「毎日こんな事をし続けるよりも面と向かって会った方が幾分も良いと、私は思うけどね」
 下から聞こえた艶やかな声に、俺は苦々しく舌を打った。
 そして俺が言葉を発する前に、奴はとんとんと軽やかに飛びながら枝を移り、俺が居る枝にストンッと着地する。
 枝の上に奴は平然と立ち、俺を一瞥する事もなく俺が眺めていたものに目を向けた。
 いや、もの・・ではない。地面に枝で文字を書き、その文字を眩い笑顔で人間のガキ共に教えている女。千代とか言う女だ。
「いばな、これで彼女ときちんと向き合っているつもりかい?眺めているだけでは何もならないし、何の始まりにもならないものだよ。あぁ、そうだ。思い返せば、君、平安の世でも」
「何をしに来たんだよ、てめぇは!」
 滔々と語る天影の言葉を荒々しく遮り、「さっさと戻れ!」と怒りをぶつける。
 けれど天影は飄々とした笑みを浮かべたまま「言うべき事を言ったら戻るとも」と、ひょいと俺の怒りを躱した。
 俺は苦々しい顔でチッと大きく舌を打つ。
 クソ・・コイツには怒るだけ無駄だ。どれだけ言おうが、何をしようが、全く効かねぇ。どれだけ手を伸ばしても掴めねぇ雲、いや、そんな雅なものじゃねぇな・・。
 コイツは狸だ。忌々しい青狸だ。
 恨みがましい目でジトッと射抜くと、天影は「酷い眼差しだなぁ」とわざとらしく肩を竦めた。その様に、自然とチッと舌が打たれる。
 天影はその音にフフと蠱惑的な笑みを零してから「いばな」と、言葉を紡いだ。
「君はあの子に百夜参りならぬ百夜通いでもさせるつもりかい?今は平安の世ではないのだから、通う文化なんてとうに廃れているのだよ。最も、それ以前に立場が逆じゃないかい?と言う突っ込みもあってだね」
「だからてめぇは何を言いに来たんだよ!」
 そんな下らねぇ事を言いに来たんだったら、この場で殺すからな!と、吠えるが。
 天影はそんな脅しを歯牙にもかけず「じゃあ率直に言うよ」と、安穏と答えた。
「彼女は紫苑ではないのだから、君が彼女を邪険に扱う理由はないはずだ。いつまでそうしてへそを曲げて、向き合おうとしている彼女に不誠実を働くつもりなんだい?」
 柔らかな口調ではあるものの、声音ががらりと変わり、淡々且つ物々しく言葉をぶつけられる。
 俺は返答に詰まってしまうが。天影は容赦なく言葉を継いだ。
「いいかい、いばな。紫苑は五百年以上も前に亡くなっているんだ、五百年以上も前の話なんだよ。君は紫苑が自分みたいに長い時を存え、再び巡り会ったとでも思っているのかい?いい加減、君は紫苑の亡霊から離れるべきだよ」
「・・黙れ!」
 刺々しい言葉に押さえられていた言葉が荒々しく吐き出されると、胸の鈍痛が更に痛み出した。
 俺はグッと奥歯を噛みしめてから、「分かってんだよ」と吐き捨てる。
「アイツはとうの昔にくたばった、んな事は分かってんだよ。けどよ、アイツの面を見ると紫苑が重なる。同じ顔で、同じ声で、同じ霊力だぞ。そんなアイツを紫苑じゃねぇと思えなんざ・・無理な話だろ」
 ぐしゃりと前髪を握りしめ、ゆっくりとしゃがみ込む。右耳からりぃんりぃんと鈴が小さく鳴り、己の虚しさを強調した。
 すると天影から「なんだ、そう言う事か・・」と静かに吐き出される。
 俺はその呟きに、キュッと眉根を顰めて見上げると。天影はあの女を一瞥してから、俺を見つめた。
「あのね、いばな。何度も言う様だけれど、彼女は紫苑とは別の女性なのだよ。紫苑と似ていると言うだけの理由で、彼女が紫苑と同じ道を行くと思うかい?」
 ニヤリとした微笑を浮かべながら訊ねる天影。
 俺は、その笑みに顔を露骨に歪め「・・何が言いてぇんだ」と訊ね返す。
「フフフ。それは毎日毎日彼女を眺めて、私と彼女の話を盗み聞いている君ならばよく分かるんじゃないのかな。彼女は紫苑と瓜二つだけれど、その人となりは全く違うと言う事が」
 俺はぎくりと強張ってから、天影からフッと目を逸らした。
 ・・あぁ、そうだよ。
 あの女は、紫苑と全く違う。紫苑はもっと物静かで嫋やかで、楚々とした女だった。
 何を言うにも丁寧で、食ってかかる事もなく、食い下がり続ける女でもなかった。
 あんなじゃじゃ馬でも、勝ち気な女でもなかった。
 だからあの女は・・紫苑じゃない。
 別の女だ。千代と言う名の一人の女だ。
 俺はキュッと唇を堅く結び、あの女の方に目を向ける。
 すると隣から「いばな、大丈夫だよ」と、柔らかな声が降りかかった。
「安心して、彼女と向き合えば良い。彼女は紫苑と同じ道を行く事はないだろうから、何も怖がらなくて良いのだよ」
 俺はその素っ頓狂な言葉に「ハッ?!」と声を上げて、天影を睨めつける。
「怖がる?!なに間の抜けた事を抜かしてやがるんだ、てめぇは!」
 声を荒げて食ってかかるが、天影は俺の言葉を無視して飄々と言葉を続けた。
「あの子は頑丈だし、逞しいからね。ちっとやそっとの事では君を切り離さないよ。君に傷つけられても、おめおめと泣く事もしないで、俄然やる気に満ち溢れるのが良い証拠だ」
 そんな子だから、君も私も惹かれるのだろうね。と、天影はフフと口元を袖で隠しながら上品に笑う。
「さっきから、なに素っ頓狂な事をぬかしてんだよ!てめぇは!」
「全く、本当に君と言う奴は仕方のない奴だなぁ」
 天影は哀れんだ様な眼差しを俺に向けてから、「いつまでもそんな風でいられると思ったら、大間違いだからね」とわざとらしく肩を竦めた。
「幾ら健気で良い子でも、愛想を尽かす時は尽かすものだよ。それに彼女はまこと良い女性だからね、恋情を抱いている男も多いはずだ。分かるかい?横柄で野蛮で甲斐性無しの鬼《きみ》なんか、勝負の土俵にすら立たせてもらえないかもしれないと言う事で」
 ブチブチッと血管がはち切れる音がするや否や、俺は「ぶっ殺す!」と素早く作った拳を天影めがけて思いきり振り抜いていた。
 だが、風を切る俺の拳が当たる寸前で、奴はひらりと飛び上がる。
 そしてスタッと軽やかに上段の枝に着地すると「ほら、そういう所だよ」と、呆れながら言った。
「頼むよ、いばな。この私に、あの子に君は勿体無いと思わせないでくれ」
 はぁとため息を吐き出して、わざとらしく頭を抱える天影。
 俺はそんな天影に「いつまで好き勝手抜かしてんだ、さっさと降りてこい!」と、憤激する。
「そうも殺気立っている君の元においそれと降りるほど、私はうつけじゃないよ」
「ぐちゃぐちゃ抜かし続けるたぁ、良い度胸だ。その度胸に免じて最期の言葉くらいは・・」
 バキバキと手の骨を鳴らし、奴を抹殺する準備をしていたが。俺の視界の端にある光景が入ると、全ての神経がそちらに向いた。
 その刹那、俺はダンッと力強く枝を蹴り上げ、空に向かって大きく飛び上がる。
 バキバキッと嫌な音が後ろで弾けたが、そんな事は全く気にも留めなかった。
 そして天影の事も一瞬にして俺の中から綺麗に一掃された。
 俺の頭は「急げ」と言う言葉でいっぱいで、身体がその指令に対して従順に動いていただけだった。