カランコロン、カランコロン。下駄に付けた小さな鈴がコロコロと転がり、朗らかな音を響かせる。
 けれど、その音が耳に入る者はごく僅かだろう。
 何故って?
 それは周りの幸に富んだ喧噪と、すぐに溶け合ってしまうからだ。
 私は辺りの喧噪に顔を綻ばせながら、朗々と歩いて行く。
 ここは私の主君である武田太郎信玄様こと親方様が治める、躑躅ヶ崎《つつじがさき》の館。
 数月離れていたけれど、ここは大分変わった気がするわ。家々がこんなに大きくなかったと思うし、あの座も小さかったはず・・。
 こんなにお膝元が栄える様になったと言う事は、ますます親方様のお力が強くなっていると言う事よね。
 嬉しいわ。こんな形で親方様のお力と、私の努力の証が見えるんですもの。
 フフフと下品な笑みが自分の口から零れた。
 それに気がつくや否や、私はサッと袖で口元を隠し、緩みを正してから何事もなかった様に平然と歩き出す。
 カランコロン、カランコロンと、朗らかな鈴の音が再び辺りの喧噪と溶け合った。
 そして私は沢山の笑顔と溌剌とした声に包まれながら、親方様が待つ本丸御殿へと進んで行く。
 時折、「歩き巫女様(ののうさま)!」と朗らかに呼ぶ声に笑顔で応えながら。
 けれど、突然道行く人達がわたわたと脇に飛び退き始めた。
 耳を澄ましてみると、前からドドッドドッと蹄鉄が地を駆ける音がする。
 これは、城の方から誰か来るわね。
 私も周りと同じ様に小脇に避けようとしたが。ドドドッと馬を走らせながら、城下を駆ける武士の顔を見ると、「あれは・・」とその動きが止まった。
 そしてその場で佇み、ドドドドッと進んで来る馬の真っ正面に立つ。
 ダダダッと馬が足軽に地を駆け、徐々に距離が詰められるが。
 私の手前で、猛然と駆けていた馬が突然大きくひひーんと嘶き、大きく反った。私の前で地団駄を踏む様に、パカッパカッと蹄鉄が地を幾度も踏みしめる。
「流石の手綱捌きですこと」
 私が艶然と馬の背に跨がる武士に声をかけると。その武士は首を一撫でして、馬を宥めてから私を見据えた。
 濃紺色の小袖に灰色の肩衣袴と言う、外出用の出で立ち。若い武士らしく、中剃の髪型。そして何より目を引くのが、この端麗な相貌だ。女達からの覚えもめでたく、彼に恋情を抱く者も多いと聞く。
 けれど、今の彼の顔は苦々しく歪んでいる。折角の端麗さが勿体無い所だ。
 なんて私が思っていると。彼の口が重々しく開き、「千代」と私の名を苦々しく紡いだ。
「帰っていたのか」
「あら、そんな苦々しく問いかけなくともよろしいのでは?」
 久方ぶりの再会ですのに。と、わざとらしく肩を竦めながら言うと、彼は「お主がこうさせているのだ」と憮然と言い返した。
「小脇に避けず、正面で堂々と佇むなんて。全く、どこぞの阿呆かと思ったぞ」
「よぅくご存じの阿呆でしたね、徳にぃ様」
「減らず口を叩くな」
 彼はピシャリと打ち返すと、「全く」と呆れたため息を吐き出した。
 私はそんな彼に、クスクスと笑みを零してしまう。
 そう、私とこの若き武士は顔見知りなのだ。顔見知りと言うか、幼少の頃から共に親方様に仕えている者同士なので、幼馴染みと言う方が相応しい。
 こうした無礼な態度であるのも。元服し、名が真田兵部昌輝となったにも関わらず、「徳にぃ様」と幼少の頃からの呼び名のままなのも、昔から気が置けない仲を築き続けている証だ。
 まぁ、幼少の頃からの温情がなければ、私は間違い無く無礼を働いた罰を下されている。
 如何せん、この方は若いながらも親方様にお目見え出来、「我が両目」と称される程の武人。しかも偉大な父君と剛将の兄君に厳しく鍛えられ、数多の戦場を生き抜いている事もあり、この若齢ですでに将を任された事もあるのだ。
 だからほとんどの者が、無礼を働ける相手ではない。
 げに素晴らしきお方なのよ、徳にぃ様は。各地で傑物達が台頭し、バチバチと火花を散らしている中、まだまだ若い徳にぃ様が負けじと争っているんですもの。凄い人だと思うわ。
 ・・まぁ、かく言う私も徳にぃ様に負けじ劣らず「凄い人」でしょうけれど。
 内心でふふんと鼻を高くすると、前から「千代」と名を呼ばれた。
 私はその声で現実世界にパッと意識を戻し、「なんです?」と、徳にぃ様と向き合う。
「此度の成果も上々か?」
「徳にぃ様、こんな往来でその様な事を尋ねないで下さい。ただの歩き巫女ではないのかと思われてしまいますよ」
 少し窘める様に答えると、素直な徳にぃ様は「す、すまぬ」と謝してきたが。すぐに「いや待て」と小さく声を張り上げた。
「先にただの歩き巫女らしからぬ動きをしたのは、お主ではないか!」
「あぁ!では、私はこれで」
 失礼します。と、徳にぃ様の言い分を笑顔でサラリと流して、私は颯爽と歩きだす。
 あまりの颯爽振りに徳にぃ様は少々呆気に取られていたが。「待て!」と怒鳴り、馬を軽やかに使って私の行く道を塞いだ。
 私は手綱を握る徳にぃ様を見据えてから「何ですか」と、憮然と尋ねる。
 すると徳にぃ様はキリッと眉を吊り上げ「何ですか、ではない」と、物々しく言った。
「すぐに説教から逃げようとするな、お主はそうやってすぐ」
「逃げ足が速くないと駄目ですからね、私の様な者は特に。徳にぃ様もよくご存じでしょう?」
 徳にぃ様の諫言を遮り、一切悪びれず堂々と言ってのける。
 私の様な者・・乃ち、正体を偽って「間者」として働く者の事だ。
 そう、私はただの歩き巫女ではない。津々浦々を旅する歩き巫女と言う立場を利用して、敵方に潜り込んで情報を詮索し、親方様に流しているのだ。
 情報だけではなく、敵国にわざと争いの火種を蒔く時もある。
 要するに、親方様の為に他国を引っ掻き回し、版図を広げる為の足がけとして一役買っているのが私だ。
 これが、徳にぃ様にも負けじ劣らずの私の凄さ。
 武士は誰でもなれるけれど、間者は誰でもなれるものではないもの。
 間者は「最も」と言っても過言ではないほど、敵から目の敵にされている。
 どれくらい目の敵にされているかと言えば、怪しまれて捕縛された時点で死罪が決定する位だ。冤罪だと身の潔白を証明しようとしても、その余地すら貰えない。
 疑わしきは罰する、と言う事だ。
 残忍な話だけれど、灰色の時点で排除するのは当然。間者は情勢をかき乱し、知られたくない情報を筒抜けにする脅威の存在なのだから。何であれ、消してしまうのが利と言う訳だ。
 つまり間者は常に死の危険を背負っていると言う事になる。
 これは筆舌に尽くしがたい重圧なのだけれど。間者たる者は、その重圧に押し潰されない精力と、敵国で堂々と生きる胆力を持たねばならない。
 それに、表の顔が怪しまれない様な教養と、武術も会得していなければいけない。
 勿論、絶対会得していないといけないと言う訳ではないのだろうけれど。それらを兼ね備えていた方が、確実に己の為になる。
 如何せん、味方が己以外に存在しないのだから。一人で切り抜ける力がなければ、死んでしまう。
 つまり身体と心、どちらもかなり鍛えなければ間者として生きていけないのだ。
 そう、乃ち!間者として十年の月日を働く私は、戦で武功をあげる徳にぃ様に負けじ劣らずで凄いと言う事よ!
 うんうんと堅く頷いていると、目の前から「千代よ」と苦々しく名を呼ばれる。
「お主が今、何を考えているかは、そのしたり顔で大方の見当はつくが。あまり武士を挑発するでないぞ」
「これは徳にぃ様だからこそ、です。他所ではしかと弁え、楚々としておりますから。どうかご安心を」
 物々しい諫言にあっけらかんとした笑顔で答えると、徳にぃ様の渋面が更に渋面となった。
「全く。相も変わらず、とんと話を聞かぬ奴だ」
 彼は苦々しく独り言つと、はぁと一際大きなため息を吐き出す。
 そして諦めた様に「まぁ良い」と言ってから、私をまっすぐ見据えた。
「後ろに乗れ」
 私は思いがけない言葉に「え?」と、小さく驚きを零してしまう。
「これからどこかに参られるのではないのですか?」
「・・ここでお主と会ってしまったからな」
 後で参る。と、徳にぃ様は苦々しく言ってから、私の方に手を伸ばした。
 私は差し伸べられた手を一瞥してから、徳にぃ様をまっすぐ見つめる。
「私が後ろに乗っても良いのですか?」
「・・そう白々しく問うな。散々乗っているであろう」
 徳にぃ様は呆れを露わに告げてから「それに」と、言葉を継いだ。
「親方様の元に参るのだから、急いで参った方が良いに決まっておる」
 ふんと鼻を鳴らしながら答えた彼に、私の口元が緩やかに綻ぶ。
「では、かたじけのうございます」
 艶然と告げてから、私は徳にぃ様の手を取って後ろに跨がった。
 徳にぃ様は私が乗ったと分かると「落ちぬ様にするのだぞ」と釘を刺してから、腹を軽く蹴って馬を勢いよく走らせる。
 ドドッドドッと蹄鉄の鼓動が、砂利道に刻まれていく。
 その音に耳を傾けていると、じんわりと疑問が心中に湧いた。
 私は砂利道を駆ける音に負けない様に「もしかして」と声を張り上げて訊ねる。
「徳にぃ様、始めからこうするおつもりでした?」
「何の話だ?」
 肩越しに声を張り上げて返されたが。
「どこかに参るのではなく、実は私を迎えに来て下さっただけなのではないですか?と言う事です」
 と、言い換えて返すと、彼は黙ってしまった。
 私は黙ってしまった背中に、ついつい笑みを零してしまう。
 相も変わらず、徳にぃ様は優しい方だわ。戦支度や評定があり、かなり忙しい御身であるにも関わらず、私の為に時間を割いて下さったんだもの。優しいと言う他ないわ。
「千代は幸せ者ですね」
「・・何の話だ」
「千代が幸せ者だと言う話ですよ」
 歯ぎれが悪い問いにあっけらかんと答えてから、私は艶然と彼の背中に頬を寄せた。
 頬が触れた大きな背は、ほんのりと温かかった。