どうやって辿り着いたのか、正直記憶は曖昧で、気がつくと綺麗な夜景が広がっていた。
普段は来たこともないような場所で、少し錆びついた柵と、古びた望遠鏡がいくつか置いてある。
周りに人はおらず、僕と灯子の二人だけの世界だった。
「綺麗だね」
灯子が人工的な光を眺めて呟く。僕も同意を示すように、うんと頷いた。
「この光の数だけ……ううん、それ以上に人は生きてるんだよね」
「そうだね」
「温かいね。羨ましいなぁ」
灯子は身軽な体を持ち上げ、錆びた柵の上に座った。街の方を見つめるその背中を、僕はぼんやりと見つめる。
一人ぼっちで寂しいという感情が、彼女を包み込んでいるようだった。
「ねぇ、祐司くん」
くるりと顔だけをこちらに向ける灯子。瞳の中に、街の光が差し込む。僕はその目の奥にあるものを探るように、見つめた。
「あたしと、本当に付き合ってくれない?」
その言葉は、初めて会った時とはまるで違う雰囲気をまとっていた。本当に、心から彼女は僕との交際を望んでいると、瞬時に伝わってくる。
まるで、僕があの子に見えない手を伸ばした時のように、灯子は僕の心へと訴えかけていた。
あの子も、きっとこんな気持ちだったのだろうか。
あの子は今、どうしているだろうか。
夕食時だろうか。それとも生真面目に高校入学に向けて勉強しているのだろうか。
あれから先生への挨拶はできたのだろうか。
無事に家に帰ることはできたのだろうか。
ああ、僕は──。
「ごめん、付き合えない」
一人の女の子と、こんなにも密に関わる機会があったのに、どうしたって稔莉のことが脳裏に浮かんできて忘れられない。
まるで初恋という名の呪いのようだった。
こんなにも気軽に話ができて、僕のことを欲してくれる人がいるというのに、僕はいつだって目の前の人に稔莉の姿を重ねてしまう。
忘れるために灯子を利用することなんてできない。稔莉のことを、簡単に忘れることなんてできない。
だって好きなのだ。どうしようもなく好きなんだ。
例え連絡先がなくても、今後の繋がりが持てなくても、この思いを簡単に断ち切って、別の誰かに乗り換えることなんてできない。
この恋に卒業式が訪れるとしたら、それはきっと稔莉と結ばれた時か、どちらかが死んだ時だろう。
ビュッと強い風が吹く。三月の夜風は、高い場所ほどより冷たく体に当たる。
風に乗って、灯子の髪の毛が顔を隠した。その流れに身を任せるように、彼女は顔の向きを街の方へと戻す。
「そっか……わかった。じゃあ、これが本当に最後のお願い。少しで良いから、隣に座って、一緒に夜景を見たいの」
俯きながら、背中を通して語る灯子。
寂しい思いに応えられない罪悪感が僕の背中を押すように「わかった」と呟いて、手すりに手をかけた。
これが最後の願いというのなら、気持ちに応えられない分、少しでも寄り添ってあげよう。
力をかけながら、僕は足をかけて跨いだ。
キィッと錆びた鉄が鳴く。
「ふふっ」
笑い声が聞こえたと思った瞬間、突然、背中をとんっと押された。
強い力ではないはずなのに、僕はバランスを崩す。
元に戻ろうにも、変に力を加えたからか、ガキンッと手すりが朽ち、僕の目の前には人々の明かりだけが視界いっぱいに広がっていた。
落ちる──。
そう思った時、正面から何かに突き飛ばされた。腐り、壊れた柵も超えて、僕はコンクリートに頭を打つ。
「痛ってぇ!」
言葉にならない痛みに、頭を抱えて転げ回った。
幸い血は出ていないようだったが、僕のような石頭でも、絶対にたん瘤にはなっているだろう。
涙が溢れ、視界不良だったが、押した何かと突き飛ばしてきた何かの正体を知ろうと、僕は目を開けた。
すると、そこにはぼんやりと白い光を放った何かと、黒いもやをまとう何かがあった。
「え?」
頭を打った衝撃で、僕は幻覚を見ているのかもしれない。
拭った涙の先にいたのは、稔莉と灯子だった。
稔莉はぼんやりではあったが、白い煙のような光を放ちながら、灯子の手首を掴んでいる。
対して灯子は、今までに見たこともないような、怒りの表情を、稔莉の方に向けていた。
「何するのよ! もう少しだったのに!!」
掴まれた手を何とか振り払おうと、右へ左へと勢いよく振り回す灯子。
「危ないことはしないでって言ったのに、あなたが約束を破ったのがいけないのよ」
稔莉は灯子の手を掴んだまま、ふわりと浮かび上がった。僕の存在など、お構い無しに二人の世界に入り込んでいる。
「み、稔莉? 灯子はもう少しだったって、どういう……」
一気に夢から覚めたようだった。さっと血の気が引いていく感覚がする。
例えるならそう、夢の中では学校にいるのに、現実は寝坊してしまった日の朝のような。
そんなどうでも良いことを考える余裕などないはずなのに、考えていなければ自我を保てないような気がして、僕は目の前の出来事を受け入れることに必死だった。
すると、稔莉が僕の方を振り返って言った。
「この子はね、ずっと一緒に死んでくれる人を求めていたの。謳歌できなかった青春を、誰かとあの世で楽しみたくて、そんな相手を探していたのよ。この前のブランコの時だって、今日だってずっと祐のことを、あの世へ連れていくつもりだったんでしょ」
稔莉が言うと、灯子は口角を上げ、「ふふっ」と不気味な笑みを見せた。
「そうだよ。祐司くん優しいから。ねぇ、今からでも遅くないよ、一緒においでよ……」
最後まで言い終わらないうちに、稔莉が灯子の手をぎゅっと力強く握った。灯子の表情が歪み、キッと稔莉のことを睨む。
「この前は、まだ人間に好意を寄せるだけの可愛い霊かと思って見逃してたけど、私の判断が間違っていたのね。ごめんね祐。危険な目に合わせてしまって。でも、もう大丈夫だからね。この子は私が連れていくから」
「嫌だ!」と叫ぶ灯子の手を引き、更に高いところまで浮かび上がる稔莉。
どういうことだ。稔莉はどうして、灯子と同じように空を飛べるんだ。そしてあの放つ光は何なのだ。
考えられる最悪の想定を、受け入れたくなくて、僕はその答えに蓋をする。
それでも、何となく二人と話せるのはこれが最後のような気がしてならなかった。
だから、これだけは伝えないといけない。
「灯子! 僕はまだ、灯子と一緒のところには行けないよ。でもさ、灯子と過ごした時間は、経験したことのない出来事に溢れていて、凄く楽しかった! だから、またどこかでパフェでも食べて、待っててくれよ!」
空に向かって叫ぶ。
般若のような顔になっていた灯子は、僕の言葉を聞くと、力が抜けたように、涙を流し、黒いもやは風に乗って消えていった。
涙が稔莉の光に照らされ、きらりと光ながら落ちていく。
そして僕は、大きく息を吸って叫んだ。
「稔莉ー!」
初めてこんなにも大きな声を出したかもしれない。稔莉は少し驚いた様子で、僕と視線を交えてくれた。
「僕は、昔からずっと稔莉のことが好きだった! 僕が初めて好きになったのは、稔莉なんだ! 塾に入って、再会できて本当に嬉しかった! 稔莉と出会えて、本当に良かった! 稔莉、生まれてきてくれて、ありがとう……!」
はぁはぁと、息が上がる。
普段、凪のように穏やかな表情を変えない彼女の目が、今にもこぼれ落ちそうなほどに潤んでいるのがわかった。
何か言葉を紡ごうと、空で口を動かしているも、その内容は聞こえてこない。
だが、最後に思い切り微笑んで、光り輝く涙の川を頬に流していた。
「私の方こそ……ありがとう」
稔莉は最後にそう言い残して、灯子の手を引き、空高く昇っていった。
次第に彼女たちは夜の星の一部となり、展望台には僕だけが残される。
僕は力尽きたように、冷たいコンクリートの上に倒れた。
真っ暗な空だった。人工的な明かりが邪魔をするせいで、数えられるほどの星しか、夜というキャンバスの中に埋め込まれない。
気づけば僕も、生温い雫が瞼の裏から溢れていた。
水なのに、体の中から溢れ出した温かいその涙は、生きていることを実感させる。
消えていく星と、人々の温もりの間に挟まれた冷たいコンクリートの上で、僕は枯れるまで泣き叫んだのだった。