しばらくは本当に一言も発さずに、静かに景色を眺めていただけだったけれど。どれほどか時間が流れてから、いばなが「なぁ」と降りていた沈黙を破った。
「今日は問答しないのか?」
 私はおどおどとした問いかけに、目をやや見開いてから「しましょう」と微笑む。
 その刹那、私の頭の中にピカッと雷が迸った。
 今なら彼の内に飛び込めるかもしれない、と。
 えぇ、そうよね。これは今まで訊けなかった事を訊ねる絶好の機会やもしれないわね。
 あと一歩を踏み出すのよ。と、私は貰った勾玉をキュッと握りしめてから「じゃあ、私から訊くわ」と恐る恐る言葉を吐き出した。
「まだ私を紫苑だと見ているのか、どうなのか。教えて、欲しくて・・」
 一歩分の勇気を奮い立たせて訊ねたはずなのに、徐々にひどく弱々しい語勢になっていき、奮い立たせた勇気も声を消え入っていく。
 顔を見て訊いたはずなのに、今の私はジッと自分の足下を見つめるばかりだった。
 じわじわと足下からせり上がる恐怖、「訊かねば良かった」と胸中を蠢動する後悔。
 どうやら、私には踏み込む「覚悟」が圧倒的に足りていなかった。
 それだから、こんなにも彼から明かされる答えが怖いんだわ・・。
 ギュッと拳を袖の中で作り、砂利を少し足先で強く踏みしめた。
 その時だった。
「なんだ、お前。まだそんな下らぬ事を気にしていたのか?」
 彼からかけられた言葉は予想外にもあっけらかんとしていた、と言うか、気落ちする私を小馬鹿にする様な言葉だった。
 それだから、私は「そんな下らぬ事って、何?」と剣呑に言葉を返してしまう。
「私は下らぬ事だなんて思った事はないわ!」
 勢いだって立ち上がり、苛立ちをぶつけたが。
 彼はいきり立った私を怪訝な眼差しで見据えながら「俺からすれば下らぬ事にしか思えん」と吐き捨てた。そればかりか「それに、何故そうかっかしているのだ?訳分からんぞ」と訊ねてくる始末。
 私の怒りがパタパタと煽がれ、ぶわっと炎の勢いが強まった。
「私は、ずっと気がかりだったのよ!なんせ、貴方から一度も紫苑じゃないと言われた事はないし、まっすぐ私を見てくれた事だってないじゃない!」
 ドドドッと言う滝の音をかき消す程の怒声が発せられ、静閑な森にやんわりと響き渡る。
 けれど、まだ私の言葉《いかり》は止まらなかった。
「だから下らぬと一蹴するのでしょう?!私を見ているのならば、この胸の内にある葛藤に気づくはずですものね!心を覆い尽くさんばかりの苦しみと悲しみを慮って、そんな言葉を吐こうとすら思わぬでしょうとも!」
 これで分かりました。と、激昂していた声を冷ややかに抑えて言葉を継ぐ。
「私が紫苑ではないと言う事は愚か、何一つも貴方は気がついていないのだと」
 貴方の事で想い悩み続けていた私が愚かでした。と、私はくるりと背を向けて歩き出した。
「おい、止まれ。調子に乗るのもそこまでにしておけよ」
 物々しい声が発せられ、手をパッと掴まれそうになったが。私は素早く結界を張った。故に、彼の伸びた手が聖なる結界によってバチッと弾かれ、私の手を掴む事が出来なかった。
「・・破邪結界」
 後ろに居るいばなが唖然として呟く声が聞こえる。
 私はその声にくるりと振り返り「えぇ、そうよ」と、毅然と告げた。
 彼は弾かれて火傷をした手を押さえてから「そうよ、じゃねぇだろうが」と吐き捨てる。
「ふざけた結界張ってないで、さっさと解け」
「この怒りが収まるまで解くつもりはないし、貴方と会うつもりもないわ」
 物々しい脅しを歯牙にもかけず「さようなら」と、淡々と打ち返してから、私は足を進ませた。
 その瞬間。ドンッと後ろから爆発音がしたかと思えば、前から同じ音が上がる。
 後ろから飛び上がり、ドスンと前に立ち塞がったいばなに、私は「退いて」と剣呑に言葉をぶつけた。
「一方的に怒鳴りつけて終われると思うな」
「私と、話す事なんて何もないでしょう」
 彼の言葉をバッサリと遮り、冷たく言い捨てると。目の前の鬼の顔が激怒に染まっていく。
 ・・あぁ、本当に訊くべき事ではなかったわね。今まで通り、引かれた線の前で大人しく留まっておけば良かったのよ。
 さすれば、こんな後悔と罪悪感に苛まれる事もなく、こんな風に彼とバチバチと睨み合う事もなかったでしょうから。
 じくじくと心の内で綯い交ぜになっていく後悔と罪悪感に、痛みを覚えてしまうけれど。それを誤魔化す様に「私は悪くない」とギュッと唇を強く噛みしめてから、いばなに向かって「だから早く退いて」と剣呑にぶつけた。
 いばなは私の言葉を聞くと、「お前は、誰に向かって物を言ってんだ?」と自らの怒りを空気中に迸らせる。
「調子に乗るのも大概にしろ!」
 いばなは激怒に燃えながら唾棄すると、掴みかからんばかりの勢いで手を伸ばした。勿論、その手はバチッと大きな五芒星に弾かれて、再び火傷を負う。
 すると彼は弾かれた手にチッと大きく舌を打ってから、自分を弾く五芒星を殴りつけ始めた。
 何度も何度も殴りつけては火傷を負う姿を見て、私は彼の狙いを理解する。
「・・いばな、これは殴って壊せるものじゃないのよ」
「黙れ!」
 いばなは、ガンガンと五芒星を殴りつけながら声を張り上げた。バチバチッと雷が幾度も迸り、彼の両方の拳が一方的に痛々しい姿になっていく。
「いつまでそうしているのか、分からないけれど。早く退いて」
 貴方が怪我を負うだけだから。と、憐憫を向けながら言うと、いばなは「黙ってろと言ったはずだ!」と怒鳴った。
「全く、お前はいつもそうだな!ぐちゃぐちゃと一方的にまくし立てて、こっちの話をちっとも聞かない女だよなぁ!」
「・・何、私が全部悪いって言いたいの?!」
 聞き捨てならない言葉ばかりを並べられ、私も憤激する。それと同時に「絶対に結界を解くものか!」と、言う意地も堅固になった。
 すると目の前のいばなの口角がニヤリと上がり「ほらな、そう言う所だ!」と挑発的に告げる。
「いつも勝手な解釈をして先走る!とんだ阿呆だ、お前は!何も見えず、分からずの状態で走っている事も気づかんのだからな!」
「分かっていないのは、貴方だけよ!私は間違った解釈なんてしていない、全て正しく理解しているわ!だって、私だけがいつも貴方を見ているのだから!いつも私だけが」
「随分素っ頓狂な事を言うものだな!お前がいつも見ているのは、俺の虚像に過ぎんだろ!」
 とんちんかんな返しに、私は「虚像?」と眉根を寄せて「何を言っているの」と嫌悪が滲む怪訝を見せつけた。
「紛う事なき真実だろ。お前は微塵も俺を見ちゃいねぇ、いや、見えてもいねぇじゃねぇか!」
「よっ、よくもそんな事を堂々と言えるわね!私を通して紫苑を見ている貴方になんか」
「お前を通して紫苑を見るなんざ出来る訳ねぇだろ!」
 バッサリと遮られた怒声に、私は「え」と言葉に詰まってしまう。
 勢いが止まった私の隙を突いて、いばなは「当たり前だ!」と怒鳴りながら口早に言葉を継いだ。
「紫苑はなぁ!お前みたいに勝ち気で強情で、やたらと喧しく突っかかる面倒な女じゃねぇんだよ!」
「私だって、勝ち気で強情で、やたらと喧しく突っかかる面倒な女じゃないわよ!」
 思いがけない悪口に憤然として言い返すと、「どの口が言ってんだ!」と力強く突っ込まれる。
「勝ち気で強情で、やたらと喧しく突っかかる女がお前だろ!幾度拒絶してもめげず、立ち向かってきて、ぶつかってきて、俺にずかずか踏み込む図々しい女がお前だろ!千代!」
 ガツッと荒々しい拳と共に飛んできた自分の名前に、私はハッとした。
 今、千代って。いばなが私の事を「千代」って呼んでくれた・・?
 信じられない言葉に目を大きく見開き、自分の中で聞き間違いかどうか煩悶する。
 私は呆然としてしまうけれど、いばなはガンガンと私達の間の壁を殴りながら言葉を続けた。
「そりゃあ始めの頃は紫苑だと思っていたが。俺はお前と接する様になったから理解した、お前を見ていたから分かった。俺の防壁をガンガンと壊して、目の前に現れたのは千代だ、と。俺の側に居る様になった女は千代だ、と」
 だから俺はお前を紫苑だと思う事はなくなった、にも関わらずだ!と、いばなはハッと鼻で笑った。
「当の本人は紫苑に縛られ続けていると来た。剰え、俺がまだ紫苑を見ていると思い、とんちんかんな怒りを俺にぶつけてくる。これほど馬鹿げた事はねぇ!」
 いばなはフッと自嘲を零すと、殴りつけるのを辞め、拳を五芒星に添える様に止めた。
 バチバチッと白の火花が迸り、五芒星の結界が彼の手を容赦なく焼き続ける。
 私はそんな彼にぎょっとして、「辞めて!」と叫びそうになったが。
 射抜かれた彼の優しい目に、「全く、笑えるよな」と朗らかで柔らかい声音に、止められてしまった。
「俺もお前も、一方通行を歩いていたのだからな。そりゃあ当然正面から出会う訳がねぇ。まぁ、互いにこんな性格だ。俺達らしい事と言えばらしいのかもしれねぇが」
「・・いばな」
「けどな。もう一方通行はご免だ、無駄足を踏むのもご免だぞ。だからここから俺が、お前を正面から迎えに行ってやるよ」
 グッと拳が五芒星を押しギチギチ、バチバチと拮抗する音が強くなる。
 その音と血塗れになっていく五芒星によって、胸に込み上げる感動やら嬉しさやらが二の次の意識になってしまった。
「もう分かったから辞めて!今、解く」
「言ったはずだ」
 いばなは私の焦燥を力強く遮ると、ニヤリと挑発的な笑みを見せる。
「俺がお前を迎えに行く、と」
 いばなが朗々と言った刹那、五芒星にビキビキッと数多のヒビが入り込んだ。
 そしてその追い打ちをかける様に、いばなの拳が大きく振り抜かれ、ズドンッと五芒星の中心を強く穿つ。
 すると、バキンッと五芒星から甲高い悲鳴が発せられた。
 五芒星は何とか自らを繋ぎ止めようと踏ん張っていたが。バキバキと伸びる破壊に耐えられず、白旗を揚げてしまった。
 私の目の前で、まるで星の粒がパラパラと流れ落ちる様に崩れていく。血塗れで黒く焦げた拳だけが、その場に残り続けていた。
 いばなは塵と化した五芒星を踏みつけながら、私の方にゆっくりと歩み寄る。その痛々しい手を伸ばしたままに。
「お前だけが壊せる訳ではない。当然、俺にも出来る事だ」
 フッと勝ち誇った笑みを零すと、いばなはもたれかかる様に私を抱き寄せた。
「どうだ、千代。これで満足だろう」
「・・うん」
 二の次だった意識が一気にぶわりと沸き立つと、己の中に満ちる。
「ありがとう、いばな・・。ごめんなさい、ごめんなさい」
「良い、もう何も言うな」
 いばなは囁く様に告げてから、腕の中に閉じ込める力をギュッと優しく強めた。
 私はふるふるとわななく唇を噛みしめてから、彼の背に手を回す。
 出会ってから何月と言う長い時を経て、ようやく私達は千代といばなとして、互いの正面に立てた。
 じわじわと歪む視界から、何度も何度も熱い雫が頬を駆け抜けていたけれど。それは幸せ以外の何ものでもなかった。
 りぃんりぃんと緩やかに揺れる鈴の音も、ようやく出逢った私達を祝福している様に思えた。
 それから、少し経った頃。私が薬草を採りに行こうとしていた時に、あの人がストンッと軽やかに私達の前に降り立った。
「五百年以上経って、ようやく岩に裂かれた水が逢いましたか」
「天影様!」「遅いぞ、阿呆め」
 天影様は私にニコリと相好を崩してから、「場を見計らっていたのだよ」と飄々と答えた。
「私は君と違って、場も空気も、相手が欲しい言葉も読める男だからね」
 いばなはそんな天影様に「四の五の言うな」とピシャリと言う。
 そして「さっさと治せ」と、ずいとボロボロの両手を見せつけるが。
 天影様はその拳を一瞥してから「人に物を頼む態度だとはとても思えないね」と、大仰にやれやれと肩を竦めた。
「まぁ、だからと言う訳ではないけれど。私は治さないよ」
 柔らかな微笑を称えながら毅然と告げる天影様に、二つの声が飛ぶ。
 一つは「あぁっ?!」と荒々しい怒声、もう一つは「えっ?!」と驚く声。
 そして後者である私は、「どうかお願いします、天影様」と頼み込んだ。
「いばなの傷を治して下さいませんか。これはいばなのせいではなく、私のせいで」
「いいえ。その傷に起因するものは全て、他ならぬいばな自身にある。自業自得と言うものです、貴女のせいではありません」
 天影様は私を宥める様に言ってから、「本人もよく分かっているでしょう」と冷めた眼差しをいばなに向ける。
「言葉にせずとも分かっているだろうと言う甘さで彼女を傷つけ、不器用だからと言う自分勝手な理由で誠実に向き合わなかったから、今の君はそうなっているのだよ。良い戒めが出来たものだね」
 あぁ、それに私の鬼火を無下にした罰でもあるね。と、天影様は膨らんだ袖で口元を嫋やかに隠しながら、クックッと笑った。
 その姿に、いばなの口からは「てめぇ・・」と苦々しげな声が発せられる。
「それが主な理由だろう?」
「私は君と違って、物事に私情を挟まないよ。なんせ、私は君と違って、怜悧だからね」
「余計な一言を足さねぇと物を言えねぇのか、てめぇは!」
 いばなはゴウッと怒髪天を衝いたが。天影様は「君にだけだよ」と、依然変わらぬ態度で答えてから、私に向き直った。
「と、言う事ですから。今宵は私が人里の方に送りましょう。いばなの事は心配無用ですよ。我々は鬼です。殊にいばなは大妖怪の両親の血を継いでいますから、明後日には綺麗に治っていますよ。きっと傷跡すらもないでしょうね」
 だから心配いりません。と、私に優しく微笑む天影様。
 私は柔らかく紡がれた言葉にホッと胸をなで下ろし、「良かった」と安堵で満ちた言葉を呟いた。
 天影様は「えぇ」と微笑んでから、「では」と颯爽と私の手を取る。
「明日も私が迎えに行きます。そしてまた明日の宵に、いばなと話をしてやってくださいね」
 甘く、蠱惑的な微笑みにドキリとしながら「はい」と答えると。ふわっと身体が浮き、柔らかな風に包まれた。
 天影様が「では、今宵はこれでお開きです」と言ってから、いばなに淡々と告げる。
「君はそこで待機だよ」
「おい!待て、天影!」
「さぁ、参りましょうか」
 天影様はいばなの怒声を綺麗に無視して、私の手を優しく引きながら颯爽と空を歩んでいった。
 離れていく地上から、ギャアギャアと喚くいばなの声が聞こえる。
 天影様は「ほら。あんなに喚く元気があるので、大丈夫ですよ」と、微笑んだ。
「明日からは、何の遠慮も無く、思った言葉を素直にぶつけてあげて下さい。いばななら、もう大丈夫ですからね」
「はい」
 私は優しく崩される相好を前に泰然と答えてから、柔らかな微笑を返した。
・・
 翌日、宵が深まる酉の刻頃。私はいばなを前に「あのね」と意気込みながら切り出す。
「実は、私、ただの歩き巫女じゃないの。くノ一であり、武田家当主の太郎様に仕える間者なの」
「武田太郎?・・あぁ、甲斐の風雲児か。しかし風の噂で、病に伏せり先が長くないと聞いたが」
「病に伏せったと言うのは、残念ながら真の話なのだけれど。先が長くないと言うのは嘘よ。親方様は病なんぞには負けぬお方だから、直に以前の様に壮健なお姿になるわ」
 いばなの言葉で信濃に居る親方様を思い出し、親方様の無事を祈りながら答えてしまうけれど。ハッと我に帰り「そうじゃなくて!」と、流れを本来あるべき正しい方向に戻した。
「大事なのはそこじゃないわ!間者なの、私は送り込まれた間者だったのよ?!」
 愕然としながら訴えると、目の前のいばなは「そうか」と淡々と答える。私の勢いに押され気味になってはいるものの、彼は平然としていた。
 驚かれるか、間者だったのかと怒鳴り散らされる事を予想し、怖々と構えていた私は、この飄々とした反応に呆気に取られてしまう。
 私はぶんぶんと首を振ってから、「いばな」とずいと前屈みになって彼に近づいた。
「・・あの、間者って言うのはね」
「教えてもらわんでも分かるわ!」
 馬鹿にしすぎだ!と、牙をむき出しにして怒鳴るいばなに、私は「ご、ごめんなさい」と素直に謝り、引き下がる。
 いばなは「全くだ」と憤慨してから、「俺はそんなにも阿呆でうつけだと思われているのか」とか何とか、ブツブツと文句を垂れ流し始めた。
 私は滔々と流れ出る呪怨じみた言葉を「あの」とバッサリと遮り、声をかける。
「怒らないの?間者だったのかって」
 恐る恐る吐き出した問いかけに、いばなは怪訝に眉根を寄せてから「別に」と、堂々と答えた。
「間者として何も果たしていない者に、実は間者だと打ち明けられてもな。反応に困るだけだぞ」
 はぁと嘆息すると、「いや、待て」と、治りかけている手で膝をパンと軽やかに打つ。
「お前の方こそ、間者と言う者が何たるか知っているのか?」
 大真面目に訊かれる問いに、私は「当たり前でしょう!」と噛みつく様に答えた。
 いばなは私の答えに、口角をくいっと意地悪く上げて「そうだったか」と引き下がる。
 私は目の前で零される意地悪い笑みにムッとしてしまうが。己の猜疑心が、すぐに溜飲を下げさせ、彼に「本当に責め立てもしないの?」と弱々しく訊ねさせた。
「私は百鬼軍を探り、信濃への進軍を止めさせる為に送られた間者だったのよ。だから始めは」
「始めは、だろう?」
 いばなは問答に半ば辟易しながら答えてから、私の目をまっすぐ射抜く。
「今のお前は違う」
 その悪戯っ子の様な微笑みに、クックッと面白そうに告げる言葉に、そして柔らかくて温かな声音に、私の全てが己の役割を捨てて惚けてしまった。
 そんな状態に陥っている事に気がついていなかったのか、敢えて触れない様に無視したのか。よく分からないけれど、いばなはまるで何もない様に言葉を続けた。
「しかし、お前が間者と言う立場であるならば、だ。何らかの手柄を持っておらんと主に顔向けも出来ぬし、帰郷する事も出来んだろう?」
「・・えぇ、まぁ、そうね」
 急に振られた真剣な問いかけでハッと我に帰り、訥々と答えると。いばなは「よし」とパンッと力強く膝を打ち、ボッと手の平に鬼火を出した。
 私の勾玉と同じ色である千種の鬼火はゆらりと揺れると、ヒューッと一人でに飛んで行ってしまった。
 それから間も無くすると、微笑を称えた天影様が私達の前に颯爽と現れる。
「邪魔をするなと皆に厳命を下していた君が、邪魔者である私をわざわざ逢瀬の場に呼びつけるなんてね。一体、何事かな?」
 逢瀬の場と言う単語に、私はカーッと羞恥に悶えてしまうが。隣のいばなは、一気呵成で「喧しい」と直ぐさま一蹴する。
「天影、今すぐ武田太郎の元に行け」
 力強く言い切った命令に、私は「えっ?!」と素っ頓狂な声を張り上げてしまった。
 けれど、鬼二人はそんな声を歯牙にもかけず、平然と言葉を交し続ける。
「それは別に構わないけれど。それなりの話がないと、太郎殿には会えないよ。彼はおいそれと会える人間じゃないからね」
「だから百鬼軍が武田領の守護に当たるとでも言え」
「あぁ、それならば彼に会えるね。分かった、そう伝えに行くよ」
「天影。お前の事だ、ぬかりはないと思うが。其方に送られた間者の手柄だと言い忘れるなよ」
「それは勿論、承知しているよ。そうしたら今から行ってくるけれど、天丸か空牙を連れて行っても良いかい?私の足よりも早いほうが良いだろう?」
「・・天丸を連れていけ。アレの方が人間を前にしても大人しいし、人間共にも喧しく騒ぎ立てられんだろう」
 天影様は「分かった」と、にこやかに答えてから颯爽と消えてしまった。
 あっという間に話が纏まってしまったけれど。私の理解はまだいばなが天影様に親方様の元に行けと、命じた所で止まっていた。
 ちっとも前に進まない理解で、流暢に交された話をじっくりと飲み込んでいく。
 そして何とかゴクリと全て飲み込めた時は、天影様が去ってから優に数分は経っていた。
「・・親方様の味方に付いてくれるの?」
「遅い」
 淡々とした突っ込みがズバッと入る。
 いばなは「やっと何か言うと思ったら、まだそこか」と嘆息してから、「そうだ」と力強く答えた。
「これでお前は堂々と戻れるし、身を案じている武田にも早く会えるだろう?」
 フッと笑みを零されて告げられる言葉に、私の胸はじぃんと打たれて感極まってしまう。
 感動が込み上げる胸に手を添えながら、わなわなと震える唇で「いばな」と彼の名を呼んだ。
 そしてギュッと震える唇を噛みしめてから「本当に良いの?」と、いばなの目を不安げに見つめる。
「私としては言葉に出来ぬ程に嬉しい提案なのだけれど。一部の妖怪達は反対すると思うの。だから反旗を翻す、なんて言う事にもなりかねない気がして」
「その時はねじ伏せるまでだ、が。そもそも奴等には、俺に反駁する力も能もないからな。俺の命がなんであれ従う他ない」
 暴君極まりない言葉を力強く言い切ったいばなに、私は思わず言葉に詰まってしまったが。「そ、そう」と弱々しく答えてから、いばなの横に移動して座り、そしてとんと頭を彼の肩に乗せた。
「ありがとう、いばな」
 囁く様に告げると、いばなは言葉を返さずに、ふんと鼻を鳴らす。
 ・・全く。いばなは本当に素直じゃないし、本当に不器用な人だわ。そんな恩に着せる様な態度じゃなくて、優しい態度で「気にする事はないぞ」位言ってくれても良いのに。
 なんて心中ではやれやれと呆れ、ツンとしていたけれど。それは全て本心じゃない様に聞こえた。
 だって、今の私はこんなにもたまらない愛おしさに、ふわりと優しく包まれているのだから。