永野君。
 ありがとう。
 助けてくれて。

 朝の大橋、両足をつって固まっている私を背負って走ってくれる永野君。息を切らし必死に走る。
 夜のバス停、二人ポツンとバス停に座っている。永野君はおもむろに立ち上がり、話しかけながらストレッチを始めた。
そんな永野君を見つめる私。

 私の記憶は、小学生の3年の頃、永野君との昔の思い出に遡る。
 ランドセルから落ちた教科書などが散乱し、私は男子数人に囲まれ泣いていた。その間に割って入る永野君。他の男子たちと揉み合いになる。しばらくして、永野君が散乱している教科書を拾って集めてくれた。顔にアザができて、少し血も出ている。
 あっけに取られている私に、無理やり教科書を渡すと、少し照れ臭そうにクリクリ髪の頭を掻いて、走り去っていった。私は、永野君を見つめながら教科書をぎゅっと抱き締めた。
 ……私、救い出された。
 辛い、いろんな出来事に、下しか向けない私が、ここから、前を向けるようになったんだ。涙がこぼれた瞬間、その一瞬で世界が変わった。世界が輝いて見える。こんなに辛いことがいっぱいあるのに、涙で世界が輝いて見えた。
 ありがとう! ありがとう! 私は声にならない声で永野君の後ろ姿に叫び続けた。
 永野君のおかげで、前を向けた。そのことをどうしても伝えたくて。
「サリーガーデン」が終わろうとしている。
 夜空一面に広がった音色が、空からスーッと降りてきて、静かに、大地に、体に、心に染み込んでいく。瑠璃色の音色に彩られた世界。優しい時。そして想いが、優しく溶け込んでいく。
 私は、最後の音を丁寧に吹き終えた。



 届け!!



 空を見上げ、目をつぶった。私のすべてを、この子(オーボエ)と一緒に響かせた。全ての想いを伝えられただろうか。
 ………怖い。でも、これが私のすべて。
 やがて、静寂をやぶり三穂ちゃんが拍手をした。皆も拍手をしてくれる。
「……みんな、……ありがとう」
 私はホッとしてオーボエを胸にお辞儀をした。手に力を込め優しくぎゅっとオーボエを抱きしめる。そして「ありがとうオーちゃん」と呟いて少し離して改めて見つめた。銀色のキーが輝いて誇らしげに見える。言葉は何も聞こえなかったけど、きっと最高の演奏ができた事を自慢しているんだと思う。
「うん。ありがとう」
 そして、この子(オーボエ)もホッとしている。分かるよ。だって、ずっと一緒にいたんだもん。私はもう一度優しくこの子(オーボエ)を抱いた。

 向こうを向くと、お母さんとおばあちゃんが笑って手を振ってくれていた。
 三穂ちゃんが背中を押す。
「えっ?」
 と驚く私は、永野君の前に連れていかれた。三穂ちゃんを見ると、顎で永野君に言えと合図をくれる。
「うん」
 深呼吸をして、お腹に力を入れた。そして永野君に向き直る。
「小学生の時、助けてくれて、救い出してくれて、本当に本当に本当に、ありがとう」
 永野君はだまっていた。
「私、あの時から歩ける様になった。前を向いて、私なりに、歩ける様になったの」
「……」
「ありがとう」
「ああ」
「どうしても、ありがとうって。ちゃんと、私の、私の声で言いたくて」
「……ああ」
 永野君が、頭を掻いて下を向く。
 私は深呼吸をして、少しホッとした。
「どう、どうだった。瑠璃の演奏」と三穂ちゃんが永野君に詰め寄る。
「……おう」
「涙ぐんでる?」
 脇を向く永野君。そして
「俺が言いたいのは………」と言葉を探す。
「……」
「次は、次は、ないなんて、言うな」
「……」
「待つよ。時間が必要なら、いつまでも待つ。だから」
「でも私」
「待つ!」
 永野君は強い口調で私の言葉を遮った。
「ずっと待つ。ずーーーーーーと待つ。だから、次はないなんて言うな。次はないなんて絶対言うな!」
「うん」
「それに」
 永野君は上を向いて、鼻を啜った。
「言葉はなくても、ちゃんと気持ちは伝わるよ。伝わった! だから、心配しなくていい」
「……うん」
「また、聴かせてほしい」
 永野君が頭をかく。
 私は笑顔になった。
「うん」
 笑顔で、溢れた涙を拭いて空の星を見上げた。空では星が煌めいている。

 あー、やっぱりそうだよね。世界ってどっかで輝いている。辛いことがあったって、悲しいことがあったって、それだけじゃないんだ。どっかで確かに輝いている。
 一瞬、その一瞬が、輝き煌めいている。
 私も。たった一瞬だけど。短い短い一瞬だけど。確かに輝けたんだ。
 ……そして、一瞬しかないその輝きを見てくれて、ありがとう。

 そっと下を見ると、あの小さくて臆病な私も、喜んでくれている気がしたんだ。だから私は私にそっと微笑んだ。
 うん。
 私、これからも。
 私なりに。
 時間をかけて、
 ゆっくり、ゆっくりと、
 私らしく歩くよ。

 ありがとう、みんな。
 ありがとう、私。

                                   FIN