勉強だが、秋の半ばを迎えたあたりで私は一つの壁に当たった。
 
「前回よりも成績が落ちてしまったね」

 向かい側に座る誠が重い雰囲気で話し始める。カウンターを挟んでの会話。私たちの間には10月に行われた模試の結果が置かれていた。二次試験を意識して作られた記述テスト。そこで私の成績は合格ギリギリのラインだった。

 これだけ見ればそんなに落ち込むことはない。
 しかし、夏頃に行われた同じ模試では私は合格圏内上位という余裕を持った成績だった。それがここ2ヶ月間で合格ギリギリになったのだ。

 理由は明白。夏を経ての現役生の飛躍的成績の向上。それから私の成績衰退。
 2回目の受験に対するプレッシャーは相当なものだった。良い結果が残せなければ、また地獄の日々を繰り返さなければならないという不安に気を取られて思うように解くことができなかった。

 本番まで残り4ヶ月。共通テストの勉強があるため二次の勉強は実質2ヶ月くらいだろう。それまでに悪い部分を克服して、成績の衰退を防がなければならない。

「でも、前の模試で悪かったところはちゃんとできている。この調子で克服していこう」

 誠は私を勇気づけるように励ましてくれた。
 だが、問題はそこではない。そして、それは誠も気付いているはずだ。そこに目を背けたことが私としては許し難かった。

「なにが『克服していこう』よ。今回成績が悪かった場所は前回まで成績が良かった場所なの。こんなのどれだけ頑張ってもキリがないじゃない」

 まるで老朽化した排水溝のように水漏れを修復していたら、別のところで水漏れが発生するみたいな感覚だった。修復しても修復してもこぼれていく記憶という名の水に、どう対処して良いか分からなかった。

「キリはあるよ。全て克服してしまえば、いつかは必ず良い結果を残せる」
「いつかっていつよ。残り4ヶ月だよ。もし、今年勉強したところをまた取りこぼしたら一生かけても克服できないじゃない」

 表面張力の限界まで注がれた感情の容器に、大きな不安が侵食して溢れていく。溢れ出る感情が抑えきれず、呼吸が乱れていくのを感じた。

「大体、あんたが私にくれた参考書が悪いの。あれで勉強していたから成績が落ちたんだ」

 当たりたくないものに当たってしまう。自分のせいにしてしまっては気持ちが保たないと思ったのだ。誠は私を哀しげな目で見つめる。それが私を一層苛立たせた。

「高みの見物のつもり。一緒に頑張って受かろうって約束して、あんただけ受かって。待ってるみたいな風を装って私を蔑んでいるんでしょ!」

 荒れ狂う自分の中で俯瞰している自分がいる。私は最低な人間だ。人の善意を悪意だと決めつけて八つ当たりしている。こんなことしてなにになるんだって話なのに。

「あんたよりも私の方がずっとずっと強い思いで頑張ってきたんだ。それを『私が受けるなら、俺も受ける』っていう軽い気持ちで受けて、受かって。得意げに私を応援するなんて言って。ほんとーに、最低!!」

 最後の最後に頭に浮かんだ最悪な言葉。頭ではどうにかして押さえ込みたかった。一時の感情に任せて発してはいけない言葉だったのだ。でも、抑えきれない思いの揺れが、感情の海を波立たせ、容器から溢れさせる。

「あんたなんかと『恋人』にならなければ良かった……」

 私はそう言って目尻に溜まった涙を流すと、なにも持たぬまま勢いに任せて受講室から出ていった。