ーーそこにいたのは、一人の男子生徒だった。
私と同じ制服、同じ色のネクタイ。同級生だと一目で分かった。しかし、見覚えのない生徒だった。背格好も知っている人では無いし、目は長い前髪で隠れ、顔も伺えない。
彼は恐らく私を見て、それからゆっくりと近づいて来る。逃げ出したい、と思った。けれど、足がすくんで動かない。
その間も男子生徒は私に近寄り、腕を伸ばしてきた。そしてーー、
「いらっしゃい。君は新入り?」
「……は?」
予想しなかった発言に、思わず声が漏れる。
「えっ、新入りって……どういう、こと?」
「うんうん、その反応なら新入りで間違い無いね」
「だから新入りってなんの……」
「この世界の新入り、って意味」
「この、世界……?」
それじゃあまるで、別の世界に来たみたいな言い方じゃないか。そんな馬鹿げたこと、あるはずが無い。
「疑ってるね。けど、本当だよ。ここは、君がいた世界とは違う世界だから」
「へっ……?」
「じゃ、これからそのことについて説明する。あ、ちなみに僕は泉。泉祐也」
「はぁ……」
「君の名前は?」
「あ、えっと……私は、出羽実咲」
「出羽実咲、か。実咲って呼んで良い?それとも、名字の方がいい?」
「あ、いや、……実咲、でいいよ」
胸がドキドキした。異性から下の名前で呼ばれるなんて滅多になかった。そもそも、呼び方を尋ねられた経験も少なく、変に緊張が走る。
「じゃあ実咲で呼ばせてもらうね。僕も祐也でいいから」
「わ、分かった……」
祐也は慣れているのか、呼び方に関して戸惑いを見せない。
「それで、まずはこの世界についての説明」
祐也は人差し指を伸ばし、真っ直ぐ足元を指した。
「単刀直入に言うと、ここは僕らが生きている本物の世界とは反対の世界なんだ。つまりは、鏡の中の世界にでも来たと思えば良い」
「鏡の、世界?」
「そう」
「本当に鏡の中なの?」
「いや、あくまで比喩だよ。僕らが勝手に言ってるだけだ。……実咲はあっちの世界が嫌いになったんじゃないかな?生きていたくない、とか、消えたい、とか、そんなことを思ったんじゃない?」
「えっ、なんで……?」
「それは、この世界は本物の世界に拒絶された人間、もしくは本物の世界を拒絶した人間がたどり着く場所だから。故に僕らは、鏡の世界と名づけた。拒絶される、拒絶するの反対、求めている、求められている世界だからね」
「拒絶……」
「そう。実咲も心当たりがあるんじゃないかな?」
「……」
ない、というのは嘘だ。確かに私は、トイレにこもっているときに願った。本当に消えたい、と。こんな世界なんかで生きていたくはない、と。そんな想いが、私をこんな世界に引き寄せたのだろう。
黙り込む私を見て、祐也はやっぱり、と言いたげに口角を上げる。
「つまりさ。ここは実咲が拒絶するものも、実咲が拒絶されるものも、何一つない。伸び伸びと暮らせるんだよ」
表情は分からないが、口の動きと声の調子から嬉々としていることが分かる。確かに、嫌いな人間がゴロゴロいる世界と比べたら、この人気のない世界の方が過ごしやすいかもしれない。
「ここは、祐也の他には誰もいないの?」
「ううん。僕以外の人間はいるよ。ただし、みんな、あっちの世界から拒絶されたり、あっちの世界を拒絶した人たちだけど」
「その、祐也はあっちの世界から来るって言うけど、つまり、ここにいる人たちはあっちの世界にはいないんだよね?」
「そういうこと」
「じゃ、じゃあつまり、あっちの世界では、私達は居ないことになってるの?その、元から、存在しない、みたいな」
「いいや、そこまでじゃないよ。元から存在してるし、記憶もある。だから、言わば行方不みたいに扱われてるんだろうね」
「行方不明……」
「そ。実咲は僕らの学校の七不思議を知ってる?」
「知ってはいるけど……1番有名なやつだけだよ。ある日突然、人が消えるって……」
「その七不思議の原因が、この世界なんだ」
「えっ……?あ、じゃあ消えた人っていうのは……」
「この鏡の世界にやって来たから。七不思議という名で行方不明になった生徒は、実はこの校舎内で穏やかに過ごしているんだよね」
「そう、なんだ……」
説明に嘘は無さそうだし、祐也の話は筋が通っている。しかし、頭では理解できるものの、やはり少し信じ難い。
「まぁ、信じられないのも無理もないよ。側から見ればただのファンタジーだ」
だけどね、と彼は続ける。
「本当だよ、今の話、全部」
そう告げた祐也の前髪が一瞬だけ揺れて、僅かな隙間から目が覗いた。切れ長で鋭く、全てを見通しているような瞳。それと目が合って、息を呑んだ。
思い込みだろうけど、信じろ、と強く言われた気がした。
この人は、嘘は付かない。
この人は、信じられる。
今まで沢山の人を見てきたから分かる。祐也は、私を裏切らない、と。
祐也は付いて来て、と私に背を向けて歩き出す。私は迷いなく、彼の後ろについて行った。