春の匂いが漂うような、暖かい日、だったら良かったのに。
 生憎空はどんよりとした重い曇で覆われ、今にも雨が降り出しそうな灰色だった。
 水分をたっぷりと含んだ雲から、地上に零れ落ちない代わりに、制服に花のコサージュをつけた人々の瞳からは、幾筋もの別れを惜しむ涙が溢れている。
 かく言う僕は、涙を流すこともなく、友達への挨拶や写真撮影もほどほどに、校内を回っていた。
 ほとんどの友達が同じ高校に進学するため、卒業したところでまた何週間後には顔を合わせる日々がやって来るのだ。別れるのは友達ではなくこの学校だろう。もう二度と来ることはない、とは言わないが、今後数年はここに来る気がしない。
 誰もいなくなった校舎の三階で、一つ一つ教室覗きながら廊下を進んでいる時だった。
「あの!」
 女性らしい高い声が、背後から聞こえてきた。振り返ると、同じ中学の制服を着た女子生徒が、僕の目を見つめている。
 髪の毛は肩より少し下辺りで切り揃えられており、幼い印象を与える子だった。
「あたしと付き合ってください!」
 勢いに任せて言ったようなその言葉は、廊下の端まで響き渡った。
 一体誰に言っているのかと、後ろを振り向くも、生徒や先生は校庭に屯しているため、僕以外の人がここにいるはずもなく、もう一度彼女の方へと視線を動かすと、真剣な表情をして確実に僕を見つめていた。
「いや、今日卒業式なんですけど……」
「卒業式だからだよ!?」
 話が噛み合わなくて混乱する。まるで僕のことを以前から知っているような口ぶりだが、生憎僕は彼女と話したことも、ましてや顔を見たことすらもないのだ。それとも、どこかで関わりがあったのに、自分が忘れてしまっただけなのだろうか。仮にそうだとしたら申し訳ないが、いくら記憶の糸を手繰ろうと、欠片も思い出せないのは、やはり初めましてだからではと思ってしまう。
「あの、ごめん、君のこと全然思い出せなくて。名前教えて貰っても良い?」
 ある程度、顔を覚えることは得意だと自負していたが、そんなこともなかったのだろうか。
 すると、彼女は廊下を滑るようにして僕の方に近づいてくる。
「あ! そうだよね。初めまして、川田灯子(かわたとうこ)です! これからよろしくね!」
 僕の目と鼻の先で、満面の笑みを浮かべる彼女。あまりに近いため、思わず一歩下がってしまう。
「やっぱり初対面だよね僕たち」
 自分の記憶力のなさに焦ったが、やはり違ったじゃないか。
 というか、なんだこれは。
 卒業式の日に初めましての人に告白されても、どうしたら良いというのだ。今日でもう中学校生活は終わりだというのに。
「そう! あ、そういえば名前は?」
 彼女は僕にそう聞いた。もう意味がわからなくて笑いが込み上げてくる。
 初対面の相手に告白して、それから名前を聞くだなんて。僕は夢でも見ているのだろうか。
 それとも何かのコントかドッキリか? それならとことん乗ってやろうと思った。
藤倉(ふじくら)祐司(ゆうじ)。良いよ、付き合おっか。あ、でも今日で卒業だからもう会えないね。じゃあ別れよう、さようなら」
 笑顔で彼女に手を振って、再び歩いていた方向へと顔を向けて廊下を進もうとした。
「えええ!? ちょっと待って何よそれ!」
 彼女は僕の進路を塞ぐように両手を広げて立ちはだかった。
 その焦り顔を少し見上げて睨みつける。しつこい奴だと、わざとらしく下を向いてため息を一つついてみせた。
「ん?」
 違和感を抱いた。
 足音なく近づいてきた彼女。見上げた顔。そして下を向いた先についていない足。
 もう一度言う。僕は夢でも見ているのだろうか。
 いや、夢であってくれと思ってしまった。
 顔を上げて見つめた彼女は、地面から少し浮いた状態で、廊下を塞いでいたのだ。
「は……?」
 よく見ると、廊下の窓から差した光に照らされ、薄らと透けている。
「ねえ、そんなこと言わないで付き合って! 祐司くんしかいないの! お願い!」
 可愛く両手を合わせ、()も当然のごとく頼み込んでくる彼女。
 一方で、現実を受け入れられない僕は、体も思考も停止してしまう。
 何者なのだこの子は。超能力者かあるいは幽霊か。
 とにかく見てはいけないものを見てしまった気がして、背筋が凍る。
「……お前、何者?」
「お前、じゃなくて川田灯子! 灯子って呼んで!」
 押しの強さにやられてしまう。メインとする話に辿り着かないため、渋々受け入れてもう一度尋ねた。
「灯子……って何者なの? 超能力者? それとも幽霊? というかなんで僕?」
 聞きたいことが次から次へと溢れてくる。
 するとなぜか僕の方が「落ち着いて」と灯子に宥められた。
 いや、これで落ち着ける方がおかしい。僕が取り乱した原因は、明らかに灯子にあるじゃないか。
「もう、そんなたくさん質問されてもわからないよ。まず人のこと幽霊呼ばわりなんて失礼ね。ついこの前まで生きてた、ただの女の子だよ」
 腕を組み、なぜかドヤ顔を決めてみせる灯子。
 この前まで生きてた、ということは、今は死んでいて幽霊状態であるはずなのに、僕の質問の何が間違っていたのだろう。
 そんな疑問と共に、得体の知れない何かから、幽霊であると断定されたことに対する謎の安心感を得ることになった。
「それ幽霊と何が違うんだよ。それで、なんで僕と付き合いたいわけ?」
 僕のことを本気で好いてくれていたとしたら、この質問は失礼極まりないし申し訳ないとも思うが、明らかに僕である必要性を感じられなかったため、聞いてしまった。
 すると灯子は一瞬ぽかんとした表情を浮かべた後、眉間に皺を寄せて、うーんと真剣に考え込んでいた。
 考えないと出てこない時点で駄目だこれは。
「えっとね、多分祐司くん優しいと思うから! あと、付き合わないと死ぬに死にきれないんだよね。ほら、未練ってやつ? あたしね、これから青春を謳歌するぞって時に死んじゃってさ。どうしても、彼氏いない歴イコール年齢ってレッテルをなくしたいの! 彼氏が一度もいないまま死んだ可哀想な女の子になりたくないの! だから付き合って!」
 また更に距離を詰められ、今度は二歩下がる。
 何が「多分優しい」だ。一度も彼氏ができたことがないことも、僕には関係がない。
 ただの成仏目的で、僕を利用するなんて真っ平御免だ。
「めちゃくちゃ直球だね。それ聞く限り、僕じゃなくても良い気がしてならないんだけど。それに、僕は全くこの学校に未練ないから、卒業式である今日で終わりなわけ。だから付き合うことも、灯子の望みを叶えることも、未練を解消させるのも僕には無理。悪いけど、他を当たって」
 それじゃあ、と僕は彼女の横を通り過ぎた。さすがにこれだけはっきりと言えば伝わるだろう。
 ……という僕の考えは甘かったのだと、この後すぐに思い知らされることになるのだった。