翌日は雲一つない快晴だった。緑の木々が白と桃色のドレスをまとい始め、春の香りを漂わせる。
 在校生は恐らく授業中であろう午後の時間帯に、僕は適当な私服を着て外に出た。
 中学校までの道のりは、歩いて二十分ほどの距離にある。心地よい気候を感じながら、僕は歩みを進めた。
 この時間帯に、中学前に姿を現すと、近所の人に怪しまれるため、パーカーのフードを深々と被り、陰キャの得意技である空気に溶ける、を発動させる。
 幸い通報されることも、声をかけられることもなかったため、僕は中学を囲むフェンスの側まで来ることができた。
 あともう半周も回れば校門に着く、と言うところで、下を向いていた僕の視界に、音もなく人の足が現れる。
「来てくれたんだ! 嬉しい〜! 待ってたよ!」
 恐る恐るフードの端から目の前に立つ人を見ると、あの日と変わらない制服姿で笑う灯子だった。
 僕はほっと肩を撫で下ろし、通行人に変な目で見られないよう、未接続のブルートゥースイヤホンを耳に差し込んで通話中のように話す。
「迎えに来られるのは嫌だからね。ところで、今日はどこに行きたいの?」
 敢えて呆れ顔で言ってみると、灯子はぴたりと隣に並んで僕のことを見上げてきた。
「あたしが連れていってあげるね! はい、腕貸して!」
 空を飛んでいけば早いはずなのに、灯子はわざわざ隣に並んで、腕を組んでくる。
 もちろん物体はないため、感触はなく、微妙に浮かした僕の腕の隙間から冷たい風が流れているような感覚だった。
 これも一種の未練なのだろうか。嬉しそうに僕を見つめながら歩く彼女は、子供のように無邪気で、正直妹ができたような気分だった。
 僕らはそのまま駅へと向かい、電車に乗った。一人分の電車賃で、県の中心部までやってくる。
 都会の街を、キラキラと目を輝かせながら歩いて回った。
 ペットショップの窓ガラスに張りついて、動物たちを愛でたり、商店街の服屋に入ってマネキンのポーズを真似してみたり。
 化粧品売り場のサンプルにそっと触れて、瞼に乗せて見せた灯子だが、青色なんて選ぶから、何だか殴られた後のような顔になっていて、思わず吹き出してしまった。
 そんな僕の反応を見て、慌てて鏡を見ながら目をゴシゴシと擦る彼女に、何だか少し心がほぐされてきたような気がする。
「何してんだよ」
 そんな突っ込みを入れると、灯子は恥ずかしそうに「だってだって」と赤くなりながら言い訳をする。
 そんな時間を、意外にも楽しんでいる自分がいて驚いた。
 周囲のことを考えると、やはり僕の方から堂々と話すことはできないが、灯子は目につくもの全ての感想を述べるように、一人ペラペラと隣でお喋りをする。
 半分以上がどうでも良い内容で、記憶に残りもしなかったが、不思議と苦痛に感じなかった。
 ただ時折、可愛い服やキラキラとしたアクセサリーに手を伸ばしては、すっと引っ込めたり、近くで歩くカップルや子供連れの家族を見ては、寂しそうな瞳になる灯子を見て、蜘蛛の糸のように細い針が胸に刺さったような気分になる。
 生きていたら、きっと彼女は僕なんかよりも素敵な人と出会って、本気で恋をして、付き合って結婚して子供も生まれていたかもしれない。
 尤も、ついこの前まで生きていた、の〝この前〟がいつかは知らないが。
「あ、ねぇ、これ食べたい!」
 虚ろな目をしていたかと思えば、コロッと表情を変え、次の店を示す灯子。
 そこには女子大生やカップルが並ぶ、如何にも女子が好きそうな、オシャレなカフェだった。
「このパフェ食べたいの、お願い……!」
 正直、こんな店に一人で入る陰キャ男子のレッテルを貼られるのは、かなりハードルが高く、僕は「えぇ……」と感情を漏らす。
 それに、灯子は本当に食べられるのだろうか。でも、ブランコや化粧品を触ることができたのなら可能なのか?
 一人で考え込んでいると、今までの強引さはどこにいったかと思うほど、彼女はしょんぼりと肩を落としていた。
「そうだよね……女の子ばっかりで嫌だよね……」
 組んでいた腕もするりと離し、カフェとは反対の方へと歩き出そうとする灯子。
 そんなにも行きたかったのかと、僕は慌てて言った。
「いいよ、行こうよ」
 青春を味わえずに死んだ彼女は、きっとたくさんやりたいことがあったのだろう。
 寂しそうな目に映る世界は、僕がいくら取り戻そうと動いたところで、恐らく本物を手に入れることはできない。
 だが、嘘の世界であっても、体験することができれば、彼女は笑顔で旅立てるかもしれないのだ。
 僕だって、稔莉に思いを伝えないまま死んでしまったとしたら、きっと後悔してあの世になんてとてもじゃないけど行けないし、やり残したこと、叶えたかったことを少しでもできるようにしたいと思うはずだ。
 ならば、灯子も同じだろう。正直、カフェに入ることを喜んでできるわけではないが、僕の少しの我慢が彼女のためになるのなら、行っても損はない。
 すると彼女はこちらを向いて、悪戯っぽく笑った。
「やった! 祐司くんならそう言ってくれると思った!」
 行こ、とまた腕を組む灯子。
 前言撤回。また上手く騙された。
 僕はそのまま流れに乗って並び、カフェへと入る。
 もう良い。今日だけは騙され続けてあげても、死にはしないだろう。
 気持ちを切り替え、案内された席へと座った。彼女が選んだ、大きな苺とチョコレートのパフェを注文する。
 恥ずかしすぎて、不審者のようにフードを深く被った僕とは反対に、向かいの席には終始周りを見渡して楽しそうな灯子。
 周りから見たら、明らかに怪しい男に見えるだろう。
 そんな男の目の前に、程なくして大きなパフェが運ばれてくる。店員が何も声をかけて来なかったことが救いだった。
「うっわぁ! かっわいい!」
 ただのもりもりに盛られたパフェを可愛いと言う気持ちはよくわからなかったが、そんな様子を見ながら、僕は小声でいただきますと呟いて、細長いスプーンをソフトクリームに挿した。
 正直、これまでソフトクリームはあまり好きな類ではなかったが、一口すくい上げて口に運ぶと、これまでの僕の中の常識が覆されるほど美味しくて堪らなかった。
 とてつもなく濃厚で滑らかなミルクが、口の中を冷やしながら溶けていく。たくさん盛られた苺とチョコレートも、上手くマッチしており、灯子のことも忘れて僕は何口も食べてしまった。
「ねぇ、祐司くん。一口ちょうだい?」
 そう言って、灯子は小さく口を開けた。
 僕は一瞬のうちに、脳内の思考が百回転はしたのではないかと思う。
 その言葉、その行動の意味。一つしかないスプーン。
 そういうことだよな? つまり彼女が求めていて、この流れですべき僕の行動はただ一つ……。
「すみません、スプーンもう一つ貰えますか」
 丁度良いタイミングで通りかかった店員に、僕は声をかけた。
 不思議に思われたかもしれないが、それを表情に出さない辺り、社内教育が徹底されていると思い、子供ながら感心する。
 敢えて目を合わさないようにしていた灯子を横目で見ると、明らかにムスッとしていた。
「ごめんって。はい、口つけてない部分あげるからさ」
 店員が持ってきてくれたスプーンで、反対側の山を削りおろし、僕は彼女の口へとスプーンを向ける。
 もちろん、彼女の本心はわかっていた。だが、そんなにも簡単に操られるのも不本意だったし、いくら好きな人や生きた人間ですらないからといって、女の子相手に、僕の心臓が持つわけがないのが正直なところだ。
 少し不満気な表情をしながらも、灯子は差し出されたスプーンに向かって口を開ける。その瞬間、再び目をキラキラさせ、両手を頬に当てていた。
「んまー!」
 周りに花が咲いたのではと思われるほど、幸せそうな表情だった。
 それと同時に、なくなったスプーンの上のソフトクリームを見て、やはり食べられるのかと若干驚く。
 誰にも見られていないだろうかと、左右をちらりと見たが、皆各々の会話や食事に夢中で、僕のことなど視界にすら入っていない様子だった。
「えへ、最高だね。幸せだよ、ありがとう祐司くん」
 コロコロと変わりながらも、幸せいっぱいの表情を浮かべる灯子。本物の彼氏なら、きっとこの姿を見て、より灯子のことを好きになったのだろうなと思った。
 それでも僕の中には、どこか冷静な自分がいて、目の前にいるこの子が、あの子であればどうだっただろうか、なんてことを考えてしまっている。
 しつこいくらいに頭から離れてくれないあの子の顔を、どうしたら忘れられるのだろうか。
「どういたしまして」
 作り笑いを浮かべて、小声で返事をしながら、ザクザクとしたパフェの下の層を掻き出して食べる。
 灯子は一口で満足したようで、お腹をさすりながら食べる僕の姿を、微笑みながらじっと眺めていた。
 休憩をしながら食べ続け、ようやく最後のチョコレートソースまで平らげる。
 なけなしのお小遣いから、パフェ代を払い、外に出た頃にはもうほぼ日が沈んでいた。
「祐司くん、最後に行きたいところがあるんだ」
 今度は腕を組むことなく、僕の手を取ろうと伸ばしてくる灯子。触れることのできないはずの手に、吸い寄せられるかのように僕もそっと手を伸ばした。
 なぜか、その時は彼女に触れることができた気がした。冷たくも、空気ではない何かに触れたような感覚。
〝最後に〟という言葉に偽りはないようで、手に入れることのできないものたちを見つめていた時と同じく、寂しそうな瞳の中に、僕を映していた。
「うん、いいよ。いこう」
 僕は歩いた。人の流れに逆らうように、灯子についていく。
 次第に空は藍色に染まった。姿を隠していた星が、ようやく活躍の場を与えられたかのように輝き始める。
 そんな星空に手が届きそうなほど高いビルの展望台へと僕らは上った。