昨日とは違い、今日は雲が立ち込め空がどんよりとしている。気温がいくらか低く過ごしやすい朝だったが、それでも川沿いの緑道では蝉が元気いっぱい鳴いている。私はジャージ姿で、大橋の袂の広場をぐるぐると歩き回っていた。時計を見る。あー、もうすぐ来ちゃう。「どーしよう」と思わず爪を噛んだ。
 花火大会に、三穂ちゃんが永野君を誘ってくれたのはいいとして、花火大会は究極頑張るとして。それまでの朝の時間の事、考えてなかった。
 ……どうしよ、どうしよ、どうしよー
 腕時計を見ながら、ぐるぐる回った。
 行かない。でも、それも変だし。
 行きたい。行きたくない。
 行きたい。行きたくない。
 行きたい……
 あーーー
 動きを止めてグッと力を入れる。
「いや、こんな事考えてるからいつまでたってもダメなのよ。大丈夫、静かに落ち着け、フー」
 天を仰ぎ「よしっ」と覚悟を決め走り始める。
 鼻の奥が詰まってきて息が苦しくなる。
 胸の鼓動が、ドクドクドクドク。まるで別の生き物の様に聞こえてくる。
「静かに、静かに、スッスッハッハッ」
 橋の向こうから永野君がやってきた。
 来た、静かに、しずかに、し、しず、しあずに、
 永野君がすれ違う手前で「おう」と声を掛け片手をあげてくれる。
 ダメだ!

 私は下を向いて目をつぶり走り抜けた。
 どうして? どうしてなの? と心の中で叫んだその時、舗装の継ぎ目に足が引っかかり体が浮いた。「あっ」転ぶ! 咄嗟に手をかばったおかげで手は無事だったが、かわりに背中から派手に落ちた。「ぅっ痛」背中をさすりながら後ろを向くと、永野君も振り返ってこちらを見ている。
 目の前が白くなりフラフラしたが、それでもすぐに立とうと頑張った。なのに体はいう事を聞かず、息が苦しくてちゃんと立てない。鼻の奥が完全に詰まって、みっともなく口呼吸だけになる。空気をいっぱい吸えているの? 吸えてない? 呼吸の仕方が分からなくなる。

「おい、どうした」と近づいてくる永野君。
 ……うそ、今は来ないで。
 来ないでのつもりで手の平を相手に見せるが永野君は構わずやってきた。そして苦しい。口でいっぱい空気を吸っているはずなのに、どんどんどんどん苦しくなってくる。「キャッ」いきなり右足に電気が走って、ギュッと石の様に固くなった。痛!足が、っえ、何? 私は激痛に耐えて疼くまった。
「足つったのか?」
 永野君が駆け寄ってくる。
 私は必死に痛みに堪えていると、もう片方の足にも激痛が走り、ダンゴムシのように両足を抱えて丸まった。うっうそ、こっちの足も。うそでしょ!
「おい。大丈夫かよ!」
 永野君がしゃがんで心配そうに見つめてきた。その視線に耐えきれない。私は呼吸がますます荒くなり。したくないのに金魚みたいに口をパクパクしてしまう。
 こんなの、嘘よ! 神様、お願い! 嘘って言ってー!
「う、うそ、嘘だろ」私を見て呟く永野君。
 私は目を見開いた。
 違ーう! 神様、そうじゃない。
 完全にパニック状態になっていると、永野君が私の背中に腕を回し、そしてだき抱えられた。
 ?! 
 もう、何がなんだか分かんない。どんどんどんどん呼吸が浅く早くなる。口の周りや顎の部分まで痺れてきて、ただただパニックで何も考えることができなくなっていた。
「マジかよ」と永野君が呟く声が聞こえる。
 私は声を絞り出そうと、口をパクパクさせるが声が出ない。
「な、何だ」と永野君も焦っている。
「く、空気」と声を絞り出した。
「く、空気? ……おい、し、しっかりしろ。救急車! 救急車呼ぶからな」

 永野君が私を担ぐ。そして橋を駆けていく。私は悲痛な表情で目を瞑ることしかできなかった。苦しさと、恥ずかしさと、申し訳なさと、いろんなネガティブな感情の渦の中に、永野君の温もりにちょっとだけホッとした安心と、心の奥底にある疼きが放り込まれていた。こんな時なのに目の前にある永野君の髪が、やっぱりクリクリのくせ毛だって事が気になって、可愛くてしかたなかった。

 ピーポーピーポーとサイレンが鳴り響く救急車の中で、私は、私をまた潰した。少し落ち着きを取り戻すと、途端に恥ずかしさと申し訳なさが、ムクムクと全てを覆い隠すように湧き上がってきたのだ。
 薄く目を開けると、心配そうに見てくれている永野君がいる。「ごめんね」と声にならぬ息を吐いて、恥ずかしくなってまた目を閉じた。心の中で「ごめんね」ともう一度呟いた。



 病院の治療室に運ばれた私は、酸素濃度を測り採血した後、点滴を打たれた。命に別状はないらしい、とにかく呼吸を落ち着けてと言うことだった。
 すぐにお母さんと、糸花おばあちゃんも来てくれた。そして、交代で永野君は帰って行ったらしい。また、「ありがとう」も「ごめん」も。ちゃんと言葉で言えなかった。私は、タオルケットを顔までかけて目を瞑った。