星月夜。風鈴の音が、チリン チリンと静かに響く。
 道路に面した古い2階建て1軒家。脇の看板には「星音表具店(襖、障子、壁紙、ジュータンお気軽にご相談下さい)」と書かれている。1階道路側は作業場になっており、一面ガラス張りの引き戸になっていて中が見える。
 また、チリン チリンと風鈴の音が鳴った。 
 明かりの漏れる2階の窓。

 私は窓辺の机に向かって原稿を書いていた。まずは入念にシミュレーションしよう。私なりの対処法だけど、予定外の事が起きなければ対処できる時もある。しっかり原稿を作って。発声練習。
「あー、あー、ありがとう。……ありがとうございました。かな。でも、敬語っていうのもなあ」
 時間があれば、しっかり準備さえできれば。それでもダメなら。ダメでも、待ってもらえれば。落ち着く時間さえもらえれば、きっと、緘黙もずーっと、ずーーーとは続かないだろう。
 ……きっと。
 そう思いながら、ふーっとため息をつき、ベット脇に畳んで置いてある紺瑠璃色の浴衣を見つめた。瑠璃はラピスラズリとも呼ばれ、吸い込まれるような濃い青色の宝石。浴衣はそんなラピスラズリの原石のような色の生地の上に、うす紫、白、淡いピンクなどの桔梗の柄があしらわれていた。派手さはないけど、桔梗の柄が優しく薫るように咲いていて、お気に入り。


 1階、暗い作業所に、奥の居間からの明かりが漏れる。
 私は居間に置いてあった身鏡の前で浴衣を羽織ってみた。紺瑠璃色が体に馴染み、フフフッて笑みがこぼれてくる。
 くるっと周り、仏壇の父の遺影にその格好を見せる。
「どう? しゃべらなくても何とかならないかなー」
 ちょっと恥ずかしくてはにかみながら、仏壇の前に座り、鐘をチンと鳴らした。そして、立ち上がり、作業場の方へ歩いていく。

 作業場の電気をつけると、パッと明るくなり、綺麗に片付けられた中央の作業台が目につく。その向こうに、作業場に立つお父さんの面影が今でも浮かぶ。
 微笑んでいる。分かるよ。
「伝わるよね」
 私も微笑み返して、そう呟いた。


 部屋に戻って着替え、オーボエの手入れをしながら花火大会の時のことを思った。当日、私はできる事をやるだけだ。もし、それでもダメなら、その時は手紙を渡そう。私は場面緘黙症という症状で、男性の前でしゃべれなくなる時があります。しゃべらないんじゃなくて、しゃべれないのです。永野君に伝えたいことがいっぱいあります。
 ごめんなさい、ありがとう……
「はぁ、ダメダー、文字にすると嘘っぽい。どうしようー」
 ……そして、怖い。
 ザワザワと波立つ心を、オーボエを撫でて落ち着かせた。それから、クロスを使ってオーボエのキィの汚れを優しく拭きあげる。銀色のキィがくすぐったそうにキラキラと光を反射した。
「でもやっぱり、花火、一緒に見たいなー」
 窓から空を眺めると、星が煌めいている。
 また夜風が入って来て、風鈴の音がチリンと静かに響いた。