春の匂いが漂うような、暖かい日、だったら良かったのに。
 生憎空はどんよりとした重い曇で覆われ、今にも雨が降り出しそうな灰色だった。
 水分をたっぷりと含んだ雲から、地上に零れ落ちない代わりに、制服に花のコサージュをつけた人々の瞳からは、幾筋もの別れを惜しむ涙が溢れている。
 かく言う僕は、涙を流すこともなく、友達への挨拶や写真撮影もほどほどに、校内を回っていた。
 ほとんどの友達が同じ高校に進学するため、卒業したところでまた何週間後には顔を合わせる日々がやって来るのだ。別れるのは友達ではなくこの学校だろう。もう二度と来ることはない、とは言わないが、今後数年はここに来る気がしない。
 誰もいなくなった校舎の三階で、一つ一つ教室覗きながら廊下を進んでいる時だった。
「あの!」
 女性らしい高い声が、背後から聞こえてきた。振り返ると、同じ中学の制服を着た女子生徒が、僕の目を見つめている。
 髪の毛は肩より少し下辺りで切り揃えられており、幼い印象を与える子だった。
「あたしと付き合ってください!」
 勢いに任せて言ったようなその言葉は、廊下の端まで響き渡った。
 一体誰に言っているのかと、後ろを振り向くも、生徒や先生は校庭に屯しているため、僕以外の人がここにいるはずもなく、もう一度彼女の方へと視線を動かすと、真剣な表情をして確実に僕を見つめていた。
「いや、今日卒業式なんですけど……」
「卒業式だからだよ!?」
 話が噛み合わなくて混乱する。まるで僕のことを以前から知っているような口ぶりだが、生憎僕は彼女と話したことも、ましてや顔を見たことすらもないのだ。それとも、どこかで関わりがあったのに、自分が忘れてしまっただけなのだろうか。仮にそうだとしたら申し訳ないが、いくら記憶の糸を手繰ろうと、欠片も思い出せないのは、やはり初めましてだからではと思ってしまう。
「あの、ごめん、君のこと全然思い出せなくて。名前教えて貰っても良い?」
 ある程度、顔を覚えることは得意だと自負していたが、そんなこともなかったのだろうか。
 すると、彼女は廊下を滑るようにして僕の方に近づいてくる。
「あ! そうだよね。初めまして、川田灯子(かわたとうこ)です! これからよろしくね!」
 僕の目と鼻の先で、満面の笑みを浮かべる彼女。あまりに近いため、思わず一歩下がってしまう。
「やっぱり初対面だよね僕たち」
 自分の記憶力のなさに焦ったが、やはり違ったじゃないか。
 というか、なんだこれは。
 卒業式の日に初めましての人に告白されても、どうしたら良いというのだ。今日でもう中学校生活は終わりだというのに。
「そう! あ、そういえば名前は?」
 彼女は僕にそう聞いた。もう意味がわからなくて笑いが込み上げてくる。
 初対面の相手に告白して、それから名前を聞くだなんて。僕は夢でも見ているのだろうか。
 それとも何かのコントかドッキリか? それならとことん乗ってやろうと思った。
藤倉(ふじくら)祐司(ゆうじ)。良いよ、付き合おっか。あ、でも今日で卒業だからもう会えないね。じゃあ別れよう、さようなら」
 笑顔で彼女に手を振って、再び歩いていた方向へと顔を向けて廊下を進もうとした。
「えええ!? ちょっと待って何よそれ!」
 彼女は僕の進路を塞ぐように両手を広げて立ちはだかった。
 その焦り顔を少し見上げて睨みつける。しつこい奴だと、わざとらしく下を向いてため息を一つついてみせた。
「ん?」
 違和感を抱いた。
 足音なく近づいてきた彼女。見上げた顔。そして下を向いた先についていない足。
 もう一度言う。僕は夢でも見ているのだろうか。
 いや、夢であってくれと思ってしまった。
 顔を上げて見つめた彼女は、地面から少し浮いた状態で、廊下を塞いでいたのだ。
「は……?」
 よく見ると、廊下の窓から差した光に照らされ、薄らと透けている。
「ねえ、そんなこと言わないで付き合って! 祐司くんしかいないの! お願い!」
 可愛く両手を合わせ、()も当然のごとく頼み込んでくる彼女。
 一方で、現実を受け入れられない僕は、体も思考も停止してしまう。
 何者なのだこの子は。超能力者かあるいは幽霊か。
 とにかく見てはいけないものを見てしまった気がして、背筋が凍る。
「……お前、何者?」
「お前、じゃなくて川田灯子! 灯子って呼んで!」
 押しの強さにやられてしまう。メインとする話に辿り着かないため、渋々受け入れてもう一度尋ねた。
「灯子……って何者なの? 超能力者? それとも幽霊? というかなんで僕?」
 聞きたいことが次から次へと溢れてくる。
 するとなぜか僕の方が「落ち着いて」と灯子に宥められた。
 いや、これで落ち着ける方がおかしい。僕が取り乱した原因は、明らかに灯子にあるじゃないか。
「もう、そんなたくさん質問されてもわからないよ。まず人のこと幽霊呼ばわりなんて失礼ね。ついこの前まで生きてた、ただの女の子だよ」
 腕を組み、なぜかドヤ顔を決めてみせる灯子。
 この前まで生きてた、ということは、今は死んでいて幽霊状態であるはずなのに、僕の質問の何が間違っていたのだろう。
 そんな疑問と共に、得体の知れない何かから、幽霊であると断定されたことに対する謎の安心感を得ることになった。
「それ幽霊と何が違うんだよ。それで、なんで僕と付き合いたいわけ?」
 僕のことを本気で好いてくれていたとしたら、この質問は失礼極まりないし申し訳ないとも思うが、明らかに僕である必要性を感じられなかったため、聞いてしまった。
 すると灯子は一瞬ぽかんとした表情を浮かべた後、眉間に皺を寄せて、うーんと真剣に考え込んでいた。
 考えないと出てこない時点で駄目だこれは。
「えっとね、多分祐司くん優しいと思うから! あと、付き合わないと死ぬに死にきれないんだよね。ほら、未練ってやつ? あたしね、これから青春を謳歌するぞって時に死んじゃってさ。どうしても、彼氏いない歴イコール年齢ってレッテルをなくしたいの! 彼氏が一度もいないまま死んだ可哀想な女の子になりたくないの! だから付き合って!」
 また更に距離を詰められ、今度は二歩下がる。
 何が「多分優しい」だ。一度も彼氏ができたことがないことも、僕には関係がない。
 ただの成仏目的で、僕を利用するなんて真っ平御免だ。
「めちゃくちゃ直球だね。それ聞く限り、僕じゃなくても良い気がしてならないんだけど。それに、僕は全くこの学校に未練ないから、卒業式である今日で終わりなわけ。だから付き合うことも、灯子の望みを叶えることも、未練を解消させるのも僕には無理。悪いけど、他を当たって」
 それじゃあ、と僕は彼女の横を通り過ぎた。さすがにこれだけはっきりと言えば伝わるだろう。
 ……という僕の考えは甘かったのだと、この後すぐに思い知らされることになるのだった。


「ほら祐司くん! 隣座って!」
 公園のベンチに腰掛け、ここに座れと命じるように、隣をペチペチと叩く灯子。
 誤算だった。灯子がこれほどまでにしつこい奴だとは思ってもみなかった。
 何があったかは、説明しなくてもわかるだろう。あれだけのことを伝えたにも関わらず、灯子は「でも」とか「だって」とか、様々な言い訳や今までの人生についてなど、どこまでも着いてきて語るのだ。
 一切無視し続けたものの、空気を読めないのか、僕のことを気にする様子は欠片もない。
 ついに家にまで辿り着きそうだったため、無視するのを止め、着いてくるなと言うと、どうやら灯子の思う壷だったらしく、にんまりと笑って「やっとこっち見たね」と言われた。
 完全に嵌められている。彼女には敵わないのだとその時思い知らされた。
 その後すぐに、デートに行こうと誘われ、半ば強引に公園へと連れて来られた。もうどうにでもなれと思いながら、昼食も食べないまま座らされたベンチの隣で、灯子は嬉しそうに笑っていた。
「公園デートって憧れだったの。こうしてぼうっと公園を眺めてお喋りしたり、一緒にブランコに乗ったりね。本当はブランコに乗りたいんだけど、変に動かしちゃって、あたしのことが見えない人を驚かすのも可哀想かなと思って」
 あれだけ強引に人を振り回しておきながら、他人には変に優しいのかと呆れてしまう。
 優しいというよりも、怯えられることが怖いのかとも思ったが。
 いずれにせよ、「そうだね」なんて一つも共感していない冷めきった声で答える僕は、彼女よりももっと冷酷な人間なのかもしれない。
「んー、でもやっぱり乗りたい! そうだ、祐司くん! 二人乗りしようよ! あたしが立ち漕ぎするから、祐司くんは座って!」
「はあ!?」
 有無を言わさず、ブランコまで駆け寄っていく灯子。子供は学校にいる時間のため、一人ぼっちでブランコに乗る中学生を馬鹿にしてくる奴はいなかったが、犬を散歩させている人や、お喋りを楽しむ近所の年配の方からは明らかに変な目で見られるだろうと容易に想像できる。
 何よりブランコなんて小学生以来乗っていない。しかも、二人乗りでブランコなんて、ほぼ初めてだ。女子がよくやっている姿は何度か見たことがあるが、そもそもそこまでブランコに興味はなかったし、着席部分があんなにも狭いところに、どうやって二人で乗って漕げるというのだと、客観的に見て思っていた。
 それを今中学生が……いや、一ヶ月後には高校生になる僕が女子と二人で乗るだなんて。
 そんなことを考えているなど、灯子は気づきもしないようで、ブランコのチェーンを持ちながら「早くー!」と叫んできた。
 周りの人々はそんな声は一切耳に入っていないようで、何一つ変わらない空気が流れている。
 そんな中、灯子の声に反応することにどうしても躊躇してしまい、明らかに嫌そうな表情だけを浮かべて、渋々ブランコのところまで歩いていった。
「はいここ、座って?」
 嬉々とした表情で指を差された場所に腰掛ける。錆だらけのチェーンを持ち、そのまま待っていると、僕の背中側から「ほっ!」っと声を出しながら、僅かに空いた板の上に両足を乗せて彼女は立った。
「いくよ! せーのっ」
 ぐんっとブランコが動いた気がした。何となく冷気が伝わる程度で触れてはいないはずなのに、物には反応できるのか、ブランコは動かされている気がする。
 僕もリズムに合わせて地面を蹴った。
 次第にブランコはスピードを上げ、体が前に飛んでいきそうなほど高くなる。
 公園内の木々と同じ高さになった気分だった。近くの道路を走る車も、住宅街の屋根も見える。
 湿気を含んだ重たい空気も、体に当たる時には心地よいほど春の風となり、全身を駆け抜けていった。
 ブランコなんて本当に久しぶりだ。こんなにも体が軽くなるものだったのか。
 背後からは、「きゃはは」と子供のようにはしゃぐ声がする。
 勢いが増し、スカートが風に乗って舞い上がった。それはすぐ前にある、僕の後頭部に冷たく触れる。驚いて、声も出せなかったが、思わず力が抜けてしまい、チェーンから手を離してしまった。
「うわ!」
 そのまま遠心力に乗ることはできず、僕は無様にブランコから滑り落ちる。
 ズリズリと下の固いマットのような部分に手と膝を擦らせた。
「ってぇ……」
 膝を抱えていると、灯子が「大丈夫!?」と言いながらブランコの勢いに合わせてふわりと宙に浮いた。
 ところが、誰も乗せないブランコは未だに止めることができず、そのまま僕の方に目掛けて返ってくる。
 痛みに集中していたため、避ける間もなかった。先程まで二人で乗っていた、あの板が、僕の鼻の先まで近づいてくる。
 反射的に、ぎゅっと目を閉じた時だった。
「カシャン……!」
 チェーン同士が当たったような、音がした。
 幸い僕の顔に衝撃はなく、もしや灯子が止めてくれたのではないかと瞼を開けてみる。
 するとそこには、灯子とは違う制服を着たツインテールの女の子がいて、ブランコのチェーンをしっかりと握りながら、動きを制止してくれていた。
「祐? 大丈夫?」
 振り返りながらそう言うツインテールの女の子の声は、小鳥の(さえず)りのように、高く優しい。
 そんな人に名前を知られていることに一瞬驚いたものの、顔を見るとすぐにその正体に気づいた。
稔莉(みのり)?」
 目尻が垂れ下がり、穏やかな表情の彼女を認知した瞬間、心臓がどくんと跳ねて、体が一気に熱くなる。
 こんなところで会うなんて思ってもみなかった。しかも、ブランコから落ちるなんて、みっともないところを見られてしまい、本当にタイミングが悪い。
 格好悪いと思われたかもしれないと、合わせる顔もなく視線を逸らした。
「……あんまり危ないことしないでね」
 優しい言葉が余計に辛い。
 この人にだけは見られたくなかったと心底思った。
 理由は単純なものだ。稔莉は僕の初恋の人なのだ。
 同じ幼稚園に通っており、お互いを「祐くん」「稔莉ちゃん」と呼び合う、園内でも有名なカップルと言われるほど常に一緒に過ごしていた。
 幼稚園児の恋愛なんて、そう長続きしないと誰もが思っていただろう。実際、親同士もそこまで仲が良いわけではなく、小学校や中学校も別だったため、無理もない。
 僕も当時、そこまで恋愛を意識していたわけもなく、可愛いと思う気持ちはありながらも、特別仲が良くて大好きな友達のような認識だった。
 別れを惜しみながらも卒園し、その後は当然疎遠になった。だが、中学に入学したての頃に入った塾で、僕は稔莉と再会したのだ。
 一目で稔莉だとわかった。癖毛だった髪は、カールをつけたように美しく流れており、すらりと伸びた足は細く綺麗だった。
 稔莉は幼少期よりも確実に可愛くなっていて、初めは目を合わせることもできなかった。だが穏やかな笑顔や優しい雰囲気は当時と変わらず、稔莉から話しかけてくれたこともあり、度々話す仲になったのだ。
 しかし、男女問わず人気のある彼女と話すことは、僕のような人間が堂々とできるはずもない。
 取っている塾の授業が終わってからも、稔莉は毎日最後まで残って勉強していることを知ってから、彼女と時間を合わせるようにして僕も自習室にこもり、凡そ同じタイミングであろう時間に塾を出て、駐輪場で軽く話す日々が続いた。
 このたった一、二分の会話を楽しみに、毎日塾に通いつめた。
 残念なことに、授業の担当者が被ることはなく、同じ教室内で過ごすことはほとんどできなかったが、少しでも稔莉と話せるのであれば十分だった。
 高校は同じところへ行きたかったが、中学一年の頃から、彼女は僕より遥かに賢い女子校を目指していたため、手立てはなかった。
 結果は聞いていないが、きっと彼女は受かっているのだろう。
 私立専願で受験した彼女は、塾に顔を出すことがなくなったものの、丁度明日の昼頃、塾の卒業パーティがあるため、久々に会えることを楽しみにしている時だった。
「ごめん」
 ボソッと呟いてから、少しでも名誉挽回できるよう、痛みなんてなかったかのような振りをして、僕は立ち上がり、砂を払った。
「ううん。じゃあね」
 大丈夫そうだと認識されたのか、そのまま立ち去ろうとする稔莉。
 でも、どうにかもう少しだけ話したくて、僕は聞いた。
「あのさ、明日塾の卒パ行く?」
 聞こえておらず、そのまま帰ってしまったらどうしようかと、心臓が何度も激しく脈を打ったが、無事耳には入っていたようで、稔莉はくるりと踵を返してくれた。
 その表情は眉が八の字に下がっており、明らかに困っているということを瞬時に理解できる。
「ごめんね、行きたかったんだけど、行けないんだ」
 彼女ははにかむような笑みを浮かべ、顔にかかった後れ毛を耳にかけた。
 そうか、行けないのかと、僕は落胆する。明日で会えるのは最後だろうに、どうしたら良いのかわからなくなって、「そっか……」と素っ気ない言葉しか出てこなかった。
 それを表には出すまいと思っていたものの、自然と稔莉には伝わってしまったのかもしれない。
「でも、先生たちに挨拶だけは行こうと思ってるよ。だから、いつもの時間に駐輪場にはいるかも」
 慌てたように言う稔莉を見て、また変に気を遣わせてしまったと不甲斐なく感じる。
 だが、明日もまた会えるのだと思うと、落ち込んだ気持ちが一気に跳ね上がるのがわかった。
 きっとこういう感情が、勝手に外へ出てしまっているのだろうなと思う。
 どうにか誤魔化すために、視線を逸らしながら「あー、そうなんだ」と呟いた。
「うん。だから、私の分まで卒パ楽しんでね」
 稔莉が手の平を見せてくる。ひらひらと振ることもないその手を上げた時が、稔莉と僕の別れの合図だった。
「了解。またどんな感じだったか話すよ」
 次に会う予定もないのに、漠然とした約束を取りつけ、同じように軽く手を挙げる。
 稔莉は笑って公園を出ていった。
 途端に足がじんじんと痛み始め、端の方に移動して屈み込む。
 ズボンを捲って膝を見ると、ズリズリと擦った縦線ができており、血がズボンの裏側にまで滲んでいた。
「あー怖かったね」
 今までどこにいたのかと思うほど、存在を忘れていた灯子が姿を現して話しかけてきた。
 元はと言えば灯子のせいでこうなっているのに、と少しだけ彼女を睨む。だが、そのおかげで稔莉と会えたのかもしれないと考えると、プラスマイナスゼロかと思い、大きなため息を一つついて水に流した。
「本当に散々だよ。で、満足した? そろそろ帰っても良い?」
 ふわふわと舞う灯子に向かって言う。振り回されている分、自分の気持ちは気軽に言いやすい相手だと思いながら。
 すると灯子は、また考える素振りを見せる。またも諦め悪く振り回されるのかと思いきや、意外にも彼女はすぐに頷いた。
「今日はもう良いや! でもまだ行きたいところがあって。そこに今度行こうよ! 明日空いてる?」
 こいつ、さっきまでの稔莉との会話は聞いていなかったのかと思わずガックリくる。明日は卒業パーティがあると話していたではないか。
「明日は塾の卒パがあるから無理。明後日は空いてるけど……」
「あ、じゃあ明後日ね! 中学校前に集合で! 祐司くんの都合の良い時間で大丈夫だよ。来なかったら迎えに行くから安心してね!」
 間髪入れずに話を進められた。明後日が空いてるなんて言わなければ良かっただろうかと思ってしまう。
 だが最後の言葉を満面の笑みを浮かべて言う彼女に、少しだけ背中に冷たいものが流れたような気がして、思わず頷いてしまった。
「やったー! じゃあ、また明後日ね!」
 そう言い残した灯子は、空中でスキップをしながら、嬉しそうに笑い、どこかへ帰って行った。
 とりあえず延々とつきまとわれることだけは避けられたようで、安堵する。
 だが、どうしようか。灯子と付き合う気は全くないわけだが、このままだと今日のような調子がずっと続きそうだ。
 付き合ったら未練解消ができ、灯子はあの世へ、僕は解放される。だが、好きな人である稔莉に誤解されたくはない。
 いっその事、稔莉に相談してみようか。幽霊に、と伝えるかはわからないが、女子に告白されたことについて。あわよくばそれを聞いて嫉妬してくれないかな、なんて。
 馬鹿なことを考えている自分の頭を、ぶんぶんと左右に振る。
 そんな邪念を洗い流すかのように、ポツポツと雨が降ってきた。
「やべ……」
 風邪を引いて、明日稔莉に会えなくなるなんて、たまったもんじゃない。
 大粒になる前にと、僕は公園を抜けて走り出した。


 翌日の卒業パーティは、大盛り上がりだった。
 豪華景品つきのビンゴやゲーム、お菓子を食べながら、受験生らしい歴史クイズをするなど、普段なら考えられないほどの楽しい時間だった。
 先生たちも、ピリピリとした空気感からようやく解放されたこともあってか、学生のノリに合わせて大はしゃぎ。
 僕は凡そ端の方で大人しく過ごしていたが、三年間ここで頑張った思い出や、壁に貼られた数々の名前と合格した学校名を見ると、何だか感慨深くなって、胸が熱くなる。
 稔莉がいれば、もっと楽しかったのに、と残念そうに呟く声はよく聞こえたが、僕も内心はそんな奴らと肩を組んで共感していた。
 本来なら、二時間ほどで終える会も、皆余韻に浸るあまり、夕方の小学生の授業が開始されるまで続行してしまった。
 僕は陽キャのノリについていけるような人ではなかったが、苦しい日々を乗り越えたことを祝う時間は、端にいても楽しいと思えたこともあり、結局最後まで居座ることに。
 ついに解散となると、何人かの女子が泣き出した。そんな女子を慰めるかのように、当たりの景品を多く引いた男子たちが、一緒に駐輪場や駅へと向かう。
 僕は当然のごとく、一人で塾を後にした。
 稔莉が来るのは恐らく二十三時頃だろう。いつも話しているのは、塾が閉まる直前である、その時間帯だからだ。
 まだ夕方のため、一度帰宅してから、夜に再び駐輪場に来ようと自転車の鍵を挿した時だった。
「祐」
 顔を上げると、人気のない駐輪場の入口付近に、制服姿の稔莉が立っていた。
「あれ、いつもの時間じゃなかったっけ?」
 この時間に現れた稔莉を見て、僕は思わず聞いてしまう。何か事情があるかもしれないのに。
「その予定だったんだけど、色々あってね。そういえば、卒パはどうだった?」
 稔莉はゆっくりとスロープを降りて近づいてくる。夕日に照らされ、オレンジ色にキラキラと輝いていた。
「楽しかったよ。先生たちも大盛り上がりでさ。でも、みんな稔莉がいなくて寂しがってたよ」
 クスッと笑ってから、申し訳なさそうに眉を下げる稔莉。
「本当? でも私がいなくても盛り上がったのなら良かった。ここに通うみんななら、どんな時だって楽しめるって信じてたよ」
 今日の様子を振り返ると、確かに稔莉の言う通りかもしれない。
 だが、稔莉がいれば、もっと楽しいのはわかりきったことだろう。
 きっと稔莉がいれば、僕のような陰キャにも声をかけて、全員が平等に楽しめるよう進めたり、テンションが上がりすぎている友達に落ち着けるよう水を渡すなど、さり気ない気遣いで、みんなをまとめていけただろうから。
 そんな思いが表に出ていたのだろうか。稔莉はゆっくりと、僕の顔を覗き込んできた。
「祐、何だか元気ないね」
 上目遣いが可愛い。なんて余計な思考を慌ててかき消す。
 少しの変化に、どうしてこうも気づけるのだろうか。凄いを通り越して、少し怖いくらいだ。
 だが、きっかけとしては丁度良い。僕は灯子について話そうと口を開いた。
「ちょっと悩んでることがあってさ。実は昨日の卒業式の後、告白されて……。まだ全然よく知らない子なんだけど、とりあえず明日一緒に出かけようって誘われてるんだ。行った方が良いと思う?」
 やはりその正体を幽霊と伝えるのは憚られ、僕はやんわりと灯子のことを伝える。
 心臓がバクバクと跳ね上がっていた。頭が真っ白でとりあえず口から出た言葉を紡ぐのみ。
 だが、ふと自分が放った内容を思い返すと、明らかにモテ自慢のようにしか聞こえないことに気づき、絶望する。
 終わった。僕は何を言ってるんだ……。
 頭を抱えて否定しようとするも、稔莉が先に言葉を返してしまった。
「そうなんだ。祐はその子のことが好きなの?」
 嫉妬の空気に変わることを願っていたものの、当然僕らの間に流れるそれに変化はなく、ただ凪のように穏やかな微笑みが僕を見つめるのみだった。
「いや、好きじゃない……」
 僕が好きなのは稔莉だ。
 その言葉が喉元まで来たのに、どうしても音として発することができなくて、胃の中に戻っていく。
 こんなにも簡単な二文字すら、伝えることができない臆病者の自分に嫌気が差した。
「じゃあ、好きになりたいって思う?」
 首を傾げながら尋ねてくる稔莉。
 灯子のことを好きになりたいかどうかなんて、考えたこともなかった。
 振り回されてうんざりする部分は多いが、自分の思いを素直に言える分、確かに一緒にいて楽ではある。だからと言って、好きではないし、好きになりたいかどうかは……正直わからなかった。
 答えられずにいる僕を見て、彼女はまた冷静に話す。
「好きになりたいとか、一緒にいたらどうなるだろうって、楽しみな気持ちがあるのなら行った方が良いと思う。でも、今相手を好きでもなく、好きになりたいとも、その人を知りたいとも思わないのなら、ただ告白されたからって理由で相手を期待させるような行動をとるのは失礼だと思うよ」
 その言葉を聞いて、僕は途端に恥ずかしくなった。まるで自分が失礼な人間であることを、好きな人に堂々と暴露したような形になっている。
 何とか挽回しようと、ぐるぐる思考を巡らせた。
「好きではない……けど、気楽な相手かも。好きになりたいかはわからない、かな」
 中途半端な回答しか出てこなかった。だが、それが本心ではないことを僕は理解していた。
 好きな人は稔莉であるし、好きになりたいかわからないと伝えることで、僕に彼女ができる可能性を想像してもらい、それに少しでもモヤモヤしてもらえたら……なんて甘い考えは妄想の世界だけで済ませておくべきなのに。
 それ以外に、初恋を拗らせた中学生の僕が、稔莉に好意を伝える方法は思い浮かばなかったのだ。
「それなら行くべきじゃないかな。行く前から気持ちが決まっているのに遊びに行くのはどうかと思うけど、行くことで、自分の気持ちがはっきりするのなら、行った方が良いと思うよ」
 稔莉はなんて〝良い子〟なんだろう。これで僕が本気で恋に思い悩んでいるのならば、稔莉は本当に良き相談相手であるはずなのに、君を好きな僕にとっては残酷な答えでしかない。
「……そうだね。じゃあ、とりあえず行ってみるよ。ありがとう、稔莉。でも僕、恋愛とか女心とか、全然わからなくてさ……また相談に乗ってくれないかな」
 終わりに近づくにつれて、どんどん声が小さくなる。ここまで来て、ただ話を聞いてもらって帰る関係にはなりたくなかった。
 最後の足掻きだ。何とか繋がりが欲しくて、言葉という空気を伝い、稔莉に向けて見えない手を伸ばす。
「……いいよ。いつでも側にいるから、何かあったら抱え込まずに教えてね」
 それじゃあ、と稔莉は右手を挙げて、駐輪場から立ち去る。
 ああ、と声にもならない声で、僕も同じように手の平を見せ、その姿を見送った。
 また相談に乗ってくれるんだ。いつでも側にいるって。それに、何かあったら抱え込まずに教えてだなんて。
 どこまで優しいのだ稔莉は。こんなにも優しくしてくれるだなんて、彼女も僕に気があったりするのではないだろうか。
 まるで夢心地のように浮かれた僕は、そのまま何も考えずに自転車を出す。無意識に帰宅ルートへ進みながらも、頭の中は先程の時間を延々と繰り返していた。
 そこでふと、連絡先を交換していないことを思い出す。せっかく無理やり繋げた関係も、これではどうすることもできない。
 慌てて引き返し、駐輪場へ自転車を停め、最後の挨拶をしているであろう塾の中へと駆け込むも、彼女の姿は見当たらなかった。
「あれ? どうした藤倉、忘れ物か?」
 先生に見つかり、声をかけられたが、言い訳を何も考えていなかったため、その質問はある意味有難かった。
「あ、まあ、はい」
 僕は適当に塾内の机の中を覗きながら、授業をしている部屋以外の教室を見回る。だが、やはり彼女はもう既に帰ったようで、もう一度会うことはできなかった。
 先生に最後のお礼を伝え、塾を出る。駐輪場で、また奇跡が起こらないかと願うも、それが叶うことはなかった。
 何となく、察しはついた。振られたのだ。失礼で格好悪い僕の要望に対し、傷つけないよう上手く言葉を選んで避けられた。
「なんだよ……」
 期待した分、突き落とされた気がして僕は駐輪場に落ちていた小石を蹴り飛ばした。
 カンッと誰かの自転車に当たる音がする。
 ああ、これだから自分は振られるんだ。もうどうにでもなれ。
 そう考えながらも、どうしても稔莉が嘘をつくような人だとは思いたくなくて、心のどこかでまた出会える奇跡を望んでいた。
 とにかく、新たな悩みでも用意して待っていよう。もし稔莉と会えないのであれば、灯子と付き合っても……。
 そんな思考が脳裏をよぎったが、今その答えを出すのはやめようと思い留まった。
 明日の自分に任せよう。なるようになれ、と。
 夕日が沈み、星が瞬き始めた。
 空気が冷たくなる中、温かい夕食とシャワーを済ませる。
 そうしてその日は、曇りがかった心に布団を被せ、眠りについた。


 翌日は雲一つない快晴だった。緑の木々が白と桃色のドレスをまとい始め、春の香りを漂わせる。
 在校生は恐らく授業中であろう午後の時間帯に、僕は適当な私服を着て外に出た。
 中学校までの道のりは、歩いて二十分ほどの距離にある。心地よい気候を感じながら、僕は歩みを進めた。
 この時間帯に、中学前に姿を現すと、近所の人に怪しまれるため、パーカーのフードを深々と被り、陰キャの得意技である空気に溶ける、を発動させる。
 幸い通報されることも、声をかけられることもなかったため、僕は中学を囲むフェンスの側まで来ることができた。
 あともう半周も回れば校門に着く、と言うところで、下を向いていた僕の視界に、音もなく人の足が現れる。
「来てくれたんだ! 嬉しい〜! 待ってたよ!」
 恐る恐るフードの端から目の前に立つ人を見ると、あの日と変わらない制服姿で笑う灯子だった。
 僕はほっと肩を撫で下ろし、通行人に変な目で見られないよう、未接続のブルートゥースイヤホンを耳に差し込んで通話中のように話す。
「迎えに来られるのは嫌だからね。ところで、今日はどこに行きたいの?」
 敢えて呆れ顔で言ってみると、灯子はぴたりと隣に並んで僕のことを見上げてきた。
「あたしが連れていってあげるね! はい、腕貸して!」
 空を飛んでいけば早いはずなのに、灯子はわざわざ隣に並んで、腕を組んでくる。
 もちろん物体はないため、感触はなく、微妙に浮かした僕の腕の隙間から冷たい風が流れているような感覚だった。
 これも一種の未練なのだろうか。嬉しそうに僕を見つめながら歩く彼女は、子供のように無邪気で、正直妹ができたような気分だった。
 僕らはそのまま駅へと向かい、電車に乗った。一人分の電車賃で、県の中心部までやってくる。
 都会の街を、キラキラと目を輝かせながら歩いて回った。
 ペットショップの窓ガラスに張りついて、動物たちを愛でたり、商店街の服屋に入ってマネキンのポーズを真似してみたり。
 化粧品売り場のサンプルにそっと触れて、瞼に乗せて見せた灯子だが、青色なんて選ぶから、何だか殴られた後のような顔になっていて、思わず吹き出してしまった。
 そんな僕の反応を見て、慌てて鏡を見ながら目をゴシゴシと擦る彼女に、何だか少し心がほぐされてきたような気がする。
「何してんだよ」
 そんな突っ込みを入れると、灯子は恥ずかしそうに「だってだって」と赤くなりながら言い訳をする。
 そんな時間を、意外にも楽しんでいる自分がいて驚いた。
 周囲のことを考えると、やはり僕の方から堂々と話すことはできないが、灯子は目につくもの全ての感想を述べるように、一人ペラペラと隣でお喋りをする。
 半分以上がどうでも良い内容で、記憶に残りもしなかったが、不思議と苦痛に感じなかった。
 ただ時折、可愛い服やキラキラとしたアクセサリーに手を伸ばしては、すっと引っ込めたり、近くで歩くカップルや子供連れの家族を見ては、寂しそうな瞳になる灯子を見て、蜘蛛の糸のように細い針が胸に刺さったような気分になる。
 生きていたら、きっと彼女は僕なんかよりも素敵な人と出会って、本気で恋をして、付き合って結婚して子供も生まれていたかもしれない。
 尤も、ついこの前まで生きていた、の〝この前〟がいつかは知らないが。
「あ、ねぇ、これ食べたい!」
 虚ろな目をしていたかと思えば、コロッと表情を変え、次の店を示す灯子。
 そこには女子大生やカップルが並ぶ、如何にも女子が好きそうな、オシャレなカフェだった。
「このパフェ食べたいの、お願い……!」
 正直、こんな店に一人で入る陰キャ男子のレッテルを貼られるのは、かなりハードルが高く、僕は「えぇ……」と感情を漏らす。
 それに、灯子は本当に食べられるのだろうか。でも、ブランコや化粧品を触ることができたのなら可能なのか?
 一人で考え込んでいると、今までの強引さはどこにいったかと思うほど、彼女はしょんぼりと肩を落としていた。
「そうだよね……女の子ばっかりで嫌だよね……」
 組んでいた腕もするりと離し、カフェとは反対の方へと歩き出そうとする灯子。
 そんなにも行きたかったのかと、僕は慌てて言った。
「いいよ、行こうよ」
 青春を味わえずに死んだ彼女は、きっとたくさんやりたいことがあったのだろう。
 寂しそうな目に映る世界は、僕がいくら取り戻そうと動いたところで、恐らく本物を手に入れることはできない。
 だが、嘘の世界であっても、体験することができれば、彼女は笑顔で旅立てるかもしれないのだ。
 僕だって、稔莉に思いを伝えないまま死んでしまったとしたら、きっと後悔してあの世になんてとてもじゃないけど行けないし、やり残したこと、叶えたかったことを少しでもできるようにしたいと思うはずだ。
 ならば、灯子も同じだろう。正直、カフェに入ることを喜んでできるわけではないが、僕の少しの我慢が彼女のためになるのなら、行っても損はない。
 すると彼女はこちらを向いて、悪戯っぽく笑った。
「やった! 祐司くんならそう言ってくれると思った!」
 行こ、とまた腕を組む灯子。
 前言撤回。また上手く騙された。
 僕はそのまま流れに乗って並び、カフェへと入る。
 もう良い。今日だけは騙され続けてあげても、死にはしないだろう。
 気持ちを切り替え、案内された席へと座った。彼女が選んだ、大きな苺とチョコレートのパフェを注文する。
 恥ずかしすぎて、不審者のようにフードを深く被った僕とは反対に、向かいの席には終始周りを見渡して楽しそうな灯子。
 周りから見たら、明らかに怪しい男に見えるだろう。
 そんな男の目の前に、程なくして大きなパフェが運ばれてくる。店員が何も声をかけて来なかったことが救いだった。
「うっわぁ! かっわいい!」
 ただのもりもりに盛られたパフェを可愛いと言う気持ちはよくわからなかったが、そんな様子を見ながら、僕は小声でいただきますと呟いて、細長いスプーンをソフトクリームに挿した。
 正直、これまでソフトクリームはあまり好きな類ではなかったが、一口すくい上げて口に運ぶと、これまでの僕の中の常識が覆されるほど美味しくて堪らなかった。
 とてつもなく濃厚で滑らかなミルクが、口の中を冷やしながら溶けていく。たくさん盛られた苺とチョコレートも、上手くマッチしており、灯子のことも忘れて僕は何口も食べてしまった。
「ねぇ、祐司くん。一口ちょうだい?」
 そう言って、灯子は小さく口を開けた。
 僕は一瞬のうちに、脳内の思考が百回転はしたのではないかと思う。
 その言葉、その行動の意味。一つしかないスプーン。
 そういうことだよな? つまり彼女が求めていて、この流れですべき僕の行動はただ一つ……。
「すみません、スプーンもう一つ貰えますか」
 丁度良いタイミングで通りかかった店員に、僕は声をかけた。
 不思議に思われたかもしれないが、それを表情に出さない辺り、社内教育が徹底されていると思い、子供ながら感心する。
 敢えて目を合わさないようにしていた灯子を横目で見ると、明らかにムスッとしていた。
「ごめんって。はい、口つけてない部分あげるからさ」
 店員が持ってきてくれたスプーンで、反対側の山を削りおろし、僕は彼女の口へとスプーンを向ける。
 もちろん、彼女の本心はわかっていた。だが、そんなにも簡単に操られるのも不本意だったし、いくら好きな人や生きた人間ですらないからといって、女の子相手に、僕の心臓が持つわけがないのが正直なところだ。
 少し不満気な表情をしながらも、灯子は差し出されたスプーンに向かって口を開ける。その瞬間、再び目をキラキラさせ、両手を頬に当てていた。
「んまー!」
 周りに花が咲いたのではと思われるほど、幸せそうな表情だった。
 それと同時に、なくなったスプーンの上のソフトクリームを見て、やはり食べられるのかと若干驚く。
 誰にも見られていないだろうかと、左右をちらりと見たが、皆各々の会話や食事に夢中で、僕のことなど視界にすら入っていない様子だった。
「えへ、最高だね。幸せだよ、ありがとう祐司くん」
 コロコロと変わりながらも、幸せいっぱいの表情を浮かべる灯子。本物の彼氏なら、きっとこの姿を見て、より灯子のことを好きになったのだろうなと思った。
 それでも僕の中には、どこか冷静な自分がいて、目の前にいるこの子が、あの子であればどうだっただろうか、なんてことを考えてしまっている。
 しつこいくらいに頭から離れてくれないあの子の顔を、どうしたら忘れられるのだろうか。
「どういたしまして」
 作り笑いを浮かべて、小声で返事をしながら、ザクザクとしたパフェの下の層を掻き出して食べる。
 灯子は一口で満足したようで、お腹をさすりながら食べる僕の姿を、微笑みながらじっと眺めていた。
 休憩をしながら食べ続け、ようやく最後のチョコレートソースまで平らげる。
 なけなしのお小遣いから、パフェ代を払い、外に出た頃にはもうほぼ日が沈んでいた。
「祐司くん、最後に行きたいところがあるんだ」
 今度は腕を組むことなく、僕の手を取ろうと伸ばしてくる灯子。触れることのできないはずの手に、吸い寄せられるかのように僕もそっと手を伸ばした。
 なぜか、その時は彼女に触れることができた気がした。冷たくも、空気ではない何かに触れたような感覚。
〝最後に〟という言葉に偽りはないようで、手に入れることのできないものたちを見つめていた時と同じく、寂しそうな瞳の中に、僕を映していた。
「うん、いいよ。いこう」
 僕は歩いた。人の流れに逆らうように、灯子についていく。
 次第に空は藍色に染まった。姿を隠していた星が、ようやく活躍の場を与えられたかのように輝き始める。
 そんな星空に手が届きそうなほど高いビルの展望台へと僕らは上った。


 どうやって辿り着いたのか、正直記憶は曖昧で、気がつくと綺麗な夜景が広がっていた。
 普段は来たこともないような場所で、少し錆びついた柵と、古びた望遠鏡がいくつか置いてある。
 周りに人はおらず、僕と灯子の二人だけの世界だった。
「綺麗だね」
 灯子が人工的な光を眺めて呟く。僕も同意を示すように、うんと頷いた。
「この光の数だけ……ううん、それ以上に人は生きてるんだよね」
「そうだね」
「温かいね。羨ましいなぁ」
 灯子は身軽な体を持ち上げ、錆びた柵の上に座った。街の方を見つめるその背中を、僕はぼんやりと見つめる。
 一人ぼっちで寂しいという感情が、彼女を包み込んでいるようだった。
「ねぇ、祐司くん」
 くるりと顔だけをこちらに向ける灯子。瞳の中に、街の光が差し込む。僕はその目の奥にあるものを探るように、見つめた。
「あたしと、本当に付き合ってくれない?」
 その言葉は、初めて会った時とはまるで違う雰囲気をまとっていた。本当に、心から彼女は僕との交際を望んでいると、瞬時に伝わってくる。
 まるで、僕があの子に見えない手を伸ばした時のように、灯子は僕の心へと訴えかけていた。
 あの子も、きっとこんな気持ちだったのだろうか。
 あの子は今、どうしているだろうか。
 夕食時だろうか。それとも生真面目に高校入学に向けて勉強しているのだろうか。
 あれから先生への挨拶はできたのだろうか。
 無事に家に帰ることはできたのだろうか。
 ああ、僕は──。
「ごめん、付き合えない」
 一人の女の子と、こんなにも密に関わる機会があったのに、どうしたって稔莉のことが脳裏に浮かんできて忘れられない。
 まるで初恋という名の呪いのようだった。
 こんなにも気軽に話ができて、僕のことを欲してくれる人がいるというのに、僕はいつだって目の前の人に稔莉の姿を重ねてしまう。
 忘れるために灯子を利用することなんてできない。稔莉のことを、簡単に忘れることなんてできない。
 だって好きなのだ。どうしようもなく好きなんだ。
 例え連絡先がなくても、今後の繋がりが持てなくても、この思いを簡単に断ち切って、別の誰かに乗り換えることなんてできない。
 この恋に卒業式が訪れるとしたら、それはきっと稔莉と結ばれた時か、どちらかが死んだ時だろう。
 ビュッと強い風が吹く。三月の夜風は、高い場所ほどより冷たく体に当たる。
 風に乗って、灯子の髪の毛が顔を隠した。その流れに身を任せるように、彼女は顔の向きを街の方へと戻す。
「そっか……わかった。じゃあ、これが本当に最後のお願い。少しで良いから、隣に座って、一緒に夜景を見たいの」
 俯きながら、背中を通して語る灯子。
 寂しい思いに応えられない罪悪感が僕の背中を押すように「わかった」と呟いて、手すりに手をかけた。
 これが最後の願いというのなら、気持ちに応えられない分、少しでも寄り添ってあげよう。
 力をかけながら、僕は足をかけて跨いだ。
 キィッと錆びた鉄が鳴く。
「ふふっ」
 笑い声が聞こえたと思った瞬間、突然、背中をとんっと押された。
 強い力ではないはずなのに、僕はバランスを崩す。
 元に戻ろうにも、変に力を加えたからか、ガキンッと手すりが朽ち、僕の目の前には人々の明かりだけが視界いっぱいに広がっていた。
 落ちる──。
 そう思った時、正面から何かに突き飛ばされた。腐り、壊れた柵も超えて、僕はコンクリートに頭を打つ。
「痛ってぇ!」
 言葉にならない痛みに、頭を抱えて転げ回った。
 幸い血は出ていないようだったが、僕のような石頭でも、絶対にたん瘤にはなっているだろう。
 涙が溢れ、視界不良だったが、押した何かと突き飛ばしてきた何かの正体を知ろうと、僕は目を開けた。
 すると、そこにはぼんやりと白い光を放った何かと、黒いもやをまとう何かがあった。
「え?」
 頭を打った衝撃で、僕は幻覚を見ているのかもしれない。
 拭った涙の先にいたのは、稔莉と灯子だった。
 稔莉はぼんやりではあったが、白い煙のような光を放ちながら、灯子の手首を掴んでいる。
 対して灯子は、今までに見たこともないような、怒りの表情を、稔莉の方に向けていた。
「何するのよ! もう少しだったのに!!」
 掴まれた手を何とか振り払おうと、右へ左へと勢いよく振り回す灯子。
「危ないことはしないでって言ったのに、あなたが約束を破ったのがいけないのよ」
 稔莉は灯子の手を掴んだまま、ふわりと浮かび上がった。僕の存在など、お構い無しに二人の世界に入り込んでいる。
「み、稔莉? 灯子はもう少しだったって、どういう……」
 一気に夢から覚めたようだった。さっと血の気が引いていく感覚がする。
 例えるならそう、夢の中では学校にいるのに、現実は寝坊してしまった日の朝のような。
 そんなどうでも良いことを考える余裕などないはずなのに、考えていなければ自我を保てないような気がして、僕は目の前の出来事を受け入れることに必死だった。
 すると、稔莉が僕の方を振り返って言った。
「この子はね、ずっと一緒に死んでくれる人を求めていたの。謳歌できなかった青春を、誰かとあの世で楽しみたくて、そんな相手を探していたのよ。この前のブランコの時だって、今日だってずっと祐のことを、あの世へ連れていくつもりだったんでしょ」
 稔莉が言うと、灯子は口角を上げ、「ふふっ」と不気味な笑みを見せた。
「そうだよ。祐司くん優しいから。ねぇ、今からでも遅くないよ、一緒においでよ……」
 最後まで言い終わらないうちに、稔莉が灯子の手をぎゅっと力強く握った。灯子の表情が歪み、キッと稔莉のことを睨む。
「この前は、まだ人間に好意を寄せるだけの可愛い霊かと思って見逃してたけど、私の判断が間違っていたのね。ごめんね祐。危険な目に合わせてしまって。でも、もう大丈夫だからね。この子は私が連れていくから」
「嫌だ!」と叫ぶ灯子の手を引き、更に高いところまで浮かび上がる稔莉。
 どういうことだ。稔莉はどうして、灯子と同じように空を飛べるんだ。そしてあの放つ光は何なのだ。
 考えられる最悪の想定を、受け入れたくなくて、僕はその答えに蓋をする。
 それでも、何となく二人と話せるのはこれが最後のような気がしてならなかった。
 だから、これだけは伝えないといけない。
「灯子! 僕はまだ、灯子と一緒のところには行けないよ。でもさ、灯子と過ごした時間は、経験したことのない出来事に溢れていて、凄く楽しかった! だから、またどこかでパフェでも食べて、待っててくれよ!」
 空に向かって叫ぶ。
 般若のような顔になっていた灯子は、僕の言葉を聞くと、力が抜けたように、涙を流し、黒いもやは風に乗って消えていった。
 涙が稔莉の光に照らされ、きらりと光ながら落ちていく。
 そして僕は、大きく息を吸って叫んだ。
「稔莉ー!」
 初めてこんなにも大きな声を出したかもしれない。稔莉は少し驚いた様子で、僕と視線を交えてくれた。
「僕は、昔からずっと稔莉のことが好きだった! 僕が初めて好きになったのは、稔莉なんだ! 塾に入って、再会できて本当に嬉しかった! 稔莉と出会えて、本当に良かった! 稔莉、生まれてきてくれて、ありがとう……!」
 はぁはぁと、息が上がる。
 普段、凪のように穏やかな表情を変えない彼女の目が、今にもこぼれ落ちそうなほどに潤んでいるのがわかった。
 何か言葉を紡ごうと、空で口を動かしているも、その内容は聞こえてこない。
 だが、最後に思い切り微笑んで、光り輝く涙の川を頬に流していた。
「私の方こそ……ありがとう」
 稔莉は最後にそう言い残して、灯子の手を引き、空高く昇っていった。
 次第に彼女たちは夜の星の一部となり、展望台には僕だけが残される。
 僕は力尽きたように、冷たいコンクリートの上に倒れた。
 真っ暗な空だった。人工的な明かりが邪魔をするせいで、数えられるほどの星しか、夜というキャンバスの中に埋め込まれない。
 気づけば僕も、生温い雫が瞼の裏から溢れていた。
 水なのに、体の中から溢れ出した温かいその涙は、生きていることを実感させる。
 消えていく星と、人々の温もりの間に挟まれた冷たいコンクリートの上で、僕は枯れるまで泣き叫んだのだった。



 後日、僕はひっそりと塾に行った。
 卒業したばかりだったし、こんなこと、教えて貰えるかもわからなかったが、僕と彼女の繋がりは、もはやここしかなかった。
 縋るように先生に彼女のことを尋ねると、重い顔つきで別室に案内され、言われたのだ。
 私立高校の受験当日、参考書を読みながら横断歩道を渡っていた稔莉目掛けて、信号無視の車が突っ込んできて、即死だったと。
 ご両親も気が動転してしまい、実際に連絡があったのは、割と最近の出来事らしい。
 周りも受験生ということもあって、せめて皆の受験が終わるまでは生徒には打ち明けないようにと、稔莉のご両親から、塾や中学校にお願いがあったそう。
 稔莉はいつも周りの人のことを思って過ごしていた。そんな姿を、ご両親はずっと側で見ていたからこそ、彼女の死によって、大切な人たちの人生を狂わせることは、稔莉も望んでいないと判断してのことだったらしい。
 その話を聞き、僕はまた涙を流してしまった。それにつられて、先生も目を抑える。
 何とか連絡先やお墓の場所などを教えて欲しいと頼み込んだが、さすがにそれは個人情報なので伝えることは不可能だと断られた。
 粘って聞いてやろうかとも思ったが、止めておいた。真実を知ることができただけでも十分だ。
 僕は先生に深々とお礼を伝え、いつもの駐輪場へと向かう。当然、そこに彼女の姿はなかった。
 狭い駐輪場に、暖かい春の風が吹く。
『いつでも側にいるから』
 耳元で囁かれた気がした。
 きっと、まだこの先しばらくは、稔莉のことを忘れることはできないだろう。
 それでも、僕はあの日、稔莉に思いを伝えることができた。一歩前に進むことができた。
 次、誰に恋をするかはわからない。一生稔莉だけを思い続けるのかもしれない。
 それでも、確実に僕は新たな道を歩み始めたと思う。

 終わるはずだった日に始まった、ある人との関係。
 ある人と出会ったことで、君とまた出会えた。
 始まりはやがて終わりを告げ、伸ばしても届かないところへと消えてしまう。
 それでもまた、新たに始まるのだろう。

 始まるから終わりがくる。
 そして、終わるから始まるんだ。


【完】

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