いつの間にか窓から差し込む日差しが、すっかりと西の空へと沈んでしまった。

 窓の外に映る景色は、教室内の光がなければ真っ暗だろう。他の生徒が歩いていただけでも、思わずびっくりして声が出てしまいそうだ。

「はぁ〜、疲れた。ありがと、練習に付き合ってくれて!」

「うん。満足できたの?」

「もっちろん!これなら、本番も大丈夫そうだし」

「まだ入試本番まではそれなりに時間あるよね?」

「うん。だから、それまで付き合ってね。お願い!」

「わかったよ。とりあえず、今日は帰ろう。颯もだいぶ待たせちゃったし」

「そうだね。あ、着替えるからちょっと待ってて」

 予想以上に面接練習の時間は長かったらしい。壁にかけれられている時計を見ると、すでに練習を始めてから2時間弱経過していた。

 僕の体感的には、30分もしていないように感じた。それも全て彼女の言動によるもののせいで、終始考えながら練習に付き合っていたからなのだが...

「え、ちょっと待って。ここで着替えるの?」

「うん。そうだよ。別に上から着るだけだから、心配はいらないよ。あ、それとも見たかった?」

「ち、違うよ!」

「ふーん。ちょっと顔赤くなってるけどね。あ、着替える前にトイレ行ってくる〜」

 彼女がいなくなった教室は、すぐに静寂と化す。両頬に手を当ててみると、若干だが熱を持っていた。別に見たかったわけじゃないのに...

 体が水分を欲していたので、教室を出て自販機に飲み物を買いに行く。電気はついているものの、ほぼ真っ暗に近い状態の廊下。

 歩くたびに上靴と床が擦れる音だけが、長く伸びる廊下に反響し続ける。

 もし、誰かが突然廊下に姿を現したら、驚いて尻餅でもついてしまうだろう。現にその可能性もありそうで、少しだけ怖い。

 ようやく見えてきた自販機の明かりに、ホッとしてしまう。暗闇の中に差す一筋の光。まるで、僕を呼んでいるかのようにも感じられる。

「おぉ、もう冬が近いからあったかい飲み物もあるんだ」

「何飲むの?」

「ん?そうだな、オレンジジュースか・・・うわぁぁぁ!!!」

 肩に誰かの手が置かれている。それに、声まではっきりと聞こえてしまった。もしかして...隣にいるのは幽霊だったりするのだろうか。

 恐る恐る横目で隣を見る。自販機の明かりに照らされ、うっすらと顔が浮かび上がる。

「何そんなに驚いてるの!」

 彩音だった。楽しそうに僕を笑う彼女は眩しい。決して自販機の明かりではない。彼女が持つ本来の明るさが、僕を照らすように笑いかける。

 品のない笑い方だとは、口が裂けても言えないけれど。

「び、びっくりさせないでよ」

「えー、だって姿が見えたからついて行こうと思って」

「てか、まだ着替えてないじゃん!」

「これから着替えるよ。それよりも本当に誰もいないね」

 僕らの他に人がいる気配は全くない。球技大会の放課後ということもあって、みんなすぐに帰ってしまった。当然、今日は部活動は休み。後輩たちも校内には残ってはいないだろう。

「何か飲む?」

「うん。じゃあ、ホットレモンがいいな」

 自販機に130円入れ、点灯するボタンを押す。ガタンっと落ちる音が、静かな廊下の奥の方まで響いて聞こえる。

 彼女にホットレモンを手渡す。カチッと音とともに彼女の唇が、ペットボトルの口部分に柔らかく触れる。ホットレモンが彼女の口へと流れ込んでいく。

 そんな些細なことですら、色っぽいと思ってしまう僕はどうかしている。

「原くんは、オレンジジュース?」

「んー、寒くなってきたから僕もホットレモンにしようかな」

「じゃあさ、これ2人で飲む?」

「えっ・・・」

 僕とは目を合わせず、俯いている彼女。自販機の明かりが、彼女の顔を照らす。ほんのり赤みがかかった頬が垣間見える。

 言葉なしに彼女の手から手渡されるホットレモン。彼女の熱なのか、ホットレモンの熱なのかわからないが、優しい温かさが僕の手を包み込む。

 キャップを軽く捻り、唇が触れるか触れないかギリギリのラインでホットレモンを口の中へ含む。

 瞬時に口の中いっぱいに広がるレモンの香り。直接的ではないが、ファーストキスはレモンの味というのはこういうことなのだろう。

 酸っぱくもほのかに甘い口どけ。すぐには消えず、うっすらと口の中を彩り続ける。

「あ、ありがとう」

 僕が本当に飲んだことに驚いているのか、声を発さずジッとこちらを見つめる彼女。

 どこを見ているのか、全く目が合わない。ペットボトル2本分くらいの距離しか、僕らの間には存在しない。ほんのりと彼女から香るレモン風味の匂いが、僕の熱をさらに高める。

「ねぇ」

「ん?」

 唇にそっと触れた柔らかな感触。さっきよりもさらにレモンの香りが強まっていく。

 息ができなかった。息を吸うほどの余裕すら、僕にはなかったんだ。好きな人に口を塞がれることで、僕は息の吸い方すら忘れてしまっていた。

 ゆっくりと重なり合った唇が離れていく。鼻から空気を吸い込むとレモンの香りは消えてしまっていた。

「レモンの味だったね」

 そう言い残し、彼女は1人教室の明かりが漏れ出す方へと歩いて行ってしまった。残された僕には、レモンの味と彼女が廊下を歩く音だけをただ感じていた。