あの大騒動から二日後、私は躑躅ヶ崎を発つ事になった。
 カランコロンと下駄の鈴を鳴らしながら城門に向かって歩いていると。「千代」と後ろからかかる声に、私の足が止められた。
 私はゆっくりと振り向き、声の主である徳にぃ様を見据える。
「もう、行くのか」
 憮然とした面持ちで投げかける彼に、私は「相変わらず耳がお早いですね」と小さく肩を竦めてから「ええ」と笑顔で首肯した。
「親方様の折角のご厚意を無下にする事は出来ませんから。これからは、親方様が仰って下さった通りに生きようと思いまする。無論、親方様を支える事は辞めませんよ?親方様が天寿を全うされる、その時までは武田家家臣の千代でおります・・まぁ、これからは今まで通りとはいかず、微力ながらとなってしまいますがね」
「・・左様か」
 笑顔で答える私の前で、徳にぃ様は相変わらず暗い面持ちのまま。
 私はその表情に唇をキュッと哀しく結んでから、「徳にぃ様」と彼の手を取った。
「千代は幸せ者です。徳にぃ様の様な優しい兄君の妹になれて、徳にぃ様の様な殿方にこんなにも想ってもらえて・・千代はまこと幸せ者です」
 キュッとその手を包む力を強めると、徳にぃ様の手が私の手をふわりと優しく包み込む。
 そしてまっすぐ私を見つめながら、「千代」といつもの様に朗らかに名を呼んだ。
「もっとお前は幸せにならねばいかん。そうならねば、私が許さぬぞ。どこに行こうとも、これから先もお前は大切な女性なのだからな。幸せになれぬと思ったら、いつでもここに帰って参れよ」
 私の多幸を切に願う瞳にまっすぐ射抜かれる。
 私の顔はどんどんと幸せに綻び、「はい」と答える言葉が喜びで震えた。
「良いな、千代。必ず、必ず幸せになるのだぞ」
「はい、徳にぃ様」
 私が強く頷くと、徳にぃ様はいつもの様に「良し」と答えてからゆっくりと手を離した。
 そしてその先を託す様に、徳にぃ様はジッと私の後ろを見つめる。
 その視線に促されて、くるりと振り返ると・・。
 そこには私の愛しい人が、いばなが立っていた。
 私はそんな彼にフフと微笑んでから、徳にぃ様に向き直る。
「では、これで失礼仕りまする。徳にぃ様」
「あぁ、達者でな」
「徳にぃ様も、お体にはお気を付けて。そして武功をどんどんとあげ、その名を日の本全土に轟かせて下さいませね」
「勿論だとも」
 徳にぃ様の柔らな微笑を見てから、私はゆっくりと前を向き、そうして一歩ずつ確かな足取りで彼の元に向かった。
 一歩、一歩と前に進んで行くと。その空いた距離を縮める様に、いばなから手が差し伸べられた。
 私はその手に喜色を浮かべてから、自分の手をその手に向かって伸ばす。
 そうしてゆっくりと重なると、二つの手がキュッと絡み合った。
「来るのが遅いぞ」
「それは謝るわ、ごめんなさい。けれど、いばな。これでも大分急いだ方なのよ?」
「でも、遅い」
 ぶすっと膨れるいばなに、私は「そこまでへそを曲げる事ないでしょう」と皮肉を放ってしまいそうになったが。
 その横顔の愛おしさから、もう離れないと言う様に強く絡み合う手から伝わる幸せから、それはかき消された。
 私は柔らかく口元を綻ばせながら「もう良いじゃない」と答える。
「もう私は貴方の元に居るのだから」
 いばなは思わぬ返答に、もごもごと言葉を詰まらせてからふんと鼻を鳴らした。
「・・では、許してやろう」
 いつも通り、尊大な一言に私はぷっと吹き出してしまう。
 いばなはチッと小さく舌を打ってから、私の手を引いて歩き出した。
 ああ。やはり、これからも私達はこうやって共に歩んでいくのだろう・・。
 共に凄まじく不器用だから、進んで歩む道は須く険しいものかもしれない。幾度も茨が邪魔をし、互いにボロボロに傷ついてしまうかもしれない。
 けれど、どんな道であれ、その道が二つに割れる事は決してない。
 これから先ずっと、永い一本道を二人で共に歩み続けていく。
 ・・いいえ。もしかしたら、いつかは二人の道の幅が広がって、隣を歩く者が増えるかもしれないわね。
 まぁでも、それはきっともう少し先の道の話よね。
 今は、まだ二人きり。
 私達は、ようやく隣を歩み始めたばかりなのだから。
                                了