歩き巫女として国を渡り歩き、百鬼軍を探ること数日。
加賀国に入る手前の山道で、私はようやく見つけた。まるで百鬼夜行の様に歩き、飛び、わらわらと進む妖怪の群れを。
見つけた瞬間、私は木の裏にサッと隠れて身を縮める。
ようやく見つけたけれど、本当に人間の軍みたいだわ。鎧を着けている妖怪も居るし、旗印を掲げている者も居る。
人の軍の様だと言っているのは、比喩だと思っていたけれど。成程、これは確かに人の軍を模しているわね。
遠くで蠢く妖怪の群れを木の裏から窺うと、自分の喉がゴキュッと小さく鳴った。
恐怖からか、緊張からか、はたまた別の感情からか。よく分からないけれど、故意に鳴ってしまった喉を慌てて押さえた。
その時だった。
私の顔に暗い影が落ちる。それは、太陽を遮る葉の陰ではなかった。人間ではあり得ない、大きな影。
その影に導かれる様に、恐る恐る顔を上げると。視界いっぱいに広がったのは、大きな茶褐色の狼の妖怪だった。二足で立ち、麻で出来たボロボロの袴だけを履いているが。容姿の恐ろしさにはまるで目が行かなかった。
ニタリと開かれる口から覗く鋭い牙だけが、やけに大きく映る。
「やっぱり居たなぁ?人間の雌の匂いがすると思ったんだよぉ。これが偶にあるから、斥候は得なんだよなぁ」
黒曜石の様な真っ黒の瞳をスッと細め、じゅるりとわざとらしく涎を啜った。
頭の中でカンカンとけたたましく警鐘が鳴る。
けれど、私は頭を軽く振って脳内の警鐘を誤魔化した。
ようやく百鬼軍を見つけたのよ、ここで逃げるのは速すぎるわ。この妖怪を通して、百鬼軍の何かを少しでも掴まないと。
私は小さく息を飲んでから「私をどうするおつもりですか?」と、艶然と訊ねる。
するとその笑顔と言葉に、狼の妖怪はやや呆気に取られるが。「決まってんだろぉ」と、すぐに禍々しい笑みを見せた。
「喰うんだよぉ。女は男より栄養があるし、柔らかくて味が良いんだぁ」
「それは困ります。実を申しますと、私は百鬼軍の頭目様にお話がありますの。その為に、危険な遠路を歩き続けて参ったのですよ」
「お頭に話だぁ?」
狼の妖怪は素っ頓狂に繰り返し、首を傾げる。
「人間の雌がお頭にぃ?一体、何の話だよぉ?」
「それは頭目様に、直々にお伝えします」
ですから、頭目様の元に連れて行って下さいませんか?と、ニコリと頼み込んだ。
目の前の狼妖怪はふむぅと唸り声を上げ、「どうすっかなぁ」と考え込む。
けれど、私をチラと見る丸い瞳がギラリと光った。
鎮めた警鐘が再び甲高い音を奏でる。
「お頭は人間が嫌いだかんなぁ。それにてめぇは巫女だろぉ?」
「・・えぇ、そうですが」
「だろぉ?だからよぉ、そんな危ねぇ奴をお頭の前に連れて行く訳には・・いくめぇよなぁ?」
ギヒヒと悍ましい笑みが零れ、恐ろしい手がサッと伸びた刹那。私は素早く五芒星を描き、声高に叫んだ。
「六根清浄急急如律令!」
言い切ると同時に五芒星が狼の足下にぶわっと大きく現れ、狼の妖怪の身体が聖なる白の光の塔に包まれる。
「ウギャアアアアアッ!」
狼の大絶叫が上がると、私はダッとその場から逃げ出した。
このまま踏みとどまるのは良くない。いったん退いて、どうするか策を練らないと。
遠くの蠢きが「お頭?!」などと騒ぎ出すのを耳にしながら、私は森の中を必死に駆けた。
けれどすぐに、ダンッダンッダンッと力強い不穏な音が背後に迫る。
嘘、もう追っ手が迫っているの?!あれだけ離れていたのに、早すぎるわ!
私はゴクッと唾を飲み込み、背後の不穏を気にしない様に務めるが。段々と迫る音が、否が応でも意識をそちらに向けさせる。
そしてダンッと力強い音がすぐ後ろで聞こえたかと思えば、ドオオオンッと目の前に何かが降ってきた。
すぐにゴウッと襲う砂煙と砂塵で、降ってきた「何か」は見えなかったけれど。その正体を知らぬ方が良いとは分かる。
砂煙から顔を守る様に腕を掲げ、その隙間から目の前を窺っていると。突然、私の天地が荒々しくひっくり返る。
ゴンッと頭をでこぼことした山道に打ちつけ、「ウッ!」と呻きが零れた。
苦痛に顔を歪めてしまうけれど、「何が起きたのか、早く理解しないと」と言う恐怖がすぐに視界を明朗にさせる。
そして、それを目にした瞬間。私はハッとしてしまった。
何故だか、本当に何故だかは分からないけれど・・心が震えた。
はらりと顔の横に落ちる赤髪、にゅっと額から伸びた二本の曲がり角、右耳に吊されてリンリンと軽やかに鳴る小さな鈴、小さく開かれる口から覗く鋭い牙。
人の様で人ではない、鬼の見目麗しい容貌に心が震えた。
けれど、私を見つめる瞳が底なし沼の様にどす黒く淀んでいる事が分かると、ズキリと胸が痛む。本当に、何故だかは分からないけれど・・。
すると、馬乗りになって私を地に押さえつけている鬼が「やはり」とボソリと声を発した。心地良い様な低い声音だけれど、刺々しい何かを感じてしまう。
「やはり、お前だったか・・お前だったのだな」
鬼は淡々と言うと、見て分かる位にグッと奥歯を噛みしめた。
その瞬間、私はぶわっと総毛立ってしまう。刺々しい「何か」の正体が分かってしまったからだ。
鬼の言葉に込められているのは、激怒と憎悪。そして凄まじい殺気が綯い交ぜになったものだわ・・。
私は全身の肌が粟立つのを感じるが。目の前の鬼に告げられた言葉を耳にすると、その恐怖が少し弱まった。
「やっと見つけたぞ、紫苑」
「・・紫苑?」
鬼が呟いた名に思いきり顔を怪訝に歪め、素っ頓狂な声で繰り返してしまう。
「あの・・私は紫苑と申す者ではありませぬ・・」
訥々と物申すと、今度は鬼が「はぁ?」と、怪訝に顔を歪めた。
「この俺がお前を見間違っているとでも言いたいのか。紫苑、お前はどこまで俺をコケにすれば気が済むのだ」
苛立ちが強まり、目がスッと憎々しげに細められる。
けれどそう苛立たれも、違う事は違う。
私は紫苑と言う女性ではないわ。
私はキュッと唇を結んでから、苛立つ彼をまっすぐ射抜いた。
「私の名は千代、紫苑と言う名ではありませぬ。貴方の勘違いです」
毅然と告げるけれど、鬼は「馬鹿を言うな」と冷笑を浮かべて一蹴する。
「その顔と言い、その声と言い、その霊力と言い・・お前は何一つ変わっておらぬではないか」
ゾクリとする程の声音で告げられると、鬼の手が私の胸元に伸びた。
嫌な予感が弾ける間も無く、ビリッと呆気なく衣が破れて胸元が露わになる。
だが、それだけで終わらなかった。鬼は露わになった胸元にプツリと爪を突き立て、スッと一文字を描く。
鋭い痛みに顔を歪めると、目の前の鬼はクックッと喉を鳴らして笑った。
「ほらな。この柔肌も、この血も・・何も変わっておらぬわ」
親指で一文字を軽く拭う様になぞり、ペロリと鮮血で汚れた指先を舐める。
その悍ましい姿に、私はゾクゾクと言葉にならない恐怖を感じた。
けれど私がそんなものに陥っていても、目の前の鬼の憎悪は止まらない。
「紫苑、俺はお前を忘れる事はなかったぞ。封印されていた間も、封印が焼かれこの世を再び生きる様になってからも、ずっと俺はお前を忘れなかった。片時もこの怒りを・・この憎しみを絶やした事はないぞ」
私は紫苑ではないのに、紫苑と言う女性に間違われて死の恐怖に晒されている。
理性が淡々とこの状況を説明してきた。
その説明を聞いた瞬間、私の中でブチッブチッと怒りがゆっくり弾けていく。
濡れ衣を着せられて死ななくちゃいけないなんて・・絶対に嫌。
私は、私ではない人間の罪をかぶって死ぬ必要がないもの。色々と間違っているわよ。
この鬼も、この状況も、何もかも!
怒りがゴウッと内巻くと、恐怖が一掃されて闘気がガチャンと身体にしっかりと纏われた。
「私は紫苑じゃないわ、千代だと言っているでしょう!長年抱えた怒りと恨みだと言うのならば、ぶつける先を正しく見極めなさいよ!」
怒声を張り上げ、サッと袖に付けられた手裏剣を引き抜き、シャッと彼の端正な顔目がけて放つ。
文字通りの突飛な手裏剣の攻撃に、彼はぎょっとして反応に遅れた。故に、目を見開いたまま頬にざくっと小さな一文字が入り、たらりと朱殷色の血が零れる。
まさかの攻撃に唖然とし、鬼は私を抑える力を弱めた。
その隙を突いて、私はずりりと地面を擦りながら身体を上げ、鬼を蹴飛ばして脱し、素早く安全な間合いを取る。
威圧から抜けられた事に少しの安堵を覚えるけれど、まだまだ安心出来ないわね。
私は乱れた胸元の衣を軽く直しながら、そんな事を考えていると。現実とは無慈悲であり、非情だと思い知った。
私に最悪が到来する。
そう、百鬼軍の面々がわらわらと集まってきたのだ。「お頭ぁ」と私を押さえつけていた鬼の後ろで止まると、爛々とした目で少し離れた私を射抜く。
「女だ、女じゃねぇか」「喰ってええんか?」「あれは上質な女やわ、芳しい香りがしはってる」「俺が喰いてぇなぁ、駄目かなぁ」
お頭、お頭と騒いでいた声が「良い獲物を見つけた」声に、どんどんと変わっていった。
こんな数が一斉に襲ってきたら、流石の私もひとたまりもないわね・・。
始めのうちは戦えると思うけれど、私の力が消耗される一方だもの。最後には戦う事は愚か、逃げると言う事すらもさせてもらえないでしょうね。
キュッと唇を結び、どうすべきかと必死に頭を稼働させて最善策を探し出した。
すると今まで呆然としていた鬼が「黙れ、お前等」と、禍々しい声で後ろの騒ぎを一喝する。
その瞬間、あれほど騒いでいた妖怪共が自分の口を慌てて塞ぎ、静寂を訪れさせた。
風でざわりざわりと葉を擦れさせる音だけが聞こえる。
・・これが、妖怪共を束ねる百鬼軍頭目の力なのね。
ゴクリと唾を飲み込み、戦慄が走る身体を何とか鎮め込むが。頭目の鬼の冷たい眼差しがこちらに向くと、押さえ込んでいた戦慄が増幅した。
「女。お前は、この俺を足蹴にしたばかりか、血を流させた。よって、お前が紫苑であろうがなかろうが、関係無い・・」
ぶわりと肌が粟立つ程冷たい声で告げられると、鬼は「お前等」と冷笑を浮かべて声を張り上げる。
「あの女が欲しいか」
残酷な問いかけが発せられた瞬間、後ろの妖怪達は「欲しい」と大合唱し、醜い笑い声や雄叫びを上げだした。
意気軒昂とする妖怪共に、頭の中の警鐘が鳴る。今日一番とも呼べる、切羽詰まった甲高い音で。
「好きにやれ」
鬼が淡々と告げた刹那、後ろの妖怪達がわっと飛び出した。
それと同時に、私もダッと駆け出す。
恐怖に支配されそうになる身体を生存本能で動かし、必死に逃げるが。瞬く間に、私は無数の妖怪共に囲まれてしまった。
ギヒヒと醜い笑い声を上げながら、妖怪共は私を喰うべく容赦なく襲いかかる。
けれど、私もただでやられる女ではない。サッと華麗に攻撃を躱し、身軽にポンポンと飛び退きながらクナイの攻撃を打ち込んだ。陰陽道を使った攻撃も放ち、囲んでいる妖怪共を削っていく。
・・やはり圧倒的に分が悪いわね。数が多すぎて、逃げ道が出来ない。出来たと思ってもまたすぐ塞がれてしまうし、私の力もジリジリと削られているもの。
駄目、弱気になるな。状況は最悪だけれど諦めちゃいけないわ。と、歯をキツく食いしばって、シュッとクナイを打ち込んだ。
クナイを打ち込まれた妖怪がうぐっとのたうち、穴が出来る。
よし、今よ!
空いた穴に目がけて飛び込もうとした刹那、しゅるりと何かが足首に巻き付く。
「えっ?!」
足首の何かに気を取られてしまうと、その隙を突いて大きな百足妖怪が私に巻き付いた。
陰陽道の攻撃を放つも、持ち前の柔からさでにゅるりと躱され、私の自由をキュッと力強く奪う。
「獲ったぁ!」
ギチギチと私の身体を巻き上げながら、喜色に富んだ声を張り上げる百足妖怪。
けれど、その声に「待てやい!」と怒声が降りかかった。
「これは俺の功績だぞ、虫野郎!俺がこの女の足首に尾を巻いたから、おめーが襲える隙が出来たんだろうが!だから俺が喰うべきだ!俺が隙を作ったんだからな!」
キィキィと甲高い声で訴えながら、大きな鼠妖怪が躍り出てくる。
私を巡って、二匹の妖怪が争い始めるけれど。私はギチギチと縛りあげられる苦しさに呻くばかりだった。
どちらが喰うか、そんな争いを耳にしながら死を待つなんて・・最悪ね・・。
うううと低い呻き声に、悔しさが塗れ始めた。
そしてそれと時同じくして、妖怪共の争いも「皆で分け会って喰おう」と言う折衷案に行き着く。
「まず俺が頭を喰って、ねず公が足を喰う。そんで残った身体は山分けすれば文句ねぇだろうよ。どうでい?どうでい?」
百足妖怪が告げると、周囲の妖怪共が「そうしよう」と沸き立った。(鼠妖怪は「嫌だ」と喚いたが、多数に押し切られて不承不承に案を受け入れる羽目になっていた)
無残に食い散らかされる自分の未来が瞼裏に映る。
親方様のお力になれずに、妖怪共に喰われて死ぬなんて・・。嫌だけれど、今からではもうどうしようも出来ないわよね。
これはきっと・・自分の力に驕っていた私への罰。
だから受け入れるしかないのよ、この死を。
ギュッと堅く目を瞑り、迫り来る死を静かに受け入れる準備をした。
ねちゃあーっと唾液が伸びる音がすぐ近くで聞こえる。
嗚呼、申し訳ありません。申し訳ありません、親方様。何の任も果たせずに死んでいく千代をどうかお許し下さい。
親方様への懺悔を心の中で述べると、ポロリと目の端から雫が流れた。
その時だった。
「ウギャアッ」
突然醜い悲鳴が大きく上がり、キツく縛りあげられていた身体がドサリと地面に落とされる。
え。ど、どういう事?い、一体何が・・。一体、何が起こったの?!
私はゴツゴツとした岩肌に目を白黒とさせながらも、急いで身体を起こした。
そしてすぐに、愕然としてしまった。あまりにも信じられない光景が、目の前に広がっていたから。
私を縛りあげていた百足妖怪、足を喰おうとしていた鼠妖怪、残る身体を喰おうと近づいていた妖怪共が皆、血を吹き出して事切れていた。
いっさい苦しみに呻く声を聞かなかったから、どうやら先程の呻きが彼等の最後の言葉だったらしい。
つまり一瞬にして、辺りの妖怪共を即死させてしまったのだ。
私に背を向けて立つ、赤い髪をしたこの鬼が・・。
百鬼軍の頭目が、己の手下を殺したのだ。その証拠に、目の前の鬼の手は彼等の血に染まり、ポタポタと地面に雫を零している。
その姿に、私はただただ唖然とするしかなかった。夢か現か分からなくなる程に、この今に狼狽する。
「・・ど、どうして」
茫然自失になる自分を飲み込み、頭目の鬼に向かって弱々しく訊ねた・・が。
「なんて事すんだよ、お頭!」「ふざけんなよ!」「好きにしろって言ったじゃねぇか!」
一斉に轟々と湧く非難にかき消されてしまった。
周囲の妖怪共は、皆、一気呵成になって頭目の鬼を糾弾する。
すると頭目の鬼から「黙れ」と静かに言葉が発せられ、激しい糾弾がピタと止まった。
「好きにしろとは言った・・が、俺の前でやれとは一言も言ってない」
静かに紡がれた一言を聞き終わると、鎮まった妖怪共が「ふざけんな!」と、再び声を荒げ出す。
「いつも目の前でやってるじゃねぇか!」「他の人間の時はそんな事言わねぇじゃねぇかよ!」「なんで俺達が頭の気まぐれで殺されなきゃなんねぇんだ!」
「・・おい。これ以上、俺の気に障る事をしてくれるな」
全員殺すぞ。と、物々しい一言が付け足されると。まるで潮騒がさーっと引いてく様に、猛っていた妖怪達が鎮まった。
そして頭目の鬼が「天影が居る所まで戻れ」とぶっきらぼうに告げると、妖怪達はボロボロと囲いを崩して、すごすごと後退していく。
よく・・よく分からないけれど。これは・・助かった、と言う事・・よね?
この頭目の鬼のおかげで・・。
私は、この突飛な出来事に整理を付ける様に息を飲んでから「あの」と、恐る恐る恩人に声をかけた。
「た、助けてくれて」
「さっさと去れ」
私の言葉を遮って言うと、凍てついた眼差しを私に向ける。
「二度と俺にその面を見せるな」
一方的に唾棄してから、頭目の鬼はダンッと力強く地面を蹴り、姿を消してしまった。
呆然とした私だけが、その場にぽつねんと残される。
ぴーひょろろーと空を泳ぐ鳶の声が、しんみりとした現実を際立たせた。
さわさわと風が吹き、木々の葉が柔らに揺れる。私の髪もふわりと上がり、顔の横を流れた。
夢か現か、今となっては分からなくなってしまった彼の後を追う様に。
・・・
それからと言うもの、私の脳内ではずっとあの事が繰り返されていた。
山を下りて村に入った時も、間借りした部屋で休む時も、食事を取る時も、布団を敷く時も。
・・あの頭目の鬼は、喰われそうになっていた私を助けてくれたのよね。自分の手下を殺したばかりか、私を逃がす様に離れて行ったんだもの。助けてくれた、と言う事の他ないわよね。
心中で独りごちると、ふいと手が胸元に伸びた。襦袢の間を潜り込んだ指先が少しの凹凸に、あの鬼に付けられた一文字に当たる。
もう血は固まっているけれど、ズキズキとした痛みはしかと残っている。
自分の顔がウッと歪んだ。
あの頭目の鬼は、禍々しい感情を私にぶつけていたと言うのに。あの寸前まで、本気で殺そうとしていたのに。
どうして私を助けたのだろう・・。
自分の内で問いかけ、その答えを見つけようとするけれど。これだ!と言う答えは全く見えず、ただ「どうして?」と言う疑問ばかりがわさわさと蔓延っていた。
ふうと息を吐き出しながら手を引き戻し、少し乱れた胸元を正す。
そして楚々とした光を射し込む満月を一瞥してから、私はゆっくりと目を閉ざした。
答えが見つからなければ、見つかるまで動けば良いのよね。
何かを掴むなら、それをきちんと掴むまで動くのが間者の鉄則だもの。
閉ざしていた目をゆっくりと開け、キュッと唇を結んだ。
幸いにも、彼は百鬼軍の頭目。私が探らなければいけない相手で、止めなくちゃいけない相手。
また恐ろしい思いをするかもしれないけれど、私はあの鬼に会いに行かなくちゃいけないわ。
・・それに、助けてくれたお礼も述べないと。あの時は、遮られてきちんと伝えられなかったのだから。
覚悟を決め、キュッと拳を作った刹那。ポチャンと蛙が池に飛び込む音がした。
どうやら、近くの蛙も私と同じ様に覚悟を決めて池に飛び込んだのだった。
加賀国に入る手前の山道で、私はようやく見つけた。まるで百鬼夜行の様に歩き、飛び、わらわらと進む妖怪の群れを。
見つけた瞬間、私は木の裏にサッと隠れて身を縮める。
ようやく見つけたけれど、本当に人間の軍みたいだわ。鎧を着けている妖怪も居るし、旗印を掲げている者も居る。
人の軍の様だと言っているのは、比喩だと思っていたけれど。成程、これは確かに人の軍を模しているわね。
遠くで蠢く妖怪の群れを木の裏から窺うと、自分の喉がゴキュッと小さく鳴った。
恐怖からか、緊張からか、はたまた別の感情からか。よく分からないけれど、故意に鳴ってしまった喉を慌てて押さえた。
その時だった。
私の顔に暗い影が落ちる。それは、太陽を遮る葉の陰ではなかった。人間ではあり得ない、大きな影。
その影に導かれる様に、恐る恐る顔を上げると。視界いっぱいに広がったのは、大きな茶褐色の狼の妖怪だった。二足で立ち、麻で出来たボロボロの袴だけを履いているが。容姿の恐ろしさにはまるで目が行かなかった。
ニタリと開かれる口から覗く鋭い牙だけが、やけに大きく映る。
「やっぱり居たなぁ?人間の雌の匂いがすると思ったんだよぉ。これが偶にあるから、斥候は得なんだよなぁ」
黒曜石の様な真っ黒の瞳をスッと細め、じゅるりとわざとらしく涎を啜った。
頭の中でカンカンとけたたましく警鐘が鳴る。
けれど、私は頭を軽く振って脳内の警鐘を誤魔化した。
ようやく百鬼軍を見つけたのよ、ここで逃げるのは速すぎるわ。この妖怪を通して、百鬼軍の何かを少しでも掴まないと。
私は小さく息を飲んでから「私をどうするおつもりですか?」と、艶然と訊ねる。
するとその笑顔と言葉に、狼の妖怪はやや呆気に取られるが。「決まってんだろぉ」と、すぐに禍々しい笑みを見せた。
「喰うんだよぉ。女は男より栄養があるし、柔らかくて味が良いんだぁ」
「それは困ります。実を申しますと、私は百鬼軍の頭目様にお話がありますの。その為に、危険な遠路を歩き続けて参ったのですよ」
「お頭に話だぁ?」
狼の妖怪は素っ頓狂に繰り返し、首を傾げる。
「人間の雌がお頭にぃ?一体、何の話だよぉ?」
「それは頭目様に、直々にお伝えします」
ですから、頭目様の元に連れて行って下さいませんか?と、ニコリと頼み込んだ。
目の前の狼妖怪はふむぅと唸り声を上げ、「どうすっかなぁ」と考え込む。
けれど、私をチラと見る丸い瞳がギラリと光った。
鎮めた警鐘が再び甲高い音を奏でる。
「お頭は人間が嫌いだかんなぁ。それにてめぇは巫女だろぉ?」
「・・えぇ、そうですが」
「だろぉ?だからよぉ、そんな危ねぇ奴をお頭の前に連れて行く訳には・・いくめぇよなぁ?」
ギヒヒと悍ましい笑みが零れ、恐ろしい手がサッと伸びた刹那。私は素早く五芒星を描き、声高に叫んだ。
「六根清浄急急如律令!」
言い切ると同時に五芒星が狼の足下にぶわっと大きく現れ、狼の妖怪の身体が聖なる白の光の塔に包まれる。
「ウギャアアアアアッ!」
狼の大絶叫が上がると、私はダッとその場から逃げ出した。
このまま踏みとどまるのは良くない。いったん退いて、どうするか策を練らないと。
遠くの蠢きが「お頭?!」などと騒ぎ出すのを耳にしながら、私は森の中を必死に駆けた。
けれどすぐに、ダンッダンッダンッと力強い不穏な音が背後に迫る。
嘘、もう追っ手が迫っているの?!あれだけ離れていたのに、早すぎるわ!
私はゴクッと唾を飲み込み、背後の不穏を気にしない様に務めるが。段々と迫る音が、否が応でも意識をそちらに向けさせる。
そしてダンッと力強い音がすぐ後ろで聞こえたかと思えば、ドオオオンッと目の前に何かが降ってきた。
すぐにゴウッと襲う砂煙と砂塵で、降ってきた「何か」は見えなかったけれど。その正体を知らぬ方が良いとは分かる。
砂煙から顔を守る様に腕を掲げ、その隙間から目の前を窺っていると。突然、私の天地が荒々しくひっくり返る。
ゴンッと頭をでこぼことした山道に打ちつけ、「ウッ!」と呻きが零れた。
苦痛に顔を歪めてしまうけれど、「何が起きたのか、早く理解しないと」と言う恐怖がすぐに視界を明朗にさせる。
そして、それを目にした瞬間。私はハッとしてしまった。
何故だか、本当に何故だかは分からないけれど・・心が震えた。
はらりと顔の横に落ちる赤髪、にゅっと額から伸びた二本の曲がり角、右耳に吊されてリンリンと軽やかに鳴る小さな鈴、小さく開かれる口から覗く鋭い牙。
人の様で人ではない、鬼の見目麗しい容貌に心が震えた。
けれど、私を見つめる瞳が底なし沼の様にどす黒く淀んでいる事が分かると、ズキリと胸が痛む。本当に、何故だかは分からないけれど・・。
すると、馬乗りになって私を地に押さえつけている鬼が「やはり」とボソリと声を発した。心地良い様な低い声音だけれど、刺々しい何かを感じてしまう。
「やはり、お前だったか・・お前だったのだな」
鬼は淡々と言うと、見て分かる位にグッと奥歯を噛みしめた。
その瞬間、私はぶわっと総毛立ってしまう。刺々しい「何か」の正体が分かってしまったからだ。
鬼の言葉に込められているのは、激怒と憎悪。そして凄まじい殺気が綯い交ぜになったものだわ・・。
私は全身の肌が粟立つのを感じるが。目の前の鬼に告げられた言葉を耳にすると、その恐怖が少し弱まった。
「やっと見つけたぞ、紫苑」
「・・紫苑?」
鬼が呟いた名に思いきり顔を怪訝に歪め、素っ頓狂な声で繰り返してしまう。
「あの・・私は紫苑と申す者ではありませぬ・・」
訥々と物申すと、今度は鬼が「はぁ?」と、怪訝に顔を歪めた。
「この俺がお前を見間違っているとでも言いたいのか。紫苑、お前はどこまで俺をコケにすれば気が済むのだ」
苛立ちが強まり、目がスッと憎々しげに細められる。
けれどそう苛立たれも、違う事は違う。
私は紫苑と言う女性ではないわ。
私はキュッと唇を結んでから、苛立つ彼をまっすぐ射抜いた。
「私の名は千代、紫苑と言う名ではありませぬ。貴方の勘違いです」
毅然と告げるけれど、鬼は「馬鹿を言うな」と冷笑を浮かべて一蹴する。
「その顔と言い、その声と言い、その霊力と言い・・お前は何一つ変わっておらぬではないか」
ゾクリとする程の声音で告げられると、鬼の手が私の胸元に伸びた。
嫌な予感が弾ける間も無く、ビリッと呆気なく衣が破れて胸元が露わになる。
だが、それだけで終わらなかった。鬼は露わになった胸元にプツリと爪を突き立て、スッと一文字を描く。
鋭い痛みに顔を歪めると、目の前の鬼はクックッと喉を鳴らして笑った。
「ほらな。この柔肌も、この血も・・何も変わっておらぬわ」
親指で一文字を軽く拭う様になぞり、ペロリと鮮血で汚れた指先を舐める。
その悍ましい姿に、私はゾクゾクと言葉にならない恐怖を感じた。
けれど私がそんなものに陥っていても、目の前の鬼の憎悪は止まらない。
「紫苑、俺はお前を忘れる事はなかったぞ。封印されていた間も、封印が焼かれこの世を再び生きる様になってからも、ずっと俺はお前を忘れなかった。片時もこの怒りを・・この憎しみを絶やした事はないぞ」
私は紫苑ではないのに、紫苑と言う女性に間違われて死の恐怖に晒されている。
理性が淡々とこの状況を説明してきた。
その説明を聞いた瞬間、私の中でブチッブチッと怒りがゆっくり弾けていく。
濡れ衣を着せられて死ななくちゃいけないなんて・・絶対に嫌。
私は、私ではない人間の罪をかぶって死ぬ必要がないもの。色々と間違っているわよ。
この鬼も、この状況も、何もかも!
怒りがゴウッと内巻くと、恐怖が一掃されて闘気がガチャンと身体にしっかりと纏われた。
「私は紫苑じゃないわ、千代だと言っているでしょう!長年抱えた怒りと恨みだと言うのならば、ぶつける先を正しく見極めなさいよ!」
怒声を張り上げ、サッと袖に付けられた手裏剣を引き抜き、シャッと彼の端正な顔目がけて放つ。
文字通りの突飛な手裏剣の攻撃に、彼はぎょっとして反応に遅れた。故に、目を見開いたまま頬にざくっと小さな一文字が入り、たらりと朱殷色の血が零れる。
まさかの攻撃に唖然とし、鬼は私を抑える力を弱めた。
その隙を突いて、私はずりりと地面を擦りながら身体を上げ、鬼を蹴飛ばして脱し、素早く安全な間合いを取る。
威圧から抜けられた事に少しの安堵を覚えるけれど、まだまだ安心出来ないわね。
私は乱れた胸元の衣を軽く直しながら、そんな事を考えていると。現実とは無慈悲であり、非情だと思い知った。
私に最悪が到来する。
そう、百鬼軍の面々がわらわらと集まってきたのだ。「お頭ぁ」と私を押さえつけていた鬼の後ろで止まると、爛々とした目で少し離れた私を射抜く。
「女だ、女じゃねぇか」「喰ってええんか?」「あれは上質な女やわ、芳しい香りがしはってる」「俺が喰いてぇなぁ、駄目かなぁ」
お頭、お頭と騒いでいた声が「良い獲物を見つけた」声に、どんどんと変わっていった。
こんな数が一斉に襲ってきたら、流石の私もひとたまりもないわね・・。
始めのうちは戦えると思うけれど、私の力が消耗される一方だもの。最後には戦う事は愚か、逃げると言う事すらもさせてもらえないでしょうね。
キュッと唇を結び、どうすべきかと必死に頭を稼働させて最善策を探し出した。
すると今まで呆然としていた鬼が「黙れ、お前等」と、禍々しい声で後ろの騒ぎを一喝する。
その瞬間、あれほど騒いでいた妖怪共が自分の口を慌てて塞ぎ、静寂を訪れさせた。
風でざわりざわりと葉を擦れさせる音だけが聞こえる。
・・これが、妖怪共を束ねる百鬼軍頭目の力なのね。
ゴクリと唾を飲み込み、戦慄が走る身体を何とか鎮め込むが。頭目の鬼の冷たい眼差しがこちらに向くと、押さえ込んでいた戦慄が増幅した。
「女。お前は、この俺を足蹴にしたばかりか、血を流させた。よって、お前が紫苑であろうがなかろうが、関係無い・・」
ぶわりと肌が粟立つ程冷たい声で告げられると、鬼は「お前等」と冷笑を浮かべて声を張り上げる。
「あの女が欲しいか」
残酷な問いかけが発せられた瞬間、後ろの妖怪達は「欲しい」と大合唱し、醜い笑い声や雄叫びを上げだした。
意気軒昂とする妖怪共に、頭の中の警鐘が鳴る。今日一番とも呼べる、切羽詰まった甲高い音で。
「好きにやれ」
鬼が淡々と告げた刹那、後ろの妖怪達がわっと飛び出した。
それと同時に、私もダッと駆け出す。
恐怖に支配されそうになる身体を生存本能で動かし、必死に逃げるが。瞬く間に、私は無数の妖怪共に囲まれてしまった。
ギヒヒと醜い笑い声を上げながら、妖怪共は私を喰うべく容赦なく襲いかかる。
けれど、私もただでやられる女ではない。サッと華麗に攻撃を躱し、身軽にポンポンと飛び退きながらクナイの攻撃を打ち込んだ。陰陽道を使った攻撃も放ち、囲んでいる妖怪共を削っていく。
・・やはり圧倒的に分が悪いわね。数が多すぎて、逃げ道が出来ない。出来たと思ってもまたすぐ塞がれてしまうし、私の力もジリジリと削られているもの。
駄目、弱気になるな。状況は最悪だけれど諦めちゃいけないわ。と、歯をキツく食いしばって、シュッとクナイを打ち込んだ。
クナイを打ち込まれた妖怪がうぐっとのたうち、穴が出来る。
よし、今よ!
空いた穴に目がけて飛び込もうとした刹那、しゅるりと何かが足首に巻き付く。
「えっ?!」
足首の何かに気を取られてしまうと、その隙を突いて大きな百足妖怪が私に巻き付いた。
陰陽道の攻撃を放つも、持ち前の柔からさでにゅるりと躱され、私の自由をキュッと力強く奪う。
「獲ったぁ!」
ギチギチと私の身体を巻き上げながら、喜色に富んだ声を張り上げる百足妖怪。
けれど、その声に「待てやい!」と怒声が降りかかった。
「これは俺の功績だぞ、虫野郎!俺がこの女の足首に尾を巻いたから、おめーが襲える隙が出来たんだろうが!だから俺が喰うべきだ!俺が隙を作ったんだからな!」
キィキィと甲高い声で訴えながら、大きな鼠妖怪が躍り出てくる。
私を巡って、二匹の妖怪が争い始めるけれど。私はギチギチと縛りあげられる苦しさに呻くばかりだった。
どちらが喰うか、そんな争いを耳にしながら死を待つなんて・・最悪ね・・。
うううと低い呻き声に、悔しさが塗れ始めた。
そしてそれと時同じくして、妖怪共の争いも「皆で分け会って喰おう」と言う折衷案に行き着く。
「まず俺が頭を喰って、ねず公が足を喰う。そんで残った身体は山分けすれば文句ねぇだろうよ。どうでい?どうでい?」
百足妖怪が告げると、周囲の妖怪共が「そうしよう」と沸き立った。(鼠妖怪は「嫌だ」と喚いたが、多数に押し切られて不承不承に案を受け入れる羽目になっていた)
無残に食い散らかされる自分の未来が瞼裏に映る。
親方様のお力になれずに、妖怪共に喰われて死ぬなんて・・。嫌だけれど、今からではもうどうしようも出来ないわよね。
これはきっと・・自分の力に驕っていた私への罰。
だから受け入れるしかないのよ、この死を。
ギュッと堅く目を瞑り、迫り来る死を静かに受け入れる準備をした。
ねちゃあーっと唾液が伸びる音がすぐ近くで聞こえる。
嗚呼、申し訳ありません。申し訳ありません、親方様。何の任も果たせずに死んでいく千代をどうかお許し下さい。
親方様への懺悔を心の中で述べると、ポロリと目の端から雫が流れた。
その時だった。
「ウギャアッ」
突然醜い悲鳴が大きく上がり、キツく縛りあげられていた身体がドサリと地面に落とされる。
え。ど、どういう事?い、一体何が・・。一体、何が起こったの?!
私はゴツゴツとした岩肌に目を白黒とさせながらも、急いで身体を起こした。
そしてすぐに、愕然としてしまった。あまりにも信じられない光景が、目の前に広がっていたから。
私を縛りあげていた百足妖怪、足を喰おうとしていた鼠妖怪、残る身体を喰おうと近づいていた妖怪共が皆、血を吹き出して事切れていた。
いっさい苦しみに呻く声を聞かなかったから、どうやら先程の呻きが彼等の最後の言葉だったらしい。
つまり一瞬にして、辺りの妖怪共を即死させてしまったのだ。
私に背を向けて立つ、赤い髪をしたこの鬼が・・。
百鬼軍の頭目が、己の手下を殺したのだ。その証拠に、目の前の鬼の手は彼等の血に染まり、ポタポタと地面に雫を零している。
その姿に、私はただただ唖然とするしかなかった。夢か現か分からなくなる程に、この今に狼狽する。
「・・ど、どうして」
茫然自失になる自分を飲み込み、頭目の鬼に向かって弱々しく訊ねた・・が。
「なんて事すんだよ、お頭!」「ふざけんなよ!」「好きにしろって言ったじゃねぇか!」
一斉に轟々と湧く非難にかき消されてしまった。
周囲の妖怪共は、皆、一気呵成になって頭目の鬼を糾弾する。
すると頭目の鬼から「黙れ」と静かに言葉が発せられ、激しい糾弾がピタと止まった。
「好きにしろとは言った・・が、俺の前でやれとは一言も言ってない」
静かに紡がれた一言を聞き終わると、鎮まった妖怪共が「ふざけんな!」と、再び声を荒げ出す。
「いつも目の前でやってるじゃねぇか!」「他の人間の時はそんな事言わねぇじゃねぇかよ!」「なんで俺達が頭の気まぐれで殺されなきゃなんねぇんだ!」
「・・おい。これ以上、俺の気に障る事をしてくれるな」
全員殺すぞ。と、物々しい一言が付け足されると。まるで潮騒がさーっと引いてく様に、猛っていた妖怪達が鎮まった。
そして頭目の鬼が「天影が居る所まで戻れ」とぶっきらぼうに告げると、妖怪達はボロボロと囲いを崩して、すごすごと後退していく。
よく・・よく分からないけれど。これは・・助かった、と言う事・・よね?
この頭目の鬼のおかげで・・。
私は、この突飛な出来事に整理を付ける様に息を飲んでから「あの」と、恐る恐る恩人に声をかけた。
「た、助けてくれて」
「さっさと去れ」
私の言葉を遮って言うと、凍てついた眼差しを私に向ける。
「二度と俺にその面を見せるな」
一方的に唾棄してから、頭目の鬼はダンッと力強く地面を蹴り、姿を消してしまった。
呆然とした私だけが、その場にぽつねんと残される。
ぴーひょろろーと空を泳ぐ鳶の声が、しんみりとした現実を際立たせた。
さわさわと風が吹き、木々の葉が柔らに揺れる。私の髪もふわりと上がり、顔の横を流れた。
夢か現か、今となっては分からなくなってしまった彼の後を追う様に。
・・・
それからと言うもの、私の脳内ではずっとあの事が繰り返されていた。
山を下りて村に入った時も、間借りした部屋で休む時も、食事を取る時も、布団を敷く時も。
・・あの頭目の鬼は、喰われそうになっていた私を助けてくれたのよね。自分の手下を殺したばかりか、私を逃がす様に離れて行ったんだもの。助けてくれた、と言う事の他ないわよね。
心中で独りごちると、ふいと手が胸元に伸びた。襦袢の間を潜り込んだ指先が少しの凹凸に、あの鬼に付けられた一文字に当たる。
もう血は固まっているけれど、ズキズキとした痛みはしかと残っている。
自分の顔がウッと歪んだ。
あの頭目の鬼は、禍々しい感情を私にぶつけていたと言うのに。あの寸前まで、本気で殺そうとしていたのに。
どうして私を助けたのだろう・・。
自分の内で問いかけ、その答えを見つけようとするけれど。これだ!と言う答えは全く見えず、ただ「どうして?」と言う疑問ばかりがわさわさと蔓延っていた。
ふうと息を吐き出しながら手を引き戻し、少し乱れた胸元を正す。
そして楚々とした光を射し込む満月を一瞥してから、私はゆっくりと目を閉ざした。
答えが見つからなければ、見つかるまで動けば良いのよね。
何かを掴むなら、それをきちんと掴むまで動くのが間者の鉄則だもの。
閉ざしていた目をゆっくりと開け、キュッと唇を結んだ。
幸いにも、彼は百鬼軍の頭目。私が探らなければいけない相手で、止めなくちゃいけない相手。
また恐ろしい思いをするかもしれないけれど、私はあの鬼に会いに行かなくちゃいけないわ。
・・それに、助けてくれたお礼も述べないと。あの時は、遮られてきちんと伝えられなかったのだから。
覚悟を決め、キュッと拳を作った刹那。ポチャンと蛙が池に飛び込む音がした。
どうやら、近くの蛙も私と同じ様に覚悟を決めて池に飛び込んだのだった。