「ええっ。うっ」
「うっ?」
「……」
「ごめんごめん、固まった? ハハ。冗談よ。冗談」
 呼吸を整えて、グッと力を入れる。
「ねえ、三穂ちゃんも、三穂ちゃんも一緒にいてくれる?」
「え、うん。いいけど。誘う?」
「うん」
「いいの? 大丈夫?」
「うん、がんばる。……がんばる。がんばるけど……ちょっと待って、やっぱりダメかな。やっぱり、絶対、たぶん喋れない気もするし。ハッ、そうしたら気まずくなって、朝も一緒に走れなくなるかな。変な目でみられたらどうしよう。笑われたらどうしよう」
 急に不安になって目を瞑った。メトロノームのカチカチという音に合わせて、ネガティブな妄想が頭の中に作られていく。臆病な小さな私が顔を出して袖を引っ張った。嫌、もうこないで! と私は逃げる。
 だけどすぐに、私は汚い物でも見るような目にとり囲まれた様な感覚に陥り、動けなくなった。手を伸ばすとみんなが避けて逃げて行く。男子たちの笑い声が頭に響き、向こう側にいる永野君も後ろを向いて遠ざかっていく。取り残された私は惨めで、体の奥がグジュグジュと気持ち悪くなって、自分が嫌になって、自分を潰して潰して潰して……

「私クラス違うからよく知らないけど、永野ってそんな奴?」
 三穂ちゃんの声にハッと我に返る。
「ううん。絶対違う」
 私は大きく首を横に振って嫌な妄想を振り払った。
「人のこと馬鹿にするの大嫌いって。昔、何度か助けてくれたんだ。だから私。ずっと、ちゃんと『ありがとう』って言いたくて」
 そう、永野君は、私が言葉が出ずに笑われている時に間に入ってくれた。自分と、その周りにある軽薄な笑い声響く間に、ガッと一歩足を踏み入れて「人のこと馬鹿にするの大嫌いって」確かに皆んなに言ってくれたんだ。それなのに私「ありがとう」ってちゃんと言えなくて。
「そう。そっかー。目立たない奴だけど。良かった。そんな奴がいて」
「うん」私は自分に言い聞かせるように力強くうなづいた。
「頑張る。三穂ちゃんがいてくれれば、喋れるような気がするし、何とかなる気がする」
「ハハ、買いかぶりすぎよ。私何もできないよ」
「いいの」
「本当にいいの?」と言って三穂ちゃんが私の顔を覗き込んで来る。
「うん、頑張る。何とかしたい。少しでも、ほんの少しでも変わりたいから」
 オーボエをギュッと握りしめた。
「フフフ、瑠璃は本当良くわかんないや。弱いんだか強いんだか」
「えっ」
「弱いなーって思ってたら、静かにずっと頑張るし、思った事は曲げないし」
「そうかな」
「オーボエの時だって、まさか立候補するとは思わなかったし。さらに定員1席を勝ち取ったのは超驚きだしね」
「だって、これしかないって思ったから」
 ……そう、私にはオーボエしか。
「フフ、私が転校して来てハブられたときだってさ、瑠璃は最後までそばにいてくれたからね」
「うん」
 三穂ちゃんが背伸びをしてから振り返った。
「ヨーシ、じゃ誘ってあげる。そういうの得意だから任せといて」
「ありがとう」
「お互い様っしょ。へへ。あ、ほら永野走るよ」
「え」
 見ると、スタートラインに選手が並んでいる。その中に永野君の姿も見えた。
「よし」
 私は呼吸を整え、オーボエを構えた。
 静かに息を吸ったあと、集中してオーボエに息を込める。
 細いリードに丁寧に。決して量はいらない。細く強く、丁寧に丁寧に。
 そして、芯の通った音がスーと広がっていく。  
 ……良い子。ね、大丈夫、ちゃんと響くよ。

 三穂ちゃんが目を閉じて聞き入ってくれる。三穂ちゃんは、いつもオーボエの音がまっすぐ響いていくのが「すごい!」って凄い勢いで褒めてくれるけど、私はただ大事に音を出すだけ。
 やがて校内に響いている、いくつもの吹奏楽部の楽器の音の中に、そのまっすぐな音色が溶け込んでいく。不思議と、いろんな所で八方に響いていた音が、そのオーボエの音に合わせ、一つに重なった錯覚に落ちる。まるで、オーケストラでそれぞれの楽器がオーボエの音に合わせてチューニングをする様に。その幾重にも折り重なった音が、黄金色に染められた構内を超え、ムワッと熱く渦巻いていた大気を、スッと整列させるように真っ直ぐ飛んでいく。私の心も落ち着いて明るいオレンジと薄い瑠璃色が混じり合った空一杯に広がっていく。
 今、この瞬間だけ、世界が変わる。私は、音色に彩られた世界に溶け込んでいく。音色と共に空いっぱいに広がっていく。どこまでもどこまでも遠くへ溶け込んでいく。
 息が続く、この瞬間だけ……