数月ぶりに、私は親方様がいらっしゃる躑躅ヶ崎館に戻って来た。遠く離れた越前から信濃と言う長い道のりにも関わらず、二刻にも満たない短さで。
 山を幾つも越え、険しい道を歩かねばならないと言うのに、どうしてそんなに早く信濃に到着出来たのかと言うと・・空牙と呼ばれた双頭の蛇妖怪の背に乗り、うねうねと空を泳ぐ様に進んだからだ。
 いばなの前に乗せられたおかげで、後ろからの安心感は大きかったけれど。空を進む心地には微塵も心が落ち着かなかった。あと、後ろから感じる百鬼軍の姿にも。
 この光景には、私だけが怯えた訳ではないと思うのよね。下から泡を食う人々の声や、悲鳴じみた叫びが聞こえていたから・・。
 まぁ、何はともあれ、そうして帰郷してきた訳だけれど。今は、いばなと共に親方様の元に向かっている。
 親方様の御身が心配だから、早くお目通り出来たらと思うのだけれど。横のいばなを見てしまうと、別の不安と心配が襲ってきて気が気じゃないのよね・・。
 私はいばなをチラと盗み見る。
 いばなは親方様に会うと言う緊張にも、不安にも襲われていなかった。それどころか、我が物顔で廊下を踏みしめ、ドスドスといつもと変わらぬ歩調。
 私はパッと視線を元に戻してから、はぁとため息を一つ零した。
 心配だわ・・。いばなはまるで何も感じていないし、態度を改めようとする心すら見えないもの。この調子なら、絶対に親方様に無礼・非礼を働くのではないかしら・・。
 初めて、私の大切な人達が同じ場に揃うのに。初めて、敬愛する親方様の前で自分が恋慕を抱く人を連れて行くのに。
 場が最悪で終わる可能性が「大」だなんて、哀しすぎるわね・・。
 はぁと、私はもう何度目かも分からないため息を吐き出した。
 いばなは私が慕う大切な人だから、親方様にも好いて欲しいのだけれど。絶望的よね、きっと。
 はぁ、ともう一つため息を零すと。横から「先程からため息を尽きすぎだ」と刺々しく声をかけられた。
「そうも横でため息ばかりを吐かれると、気が滅入る」
 嗚呼、やはりいばなは分からないわよね。
 かけられたぶっきらぼうな言葉でそう痛感してしまった私は、憮然としながら「ごめんなさい」と答えた。
 するといばなから、わざとらしいため息が零され「案ずるな」と投げやりに告げられる。
「人間相手であろうが、俺は然るべき相手には礼節を弁える。故に、お前が思う様な事にはならん」
 私は、その言葉にハッとした。
 いばなは分かってくれている!
 あぁ、いばなは分かってくれていたのね。また、私が勝手に決めつけて先走ってしまっていただけなのね。
 自分の愚かな間違いに気がつくと共に、広がっていた不安や絶望が杞憂に塗り替えられていく。
 私はギュッと勾玉を握りしめてから「そうよね。ごめんなさい」と、いばなに微笑みを見せた。
 いばなはその笑みを見ると、ふんと鼻を鳴らす。
「まぁ、任せておけ」
 と言われて、「うん」と嬉々として返した私。
 きっといばななら大丈夫だ。いつもの傲岸不遜な態度を取らず、丁寧な姿勢で親方様と会ってくれるわ!なんて、いばなを信じて疑わなかったけれど・・。
 いざ親方様と対面となった瞬間。
「ほぉ、お前が武田太郎か。噂通りの男だな」
 開口一番にお前呼ばわり且つ堂々と無礼な口を叩くいばなに、私は「申し訳ありません!」とその場で深々と叩頭し、「どうかお許し下さい!」と悲痛に訴える。
「親方様に無礼を働くつもりはございません!彼は尊大な性格でして、この様にしか物が言えないのでございます!」
 私が切羽詰まって言葉を述べた瞬間、横から「何をふざけた事を抜かしているんだ、お前は!」と怒声が飛んだ。
 けれど、私はそんな怒りを歯牙にもかけなかった、否、気にも止めていなかった。ただ、親方様に阿る事だけに必死だったから。
「親方様!どうか、どうかお許しを!決して親方様を侮蔑している訳ではないのです!」
「良い良い、千代。面を上げよ」
 親方様の安穏な言葉が耳に入ると、私は恐る恐る顔を上げた。
 見れば、親方様はいつもと変わらぬ優しい笑みを浮かべていらっしゃり、「良いのだ」とおおらかに言った。
「千代よ。今はワシに阿るより、隣におわす百鬼軍頭目殿に礼を尽くさねばならぬぞ」
 親方様は私を窘めると、いばなの方に視線を移し「遠路はるばるよう参って下さった、百鬼軍頭目殿」とにこやかに告げる。
「本来であれば、こちらが赴かねばならぬ所。まこと申し訳ない」
「構わん。二、三言葉を交すだけだ。場がどこであれ関係なかろう」
 いばなは親方様に対し、尊大に物を言うと。ずかずかと前に進み出て、どっかりと親方様の正面に腰を下ろした。
 私はその傲岸不遜な姿に「いばなあぁぁっ!」と内心で怒り狂い、悲鳴をあげる。
 けれど、いばなはそんな私に気がつきもせず「天影から話を聞いているな?」と、言葉を続けていた。
 親方様はその言葉に「ええ、耳を疑いましたぞ」と首肯する。
「我らに味方して下さるとの事でしたが、頭目殿は本気でそうお考えなのか?」
「あぁ、我ら百鬼軍がお前の力になろう。領土の守護や、戦時には兵として其方に加わる事を約束する」
 いばなが毅然と言い切ると。親方様は「なんと心強い」と喜色を浮かべて、パチンと大きく膝を打った。
 けれどすぐに「だが」と言葉が続き、その声が陰る。
「それでは、こちらに利が偏りすぎていやしないだろうか。頭目殿は、いかほどの見返りをお望みなのか分からぬが」
「見返りや報酬は求めん」
 いばなは親方様の言葉を遮り、きっぱりと宣誓した。
「普段であれば、こんな事は絶対に言わんが。俺にこう言わせてしまう者がいるのだ。全く、お前は実に優秀な間者を持っているものだな」
 突飛な言葉に、親方様は少々面食らう。ヒヤヒヤとしながら話に耳を傾けていた私も面食らってしまい、唖然とその背を見つめてしまった。
 すると親方様がにこやかに相互を崩し、「その様ですな」と答えてから「千代」と私を見据える。
 呆然としていた私は、その呼びかけにすぐには答えられず、数秒置いた後「ハイッ!」と慌てて答えた。
「席を外してくれ。頭目殿と二人で話をしたい」
 おおらかに告げられた命に、私は「えっ?!」と愕然としてしまう。
 親方様は警戒心がお強く、基本的には自分が気を許した忠臣以外とは二人きりにならない人だ。
 それなのに、未だ信用どころか誠意も何も見せていない、いばなと二人だけで話をしたいと仰るなんて・・。
 私はおずおずと「よろしいのですか、親方様」と、問いかける。
 すると親方様は「分かっておるとも」と窘める様に告げてから、私に「下がれ」と言った。
 その柔らかな眼差しと、緩やかに綻ぶ口元を見てしまうと。私は素直に「では、失礼仕りまする」と立ち上がり、楚々とその場を退出した。
 家臣の一人としては、親方様の命に食い下がるべき所だったであろうに。私は千代として、自分の想いを優先してしまった。